7-21 レイカ
未だ同日、午後二十二時。
朝方は色々とバタついたけど夕方からバイトに入り、ひいこら言いながらも閉店作業を片付けて、後は帰って寝るだけだった。
……けど、どうやら今日という日はまだ終わらないようだった。
僕が家に入……ろうとすると、玄関前にヤンキー座りをしている女のコがいた。
無地のグレーシャツに、ジーパンというラフな出で立ち。
ただの散歩だと言わんばかりのラフな服装で。
「諭史、ちょっと付き合って――」
早朝に子連れカップルと誤解された片割れ、レイカだった。
レイカは無言で歩きだし、かれこれ四半時が過ぎた。
午前中の雨は干上がり、普段と変わらぬ熱帯夜になっている。
聞こえるのは虫の鳴き声と、二組のサンダルが踵を叩く音だけ。青白い街灯にはカナブンが体当たりをし、どこかでバラエティ番組の笑い声が聞こえる。
歩を進めながらレイカにいくつか声をかけたが「いいから」とだけ言われ、取り合ってもらえない。
僕だってバイト上がりで疲れてるんだぞ……? とは思ったが、口にはしない。
だってレイカはきっとそれ以上に大変な日を過ごしたから。それをセッティングしたのは僕なんだから、知っているに決まってる。
だから僕には疲れていても、レイカに付き合う義務はあるだろう。いや、わざわざ義務なんて言い方をする必要はない。
レイカのために。
今日の今日で僕に会いに来たんだ、そこにはなにかしらの意味が伴うはずなんだ。
そうしてついた目的地。そこはひと月前にレイカと共に過ごした神社だった。
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石段を登り、鳥居を潜る。
境内で僕たちは迎えるものは、なにもない。当然といえば当然だ。
子供が林檎飴を求める姿もなければ、石造りの参道に並ぶ屋台もないし、提灯が僕らの道を明るく照らすこともない。
変わることがないのは僕らが生まれる前から、それよりも遥か昔から同じ佇まいを見せる社が、ひっそりと鎮座するのみ。
――神社とは、女性の体を表すものらしい。
参道とは正しくは産道と書き、お宮を参ったあと、本殿で新しい命を授かり、生まれ変わって再び俗世に戻る。
それが参拝の一連の流れだ。
レイカがここに来たのは、生まれ変わるためなのか。それともひと月前へ遡るためなのか。
レイカは僕のことなど振り返らず、本殿へ向けて足を進めていく。
今日は風のない静かな夜だ。心を落ち着けて話すには、ちょうどいい。
レイカは拝殿の階に腰かけ、お前もここに座れと促す。
僕はそれに倣って座ると、上弦の月が鳥居の真上に凛然と輝いていた。
それを見て僕は「へえ」って情けない声を上げてしまった。
そんな無意識の反応に気を良くしたのか、レイカは笑いながら「いいとこだろ?」と呟いたので、僕は素直にうなずいた。
「こないだ来たときは、ごった返してて見せらんなかったけどね」
「前から、知ってたんだ」
「まあね」
「レイカに景色を愛でる感性、あったんだね?」
肘が脇腹に入って、僕は数秒悶えた。
「ったく、私がそーしたらいけないか、っての」
「冗談だよ、ったく容赦ないなあ……」
「どっちがだよ、まったく……」
僕たちはしばらく黙って月を眺めていた。
お互いの息遣いも聞こえそうなくらい静かな夜。
後ろで僕らを見ている社はどう思っているだろうか。
またうら若き男女が静かな場所を求めてきたと呆れているだろうか。
もしくは以前来たことを覚えていて、野次馬根性全開で早く続きを話せとせっついてるだろうか。
それとも子供を見るような慈愛の目で、僕らの行く末を案じてくれているだろうか。
「……悪かったね」
おもむろにそう言葉を放るレイカ。
果たして、それはどこに向けられた謝罪なのか。
「諭史に、色々やらせちゃって」
「なんだよ、色々って」
レイカは意味ありげな視線だけ寄越し、応えない。
……少し意地悪な問いだったかもしれない。
