05 メアリ・アン
メアリ・アン。
『不思議の国のアリス』で白兎のメイドの一人であり、アリスが間違えられた登場人物の名前。
アリスが冒険した物語の中でその姿の記述がないため、彼女とは出会うことがない人物、と位置付けられている。アリスとは関わってはならない役目であり、その存在はアリスには秘匿されている。
謎に包まれた登場人物であり、その正体を知る者は少ない。
【05.メアリ・アン】
「決して逃がすな! その者らの首を、必ず刎ねよっ!」
回廊を響き渡る己の声。荒い息、追い詰める掛け声、騒がしい足音。数多くのトランプ兵が彼らを追う。
この展開は何度目だっただろうか。“正しい結末”からかけ離れたおしまいを迎えようとしているのは。
「もっと! もっと早くっ! 早くっ!」
「ま、待ってうさぎさん! 待って!」
少女に白うさぎが情をうつしてしまったのは。
偽者と共に、この終わらぬ世界から抜け出そうとしているのは。
いや、それはまだいい。この世界から抜け出したとしても、どうせまた代わりがやってくるだけなのだから。それもいつものこと。
いつものことなのだが、あいにくと、今の女王の機嫌は最悪であった。
「急いで! ほら、もっともっと、早く早くっ!」
「で、でもうさぎさん……っ!」
「でもも言ってられないよっ! トランプ兵に捕まったらおしまいなんだからっ!」
持ち前の脚力も、彼女と言うお荷物の手を引いているために発揮できないのであろう。ぐんぐんと、トランプ兵が彼らとの距離を詰めている。
幸いにもと言うべきか、白うさぎにはソレが悪いことだと理解しているのが救いであるのかもしれない。
「どうしてっ? どうしてワタシたちを追いかけてくるのっ!? ワタシ、何もしてないわっ!」
「だってキミは……っ」
「正しくは、何も出来なかった、だけどね」
「っ!?」
行く手を阻むようにして、彼がどこからともなく現れて立ちふさがる。
軽く肩をすくめながらも、その手は剣に添えられていることから、少なくとも白うさぎたちの味方ではないことが分かる。
一瞬止まりかけた白うさぎだったが、それでもぐっと体に力を込め、脇を駆け抜けようと一層身を低くした。
「逃がすなっ!」
「女王陛下の仰せのままに」
彼に向かって鋭く命令すれば、彼は小さく笑い、そして……
「だから、最初に言ったのにね」
ざん、と白うさぎの、首を、刎ねた。
「裏切るな、って」
忠告は無駄になったね、白うさぎ。
瞳は全く笑っていないまま、彼は器用に笑みを浮かべた。
とんとん、と転がったうさぎの頭は、勢いよく噴出した血飛沫で赤く染まっていた。首から上をなくした残された身体が、ゆっくりと傾ぐ。
少女とつながれた手を、そのままに。
「い、ゃあ……あ、あぁ、あ……」
目を見開いて、信じられない現状にパニックを起こし始めた少女に、女王は無情にも告げた。
「何をしている? 首を刎ねよと言ったのが聞こえなかったのか、トランプ兵っ!」
「はっ!」
体温を失い始めた繋がれた手を握り締め、わななく少女に、容赦などしなかった。
女王はもちろん、それを命じられたトランプ兵たちも。
少女の首を刎ねなければ、己の首を以って償わなければならないことを、目のまで見せ付けられたのだから。それがたとえ、少し前までこの城に出入りしていた、知り合いの白うさぎだとしても。
少女に恨みはないが、本物のアリスでなかったのだから、仕方あるまい。
「かかれっ!」
虫の居所が悪い女王の命令に、トランプ兵は一斉に少女へと飛び掛った。
「い、いやああああああああああああああああああっ!」
ハート型の赤い槍を持ったトランプ兵が、一斉に少女へと飛びかかる。バラバラと宙を舞うトランプ兵は、少女の叫び声をものともせずに槍を突き出した。
白く埋まる視界。こんもりと重ねられたトランプの山。
それらを静かに見下し、女王はすい、と扇を横に振る。
「去ね」
簡素な命令に、素早くトランプ兵はその場から下がる。
少女がいた場所には“白うさぎの亡骸だけ”が残っており、少女の存在など始めからなかったかのように、その痕跡がない。
これが、女王が知る正しい“物語の結末”。
トランプ兵に襲われたところで、アリスは目を覚ますのだ。それから、変な夢を見たのとロリーナに伝える、それだけのお話。
だからそう。この不思議の国ではこれでおしまい。これでいいはずなのだ。
「コレの処理をしろ。また後ほど新しい白うさぎ
が来る」
「はっ! 畏まりました」
