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06 トカゲのビル



 トカゲのビル。


 『不思議の国のアリス』で白兎の執事の一匹であり、巨大化したアリスに暖炉の中から蹴飛ばされる哀れなトカゲ。

 その行動の全ては白兎のためにあり、赤の女王よりも白兎の命令を重きに置く。白兎が物語を終わらせるために動いているのならば、例え己の役目がアリスに蹴飛ばされる役だとしても、役割通りに動こうとする。

 たとえそれが、主人を連れ去ってしまう存在として、疎ましく思っていたとしても。





【06.トカゲのビル】





「これより開廷する!」

「その必要はない」


 ダイヤのトランプ兵によって高らかに告げられた裁判の開始宣言を、女王は素気無く一蹴した。


「単純な話だ。そいつが盗んだ、故にその者の首を刎ねよ」

「そんな!」

「異論は認めない。何故なら私が、裁判長だからだ。……連れ行け」


 納得がいかないと抗議するハートのジャックの主張を静かに聞き流し、|裁判長席(彼女の特等席)でゆっくりと頬杖をついた。つまらない、と表情が雄弁に語っている女王の様子に、閉廷したこの場からそそくさと兵たちが引き上げる。次に首を刎ねられるのが自分になってはたまらないとでもかの言う様に。

 いつもの光景だ、と気にも留めない女王の両肩にずいと誰かの腕が回される。

 否、誰かではなく、こんなことをするのは、こんなことができるのは彼しかいないのだが。


「なんだ、役無(ジョーカー)

「物語通りに進めなくていいの?」

「ハートのジャックの役目は、女王のパイを盗んだ罪で法廷に掛けられる。何も間違ってはいるまい?」

「そう? アリスに裁判に水を挿されないといけないんじゃなかったっけ?」

「アリス? ……今いるアレが、よもやアリスのはずがないだろう」


 深く瞳を閉じてその眉間にしわを刻みながら、女王は深くため息をついた。


「最初に落ちた穴から動かず、小さくなる飲み物に手を出すこともなく、ただ帰してと叫ぶだけの小娘がか?」

「あらら。随分とそこで粘ってるんだね、その子」


 飲まず食わずで叫んでるって、それ衰弱して死んじゃうんじゃない?

 くすくすと笑う彼に、だからアリスではないだろうと結論付けた女王は、ぺしりと彼の腕を叩く。

 放せと意図されたことを汲み取った彼は、するりと腕を抜く。それから女王の空いているひじ掛けへとそっと腰を下ろした。


「今回のジャックにはご愁傷さまって感じだったね」

「どうせ、代わりはまた来る」

「まぁ、この世界がそう作られているけどさ。でも俺にとっての女王は、今の女王だけだよ?」

「女王なんて役が空けばそうはなるまい」

「そうじゃなくて。伝わんないかなぁ、この気持ち」

「どうとでも言ってろ」


 つれないなぁ、とそっと女王の(おとがい)へ指を滑らす。くい、と顔を持ち上げられる。

 否応なしに向けられた彼の顔を、見上げながらも女王は見下した。


「なんだ?」

「いいや。残されるのは御免だって思ってね」

「私に首を刎ねられないとでも思っているのか、お前は」

「さぁどうだろう。そういった意味では、俺が先にいなくなるかもしれないけど。それでも、女王がいない世界なんて耐えられないね、俺は」

「聞きようによっては、情熱的な台詞だな」

「あれ、今のは言葉通りの意味だったのにあれ。女王もしかして、テンプレの方が好き?」


 今度から気を付けるね、とさらりと頬を撫でる。

 無遠慮なその手を切り落としてやろうかとも思った女王だったが、くすりと楽しそうに笑う彼の目を見ると、どうしてだかそんな気がそげていった。興ざめだ、と思いながらその手から離れようと顔をそむける。

 そんな時だった。


「失礼いたします」


 水を挿すように、扉の向こうから声を掛けられたのは。

 トランプ兵ならば決して呼ばれぬ限り声を掛けることはない。どんな火急の用事があろうと、女王の機嫌を損ねて己の頭と別れを告げたくはないのだから。触らぬ神に祟りなし、ではないが、接触を少なくしようとしているのは間違いないだろう。

 それならば、誰か。すい、と視線を扉の方へ向けると、静かに命知らずの素性を問う。


「誰だ?」

「白うさぎの館の家令をしております、トカゲのビルにございます」

「ほう?」


 女王は意外な人物に軽く目を見開いた。僅かに口角を持ち上げた後に、入れ、と入室の許可を出す。

 失礼いたします、と再び告げられてから、ゆっくりと扉が開いた。ぺたりぺたりと素足を赤い絨毯に擦りつけながら、トカゲのビルは裁判長席の前まで進んだ。てらてらと光る鱗を光に反射させながら、それでいて意味もなく朱色の草臥れた蝶ネクタイをしきりに直しながら。