あまりそれを口にしたくないのだろう、僕だってそうだ。
口にするにも憚られるような、って言うと意味合いが変わってしまうけど……四ヶ月前から続く”色々”だろう。
「諭史に、変な選択を迫って……ごめん」
選択。
あの瞬間、僕は既に選んだようなものだった。けど、そうはならなかった。
僕としてはあの時に取った行動は、自分の持つ選択の中で最良の判断だった。それは間違いないと自信を持って言える。
だがレイカはどうなんだろう。
結局、レイカはそうならなかったことに満足しているのだろうか。
お節介、自惚れじゃないけれど、レイカが考える最良の選択が夏祭り以降も僕と過ごす日々であったなら、それを手放すことにレイカは納得しているのだろうか。
「レイカは……それで、いいの?」
だから僕は、不躾にも直接聞いてしまった。
なんでもないような話題を振るような口ぶりで、あったかもしれない僕らの将来を。
その問いにレイカは一瞥だけくれて、軽く笑った。
「……なんだよ?」
「いや? 諭史がそう聞いちゃうってことは、諭史がそうしたかったわけじゃなかったんだな、って思ってね」
「あ……」
僕はそのレイカの言葉を、すぐ否定できなかった。
レイカは得心がいったように、満足げな表情で夜空を仰ぐ。
この瞬間、きっとレイカとの将来は露ほどもなくなった。
僕の持つ気持ちのベクトルが、真っ直ぐレイカの方を向いていないことを悟られてしまったのだから。
ここに一月前に足を伸ばした時は、自分からレイカに寄り添おうとしたんだ。
だからそれは僕の希望であったはずだった。
でも、レイカはそれを辞退した。
そして馬鹿な僕はそれに対して、それでいいのか念押しをしてしまった。
レイカとしてはその返答で充分だったのだろう。
だって僕の返した言葉はまるで”レイカがそれでいいなら、僕もそれでいい”言ったのと同じだ。
だから、もう僕たちにはこれまでのように不変の関係しかない。男女なんて関係はなく、どこまでも幼馴染という関係。
だから僕も観念して、スイッチを切り替える。
「くそっ、レイカの癖に生意気だなあ」
「は、なによ生意気って。あんたとの間に上下関係なんてないんだから」
「そんなの知ってるよ。ただレイカなんかに、言葉を引き出されたのが悔しいなってね」
「それ、どういう意味よ」
そう言ってレイカは声を荒げて、僕の肩をグーで押し付ける。僕は大袈裟に痛がって、互いに訝し気な視線を交わす。
レイカとの言葉の応酬に、数ヶ月で少しずつ灯してきた熱はない。
僕たちは優佳のいなかった数ヶ月を、天の川に流すことに決めた。そこで起きたことは全てが夢の残滓。
公園で靴飛ばしをしたのはきっと小さかった頃の話だし、レイカが僕にべったりしていたのも小学生の時の話だ。
昔から仲が良かったから夏祭りで一緒に花火も見たはずだし、手だって繋いだのは迷子になって、はぐれないようにするためだった。
そうやって思い出を、書き換えていく。
書き換えなければいけない。
僕たちが目指すのは、昔なじみの異性の友人だ。それ以上も以下もない。
「諭史、アネキと仲直りしろよ」
無表情でレイカは言った。
「諭史がいないと、アネキはダメだ」
僕は返事をせず、耳に意識だけ寄せる。
「私がこんなことを言うのもナンだけど、あんたとアネキが揉めると、家の中がギスギスすんだよ」
おどけた口調で、わざとらしく肩をすくめる。
「だからさ、さっさと引き取って欲しいんだよ。一度同棲したのにケンカして実家に戻すな、迷惑だから」
そして立ち上がって階を降り、僕の方に向き直った。
「いつか二人で親父たちに結婚挨拶に来いよ、私も立ち会うから。だからその時以外でアネキを実家に帰すな、縛り付けておけ」
歯を見せてレイカは笑う、言葉を震わせながら。
僕はその姿を見て、軽く奥歯を噛む。
不意に訪れる悔しさと、嬉しさ。
けれど僕はその感情に名前を付けることを放棄する。