「白うさぎが登城したら、謁見の間へ」
「御随意に」
カッ、カッとヒール音を響かせ踵を返す。
どこに行くかは決めていない。ただ、このむせかえるかのような血の臭いから離れられればいい。その思いだけで真っ直ぐ歩く。
顔をしかめてしまうのはどうしようもないが、元々不機嫌だったので問題はないだろう。
「役無」
「何?」
機嫌が悪くても寄ってくる彼に、視線も向けずに問いかける。
「物語は……」
「終わってないね」
「だろうな」
分かってた。あの少女がアリスでないことは。
この物語が終わらないことは。
女王は、グリフォンの言葉が頭から離れなくて、それがずっと心から離れないでいた。終わらせようとしているはずの自分が、終わらせられない原因となってるなんて。
ぎりり、と拳を握った。
「女王」
「なんだ?」
「でろでろに甘やかして欲しいなら、今ここに飛び込んでくればいいよ」
「必要ない」
「つれないねぇ。俺はいつでも待ってるのにさ」
ひょい、と肩を竦めたであろう彼に、小さくため息をついた。いつもの調子に、何故彼は戻れるのか。その神経を疑ってしまう。
ふ、と床に向けてた視線を上げた。
ここにいるはずのない彼女が、にこりと笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。
「ごきげんよう、ワタクシの愛しの女王陛下」
「なんでアンタがここにいるのさ、メアリ・アン」
「そのお言葉、熨斗をつけてお返し致しますわ。役無」
くすり、と可愛い顔立ちに似合わぬ嘲笑を浮かべ、メアリ・アンと彼は静かに火花を散らした。
この二人を会わせると余計なことにしかならない。そのことに頭を抱えたくなったが、女王は深く深く息を付いて諦めた。
「何用だ、メアリ・アン。お前は表には出ない役目のはずだろう?」
「アリスに出会わない役目、であってワタクシが女王陛下へお目通りできない訳ではありませんわ」
お側へお寄りしても? と小首を傾げて問いかけてきたメアリ・アンに、彼が間髪を入れずに断るが、女王はそれを許した。
彼は不服そうであったが、メアリ・アンは勝ち誇ったように笑い、女王の側へと近寄った。そして黒のエプロンドレスの裾を持ち上げ、綺麗に淑女の礼をとる。頭を垂れたまま、メアリ・アンは女王へ告げる。
「ワタクシの愛しき女王陛下のお耳に入れるには、いささか無粋な報告になりますけれども……」
「じゃ、言わなきゃいいんじゃない?」
「黙ってろ役無。……メアリ・アン、報告を聞こうか」
言外に、くだらない事であったらその首を刎ねる、とでも言うかのように、女王が不機嫌そうに鼻を鳴らした。メアリ・アンは特に萎縮するわけでもなく、同じ体勢のまま続けた。
「では、僭越ながら……ビルが職務怠慢中ですわ。主が頻繁に代わるのも、主が不在のことが多いのも、何もかも不満のようで」
「首を刎ねてやれ」
「素晴らしい即答ですわね、ワタクシの愛しき女王陛下」
くすり、と笑みをこぼしたメアリ・アンは、ですが……と言葉を繋げる。
「彼ほど、白兎の館に詳しいものはいないので……そこをなんとか妥協していただかないと、ワタクシ、ちょっと困りますのよね」
「妥協? まさか、俺の女王に妥協しろって?」
「冗談は貴方の存在だけにして頂けませんこと? 誰がワタクシの女王にそのようなことをさせるとでも?」
「はぁ? 誰が」
「そこまでにしろ」
多少のイラつきを言葉に込めながら二人を止めると、しぶしぶと言ったように続けようとした言葉を喉の奥にしまわれた。それでいい。そうでなければ、女王が続ける言葉は「首を刎ねるぞ」の一択しかないのだから。
彼が口を閉ざしたことに優越感を覚えながら、メアリ・アンは再度女王へと頭をさげた。
「彼の役目があるからこそ、ワタクシの役目が上手く果たせるのと同じ。一言でいいのです、ビルに役目を遂行するようにどうぞご命令を」
「そう、お前は私に命令するのか? メアリ・アン」
「滅相もないですわ陛下。これはワタクシの敬愛する愛しの女王陛下に対する、ほんの些細な、そう、お願いですの」
だってワタクシの女王陛下には、もっとずっと前から、お願いしている大事なお約束がございますもの。
だからこれは、ほんの些細なお願いにすぎませんわ。
そう、堂々とメアリ・アンは言い切った。
「もちろん、ワタクシはこれからも仮とは言え主となる役割の白うさぎサマには、存在していることを認識して頂くために誠心誠意込めてお仕えさせていただきますわ。えぇ、それはもう、アリスに間違えて頂くくらいには」