 つるりとした額を床にこすりつけ、だらりと尻尾を伸ばした状態で、ビルは深く頭を垂れた。


「何用だ、トカゲのビル。お前の居るべき場所はここでないだろう?」

「女王陛下においては、ご機嫌麗しく」

「御託は良い」


 用件を手短に言え、そう告げると、何故かビルは口をつぐんだ。

 言うべきか言わざるべきか、御前に立った今でも悩んでいるのだろう。そんなこと、時間の無駄にしかならないだろうに。

 苛立ちだした女王の傍で、彼は目を丸くしながらビルを見ていた。ちょん、と首を傾げる。


「ねぇ、アイツからの伝言は聞いたの?」

「アイツ、とは……?」

「アイツだよアイツ。一人しかいないだろ、女王陛下の狂愛者(メアリ・アン)だよ」

「あぁ……」


 ちなみに、アイツは狭愛者だけど、俺は女王陛下の心愛者だから。そこのところ間違えないようによろしく。

 ぬけぬけとそう言い切る彼の言葉を軽く流して、女王は静かにビルの様子を眺めていた。

 緊張しているのか、チロチロと長い舌が覗く。金色の瞳に細い瞳孔が細やかに揺れている。

 何を緊張する必要があるのか。女王の前に立つのなら、それ相応の覚悟を決めてきたはずであろうに。

 そんなことを思いながらも、女王からは口を開かない。ただ苛立ちを隠さないまま、とんとんとひじ掛けを指で叩き始める。


「女王からの伝言、聞いた?」

「えぇ。確かに」

「それならなんで来たのさ? トカゲのしっぽみたいに、自分で自分の首を切り落とせばいいのに」

「そのようなこと……!」

「それを言うなら、猶更なんで来たの? 女王からの伝言がちゃんと伝わっているのなら、それを意味するのは一つだけでしょ?」


 青緑色の鱗を益々青々とした色に変化させ、ぎょろりぎょろりと慌ただしく視線が揺れ動く。脂汗が止まらない様子のビルに、彼は正しく女王の言葉を伝えた。


「自分の役目が分かっているのなら、己の任務に誠心誠意を込めて働け。役目を果たせない者は必要ない。首を差し出す心意気ならすぐにでも登城しろ、だっけか」


 ねぇ、その答えは、その姿勢でいいってことだよね?


 チャキリと音を立てて、彼は抜刀の構えをとった。くすりと口元だけで笑うその表情は、女王からは見えない。震えあがったビルのしっぽが、ぷつりと切れてしまったのは見えたが。

 切れるのなら、尻尾でなく首であれば手間がかからなかったのに、と思ってしまうのは己の役割をこなしすぎているが故の思考なのだろうか。

 ととん、と素早く叩いていた指を意識して止め、頬杖をついて見守っていた姿勢を正す。

 彼に待てと指示を出してから、それで、と再度問い掛けた。


「三度目は、ない。……ビル、お前は何用だ?」

「わ、私、は」


 ビルの体が震える。ぺたり、ぺたりと脂汗を滝のように流しながら、一歩ずつ女王の元へと近寄る。

 彼が警戒したように軽く刃を見せて威嚇するも、ビルの歩みは止まらない。

 委縮した金色の瞳で、恐々と女王を見上げていた。


「私は、嘆願に、まいりました」


 声が、震える。しゅるり、と喉から息が漏れる。言葉にならない呼気が、無意味にあふれ出て息苦しい。


「早くこの不毛な物語を終わらせて頂きたいのです。私は、白うさぎ様にお仕えしている、しがないトカゲの家令にすぎません。ですが、私の主人は物語に定められたように、白うさぎさま。白うさぎの役目を負う主人がたくさん現れては、消える。私の主人が、どんどん入れ替わられる。女王陛下、主人は一人でいいのです。代わりなどいりません。心からお仕えしたいのは、一人なのです」