僕にそれは必要ないものだから。
「任せろ」
僕もそう言って笑みを返す。
「そう遠くない未来に――必ず」
すると糸が切れたように、レイカの顔が歪み、俯く。
顔を伏せ、レイカはなにかと戦っている。
けれど僕はその戦いに参加できない。
間違っても、一緒に戦ってはいけない。
僕は、レイカに寄ることもせず、しゃがみ込んだレイカをただ見つめていた。
もうその季節は、過ぎたのだから。
出来ることと言えば、心の中でレイカを励ますことだけ。
優佳が李さんとレイカを会わせようとした真意を僕は知らない。
けれど、その二人の邂逅はやはり間違っていなかった。
だって僕は初めて、見た。
レイカが一人でなにかを決めるところを。
自分の意志で、ハッキリ僕に告げた。
僕との関係を、自分から断ち切りにきた、と。
ややあって、レイカは腕で顔を擦り付け、僕に向きなおった。
「――っ」
僕はその顔を直視できなかった。
だってその顔には……
「……諭史」
やめろ。
「なんで」
そんな顔で。
「なんで、だよ」
僕を見ないでくれ。
「なんで、こんな時にっ……」
僕だって、我慢してるんだから……
「なんで、そんなに笑ってんだよ!」
「だって、だってレイカ! 鼻水が真横にひっついて……!」
「へっ!?」
それを聞いてレイカは自分の頬に手を当て、粘り気のある水分のペタペタに触れて、顔を赤くする。
「な、こ、これはっ……」
「ほら、ポケットティッシュあるからこれで吹きなよ、みっともない……」
僕は笑いながらレイカに救世主を投げ、それをひったくるように受け取ったレイカは、月明かりを背に盛大な鼻チンをした。
耳まで真っ赤だ、ポンコツかよ。
似たような光景がふわっと思い出される。
優佳がいなくなった日、燃えるような夕焼けが差し込んでいたあの日。レイカが僕の代わりに、怒ってくれた日。
人のことで怒って興奮し、涙まで流す激情家。
僕たちに子ども扱いをされたことで捻くれ、五年間も口をきいてくれなかった意地っ張り。
睨むときの目つきや、表情のない時の色気は、一見近寄りがたい雰囲気を醸し出しているけど、話してみると意外と子供っぽいとこがある。
それが、僕の知っている縁藤レイカ。
僕の自慢できる、幼馴染。
「……あんがと」
「うん」
「じゃ――行くね」
鼻をすすりながら、レイカが向拝から参道に出る。
青白い光を浴びるその姿を見て、僕の胸に穴の開いたような喪失感が湧く。
「――」
なにか言葉を掛けようとして……思い留まる。
自然といくつかの思いが次々と浮かぶ。
本当にこれでよかったんだろうか。
まだ助けを必要としているんじゃないか。
この選択を後悔するんじゃないだろうか。
見届けてあげる義務が僕にはあるんじゃないか。
……放っておくと際限なく、湧いては消える僕の庇護欲。
自分がいてあげなければ、なんて勝手な思いでレイカの決心を無駄にしてはいけない。
「そうだ。せっかく神社に来たんだから――」
少し離れたレイカは踵を合わせ、背筋を伸ばして社に向きなおった。
視線を本殿の奥に見据え、手をパンパンと鳴らし、目を瞑る。
十数秒間、本殿を拝み切った後、笑顔に戻り、そして背中を向けた。
「私の顔、ずっと見てた?」
「見てないよ」
嘘だった。
「なら、良し」
「レイカ」
「うん?」
今度は振り向かずに、言葉だけ返す。
「ありがとう」
「……」
「その、家に泊めてくれて助かった。あと楽しかった」
「うん」
「それと……!」
「もう……聞いた」
「え……?」
「さっきの”ありがとな”で全部だろ?」
「……そう、だね」
「うん、じゃ行く」
そう言ってレイカは、片手を上げて参道を後にする。
新しい命を授かり、生まれ変わったレイカは、僕の知っているレイカのようで、知らないレイカだった。
僕はただ、その去っていく背中を見つめていた。
いつもより少しだけ涼しい夏の日。
僕は一人、旅立つ人の背中を見ていた。