アリスはメアリ・アンは間違えられる。
慌てた白うさぎに、手袋と懐中時計を取って来いと命令されるのだ。
そこで明かされるメアリ・アンという名前。彼女がどんな姿をしていて、どんな存在で、どんな性格をしているのかは、物語の中で明かされはしない。
だが、名前は残っている。物語の一員として、在る存在なのだ。
「ですが、アリスに出会うのはビルと白うさぎで十分。名前だけの存在は必要ないと思いませんこと?」
物語には、直接関係ない存在ですもの。役割として必要なワタクシは、役無とは違いますけれども。
皮肉を込めて見上げられた瞳に、挑発されているのを感じ取ってはいたが、彼は動かなかった。顔には穏やかな微笑を浮かべながらも、笑っていない瞳でただメアリ・アンを見下していた。
その反応は面白くなかったのか、やがて冷めた瞳に代わり、熱っぽい瞳で女王を見上げ、返答を待っていた。
女王は一つ息をついて、彼女に命令した。
「ビルに伝えろ。己の任務に誠心誠意を込めて働け。それが自らの役目と分かっているのなら」
「はい」
「役目を果たせぬ者は必要ない。首を差し出す心意気ならすぐにでも登城しろ」
望むなら、速攻で首を刎ねてやろう。
吐き捨てるように告げられた言葉に、己が言われたわけではないのにも関わらず、メアリ・アンは恍惚とした表情で言葉を噛みしめていた。
うわ、変態臭い。と呟いた彼の言葉は、聞こえたのかそれとも聞こえないふりをしているのか。おそらく後者であるとは思うが。
「はい……、はい。確かに。必ず、メアリ・アンは承りましたわ」
「命令受けたなら、速攻で帰れば? もう用はないでしょ」
「ワタクシの女王陛下、どうぞワタクシの女王陛下出会ってくださいませね」
「女王にそれ以上近寄らないでくれない、変態」
あと、さっきから言いたかったんだけど、女王はアンタのじゃないし。
女王は、あえて彼の言葉を止めなかった。それどころか、するりと腰に回された腕を払いのけることですらしない。すがりつくように、否、まるで大好きなおもちゃをとられまいとする子供のような仕草の彼に、毒気を抜かれてしまったのかもしれない。
先ほどまでの惨状も、苛立たせられるようなメアリ・アンの報告も。
物語が終わらない現状も、今はただ彼がメアリ・アンに嫉妬しているという事実だけが、女王の優越感をくすぐっている。それだけで満たされれば、どれほど気持ちいいか、と思考が流れ始めたところで、女王は小さく頭を振った。
「……メアリ・アン」
「はい、陛下」
「お前もお前の役目を果たせ」
「陛下の御心のままに」
綺麗に一礼したメアリ・アンはゆっくりと姿勢を正し、にっこりと笑った。
「愛しのハートの女王陛下。ワタクシは、陛下が陛下たる間は、ずうっとワタクシの女王陛下の味方ですわ」
ですからどうか、そのままの女王陛下でいて下さいませね。
でないと、ワタクシ。何をするかわかりませんから。
脅しのような、脅しではないような。
そんな意味があるような言葉を述べたメアリ・アンは、ごきげんよう陛下、と足取り軽やかに御前から姿を消した。そう、まるでビルへの命令はついでで、今の言葉を伝えるためだけに来たのだとでもいうかのような、軽い足取りで。
怪訝そうな視線を向けていたが、それでも女王は彼女に対してその無礼者の首を刎ねよ、とは命令をとばさなかった。
「女王、いいの? アイツ、かなり調子乗ってるけど」
「お前もな、役無。いい加減にこの手を離せ」
「それって命令?」
「……命令にしなければ、離さないのか?」
「命令されても離したくないって言うのが本音だけどね。ずっとこうして女王はアイツじゃなくて俺のだって知らしめていたい。このままでいたい」
馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、この男、どうしようもない馬鹿だな。
女王は深くため息をついた。
彼が馬鹿なのは今更ではあるが、それ以上に。それでも、そんな男のことが可愛く見えてきた自分も毒されているような気がして、己も同等の馬鹿なのかもしれないと思い始めた。まさかとは思うが、このハートの女王たる自分が、彼にほだされ始めているなんて。
嗚呼、それも今更な気がするが。
そんなことを思いながらも、女王はしばらくの間、彼に引っ付かれたままでいた。
その気まぐれが、終わるまでは。そのままで。