 これを言ってもいいものか。これで本当に良かったのか。ビル自身分かっていない。

 ただ、これだけは。ビルの心からの本音だけは、女王に進言したかった。


「主人が変わるのは、もうこりごりです」


 脂汗がレッドカーペットに大きな染みを作っていた。震えが止まらない体が、ぽたりぽたりとその面積を広げている。 

 ただ、言いたいことは言い切った。

 理解されなくてもいい。理解されるはずがない。女王は仕えられる立場の人間なのだから、仕える立場の気持ちなど微塵にも分からないだろう。

 故に、首を斬られることも、それはそれで仕方がないと思う。

 首に体との永遠の別れを告げさせることは未だに恐怖でしかないが、それでもう主人が変わらないのならば、ビルは受け入れる心づもりでいた。


「……そうか」


 ぽつりと、女王が言葉を零した。

 震えながらもその様子を伺おうと顔を上げようとして……ビルはそれがかなわないことを知った。


「それだけならば、用はない」


 ざん、と音が響く。ぐるりと視界が回る。

 そうしてビルが最後に見た光景は、青緑色の血を真っすぐに噴き出している、自分の体だった。


「あーあー、盛大に撒き散らしちゃって」


 まぁ、仕方ないよね、と彼は小さく息をついた。

 首を刎ねれば、切り口である首から盛大に血が噴き出すのは当然のこと。それを刎ねた本人が一番浴びるのも仕方がないこと。

 分かっていながらも、彼は敢えてそれを口にした。顔に跳ねた青緑色の滴を、無感情な瞳で見つめ拭う。


「でも、言う事だけ言わされて首刎ねなんて、本当に報われない役回りだね、コイツ」

「本来の役目は違うがな」

「まぁ、本来の役目を果たせないのなら、そんな役回りでも本望だったのかもね」


 乱暴に返り血を拭って剣を収めた彼は、扉の向こうに後始末をするように告げている。

 その様子を一瞥した女王は、静かに席を立った。後始末の様子など、見る必要もない。

 そもそも、法廷は既に閉廷している。長居をするつもりもなかったのだ。それをイレギュラーたるビルが留めさせた。

 無駄な時間を過ごさせられた、と足元に転がってきたトカゲの頭を蹴付くと、彼が眉をひそめながらそれはさすがに趣味悪いよと少し引いていた。普段からそれくらい引いているくらいでいいのに、と思ったのは伝えはしなかったが。

 少し間を置いて、彼が動き出す気配がする。


「これで、トカゲのビルの役が空いたね女王」

「どうせ代わりはすぐに来る」

「そうだね、それがこの世界の理だ」

「何が言いたい、役無(ジョーカー)

「別に、何も?」


 当たり前のように後ろをついてくる彼の方へ、女王はゆっくりと振り返る。

 彼の背後で、トランプ兵たちがずるりずるりとビルだったものを運び出しているのが見える。無感情にそれを眺めていると、やけにその殺伐とした光景に退避するように笑う彼の笑みが気に障った。

 まるでそうなることを望んでいたかのような反応のように思えてしまう。

 だからこそ、女王は目を細めながらも彼に問うた。


「よもやお前、トカゲのビルになりたいとでも言うのか?」


 役がないからこその、彼であると言うのに。

 役無(ジョーカー)だからこそ、許されていることもあると言うのに。

 だからこそ、女王の傍に置いていたというのに。


 咎められるかのように放たれた言葉に、彼はきょとんと眼を丸くした。そして、まるでその手があったかとでもいうかのようにぽんと手を叩く。

 その反応事態が予想外だったのか、女王までもが僅かに目を見開いた。


「え? 何、その反応」

「……違うのか?」

「まさか! やめてほしいね。俺が、ビルなんかに、なりたいだって? 冗談でも嫌だね」


 本気で嫌そうな彼の姿に、何度か瞬きを繰り返し、そうしてやっと理解した様子の女王。

 そんな姿を見て、彼はくすりと笑った。いつものように、するりと女王を抱きしめるように腕を伸ばす。


「確かにさ、役持ちになるにはその方法があったかって思ったのは間違いないよ」


 でもね、なりたい役は、あいにくと今はないんだ。

 そう続けた彼に訝し気に首を傾げるも、女王はゆっくりと歩みを再開した。

 少なくとも、今のところ彼になりたい役はないらしい。女王と同じように、無理やり役を交代させるようなことをする必要はない。そのことにどこかで安堵しながらも、彼を文字通り引き連れて扉を開ける。

 こもった血の匂いが、開かれた扉から逃げていくのを感じ、胸いっぱいに外の空気を吸い込んだ。


「女王、気にならない? 俺がなりたい役」

「どうせお前のことだ、ハートの(キング)だとでも言うのだろう?」

「んー…、近いけどハズレ」


 肩に回された腕が、小さく力を込めた。

 後頭部に彼の顔が近付いているのが、なんとなくわかった。そっと寄せられる。


「俺がなりたいのは、ハートの女王の一番。ねぇ、いつになったら俺はハートを捧げられるの?」

「さぁな。そんな役になれたらな」

「ほら、またそうやって誤魔化すんだからさ! そんなつれないところも愛してるけどね」

「知ってる」


 お前が私を愛しているのなんて、ずっと前から、偽者のアリスの首を刎ね始めた頃から知っている。

 そう繰り返すと、背後で彼が嬉しそうに笑ったのが分かった。

 その気配をくすぐったく思いながら、女王も小さく口元に笑みを浮かべていた。

 いつものような、蠱惑的な弧を描いた笑みではなく、自然な笑み。

 それを彼が見ることはなかったけれども。



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