僕はあなたより一日でも長く生きます
タイトルとタグで落ちが読めてしまう。
飼っていたうさぎのキキが死んで、もうすぐ一か月たつ。ふわふわのグレーの毛並みがぬいぐるみのようで、名前を呼ぶとぴょこぴょこと寄って来る、とても人懐っこい可愛らしい子だった。
キキが死んでしまったばかりの頃は、あまりにもショックで、悲しくて、何も考えられなかった。思い出すと涙が止まらず、もうペットを飼うのはやめようと、キキが使っていた物は全て処分した。
時間がたってようやく気持ちも落ち着いてきたので、キキと出会ったペットショップにやって来た。ケージはもちろん飼い始めるための道具を一式そろえたのもここだし、フードなどを買うのにも利用していた。ケースの中の可愛い動物たちを見るのはまだ少し辛いが、お世話になった店員にキキのことを伝えておこうと思ったのだ。
目的の相手はすぐに見つかった。彼が休みで出勤していない可能性もあったが、徒労に終わらなくて良かったと胸を撫で下ろす。
「坂井さん、こんばんは」
私が声を掛けると、商品の整理をしていた坂井が顔を上げた。
仕事でストレスが溜まっていた頃、帰りに立ち寄ったこの店でキキを薦めてくれたのが彼だった。
彼はとても動物に詳しく、一人暮らしで飼う場合の良い点と悪い点合わせて丁寧に説明してくれた。穏やかで柔らかい雰囲気の彼は、私と年も近いこともあって話しやすく、いつもキキのことで相談に乗ってもらっていた。
「森さん! お久しぶりですね。最近いらっしゃらないから、どうしたのかなって思ってたんですよ」
ニコニコと人好きのする笑顔で話す彼に、キキが死んだことを伝える。
「それで、坂井さんにはとてもお世話になったので、ご報告しなきゃと思って。あの、色々とありがとうございました。今はまだ新しく何か飼う気にはなれませんけど、いつかまた飼うことがあったらその時は、またお世話になるかもしれません」
「そうですか……。森さん、大丈夫ですか? 少し痩せたんじゃないですか。ちゃんと食べてます? やっぱりショックですよね。すごく可愛がってましたもんね……」
「はい、もう大、丈夫、です……。ごめんなさい、やっぱり思い出すと、駄目ですね。すみません……」
坂井と話す内に、生きていた時のキキと、死んでしまった時のキキを思い出して涙が溢れた。
彼が差し出すティッシュを受け取り涙を押さえて、なんとか気持ちを落ち着かせようとする。
「森さん、もうちょっとで閉店なので、この後一緒に食事でもどうですか?」
これまで坂井とは店で話をするくらいで、プライベートの誘いを受けるのは初めてだった。いつもならそこまで親しくない相手からの誘いに乗ることはないが、キキのいない部屋に帰るのは気が重く、私は彼の誘いを受けることにした。
「お待たせしました。じゃあ行きましょうか」
帰り支度を終えた坂井に連れられて辿り着いたのは、レストランには見えない建物――マンションだった。
「あの、ここは……」
「僕の家です」
あまりにもさらりと事も無げに彼が言うので、私もそのまま促されるまま彼の部屋へと入ってしまった。軽率だとは自分でも分かっている。でも今の私には彼の優しさが必要だった。
「森さんは座っててください」
手伝おうとする私をリビングのソファに座らせ、坂井は一人キッチンで食事の用意を始めた。
坂井の部屋は、男性の一人暮らしにしては綺麗に整理されていて、きちんと掃除も行き届いているように見えた。家具やインテリアは少なく、シンプルだが落ち着く感じがする。キッチンへと続くのとは別にもう一つドアがある。たぶん向こうに寝室があるのだろう。
少しして料理が出来たようで、坂井がキッチンから皿を運んできた。
「坂井さんは、ペット飼ってないんですね」
部屋の中には動物が生活しているような気配はなく、それは今の私にとってはありがたかった。ほんの少しのきっかけでキキとの日々が頭の中に甦る。
「さあ、出来ましたよ」
テーブルの上に並ぶオムライスと野菜たっぷりのスープからは食欲をそそる香りが立ち上っている。
「あと、これもどうぞ」
ワインの入ったグラスが差し出された。アルコールは断ろうとしたが、少し飲んだ方が落ち着くと彼が言うので、乾杯して口を付けた。
「いただきます」
手を合わせてからオムライスを掬って口に運ぶ。
「美味しいです」
「良かったぁー」
私の顔を緊張した面持ちで見詰めていた坂井が安心したように大きく息を吐いた。
「でも、メニューが女子っぽいですね」
「え、森さんこういうの好きでしょう?」
「好きですけど、男の人が作る料理っぽくないから」
「料理は結構得意なんですよ」
そう言って照れたように笑う彼を見ると、なんだか少しくすぐったいような気持ちになった。
「ごちそうさまでした」
ふわふわな卵のオムライスも、あたたかいスープもとても美味しかった。キキが死んでから、こんな風に食事を楽しめたことはなかったかもしれない。温かな料理は彼の優しさのようで、悲しい気持ちを包み込んでくれるぬくもりのように感じられて、私はまた泣いてしまった。止めようと思っても涙が零れる。
「ごめんなさい……」
「謝らないで」
俯いて泣き続ける私を、彼の腕が優しく包み込んだ。
「僕は、あなたをこんな風に悲しませたりしない。あなたを一人になんてしませんから」
そう言ってくれる坂井の胸で、私は声を上げて泣いた。
目を開けると暗がりの中に見知らぬ景色が広がっていた。灯りがないのでよく分からないが、どうやらベッドに横になっているようだ。頭がぼんやりする。泣きながら、私はそのまま眠ってしまったらしい。ということは、ここは坂井の寝室だろうか。ひどく体が重い。
「気がつきましたか」
声のする方に視線を向けると、ベッドの傍に置かれた椅子に座った坂井が見えた。
「体が動きにくいかもしれませんが、少し我慢してください。本当は眠っている内に済ませた方がいいんでしょうけど、すみません、これは僕の我儘です。最期にもう一度あなたと話がしたくて」
彼は何を言っているのだろう? 霞がかかったような頭で必死に状況を把握しようとするが、意味が分からない。なんとか体を動かそうとすると、手首と足首を拘束されていることに気づいた。
「なに、これ……」
「さっきあなたが泣くのを見て決めたんです。ペットが死んであんなに悲しむのだから、僕を失ったらあなたはきっともっとずっと辛いでしょう。僕はあなたを悲しませたくない。だから、絶対にあなたよりも先には死にません。あなたより一日でも長く生きようと思う。でも、いつ何があるかなんて誰にも分からない。突然不治の病に罹るかもしれない。明日事故に遭うかもしれない。そんなことがあったら、僕があなたより先に死んで、あなたを悲しませることになってしまう。それじゃ駄目なんです」
坂井は立ち上がりベッドに一歩近づいた。右手には何か持っている。
「い、嫌……」
助けを求めようとしても、掠れた声は誰にも届かない。
「――だから今、あなたに先に死んでもらいます。安心して。僕もすぐ後を追うから寂しくありませんよ」
内容には不似合いな、ぞっとするほど優しい声で彼が言う。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
今話しているのは、本当に坂井なのだろうか。いつも柔らかい笑顔で迎えてくれて、いつも親身になって相談に乗ってくれた。一緒に食事をして、そっと抱き締めてくれた彼が、なぜこんなことを。
身じろぎ一つできずにただ考えている私の胸に、鋭いナイフが振り下ろされた。