04 グリフォン
グリフォン。
『不思議の国のアリス』で女王陛下が飼っている、想像上の生き物とされた動物。
もの悲しげな歌を歌う偽ウミガメに辟易している一匹。その強靭な翼で法廷へとアリスを連れて行く役目を担っている。アリスと関わることがとても少ない役であり、物語の終盤でしか出逢えない。
この閉じた世界を自由に飛び回れる翼を持っているため、それなりにこの国の新しい情報に詳しい。
【04.グリフォン】
鷲の上半身とライオンの下半身を組み合わせて作られた、空想上の生き物と言われているグリフォン。
その存在が、今、少女を背に乗せて女王の法廷へと降り立った。
それらが来ることは分かっていた。他でもない女王がそうけしかけたのだから。
「いつ見ても、大きいこと大きいこと……」
彼よりも大きい体躯のグリフォンが、窮屈そうに翼を折りたたみ、少女をゆっくりと地面へとおろしている。
感心しているのか馬鹿にしているのか。その判断は本人に委ねよう。気に障るようなら、その鋭い爪が彼を引き裂くだろうから。
「ハートの女王さま!」
興奮から頬を赤く染めた少女が、大きく叫ぶ。
そんな大声を出さずとも聞こえているというのに。それでも禍根なく帰ってもらうために、女王は眉をひそめたくなるのをこらえた。微笑を貼り付け、少女を手招く。
「グリフォンに無事遭えたようでなによりだ」
「女王さま、これで私、帰れるのよね?」
さぁ、どうだろうな。
からかってやりたくなる気持ちを抑え、女王は鷹揚に頷いた。
おそらく、帰れるだろう。彼女が全ての役持と出会っているのなら。
この物語は、そういう仕組みなのだから。
「グリフォンさん! 私、帰れるの! 帰れるのよっ!」
「あらそう。よかったじゃない」
ぱぁ、と顔を輝かせる少女に、ぐるるると喉を鳴らしてグリフォンは応えた。
長いたてがみに顔を埋めるようにして抱きついた彼女を振り払おうとはしない。むしろ守るように翼を閉じているところを見ると、どうやらグリフォンは彼女を気に入ったらしい。
そんな様子を物珍しそうに見ていた彼が、こわごわと口を開いた。
「まさかとは思うけど、ついてくの?」
「あら当然じゃない。ワタシ、この国にはもう飽き飽きしてたのよね」
「その姿で?」
「ワタシはワタシよ。何か文句でもあるの?」
「文句っていうか、その子、その姿で“外の世界”についてこられたら困るんじゃないの?」
彼にも“外の世界”がどんなものかは知らない。この国を捨てない限り、それを知る必要はない。
だが、グリフォンのその姿は異形のものであるということは、理解している。公爵夫人の元にいるこぶたの赤ちゃんや、カエルやサカナの召使も同様のものだと分かっていての発言である。
いくらグリフォンが賢く、人語を理解し喋ることができるとしても、その姿ばかりは魔法でも使わない限り、偽ることはできない。
「ねぇ、アリス。そうなの? ワタシがついていったら、困るかしら?」
「そんなことないわ! だって、グリフォンさんはいい人だもの!」
「ほら、何も問題はないわ」
勝ち誇ったように笑うグリフォンに、彼はただひょいと肩をすくめただけに留めていた。
その子はまだ子どもだから、楽観的に考えているだけ。
女王には、そんな言葉が聞こえてくるようだった。
呆れたように一つ息をついて、女王はゆっくりと胸元のチェーンを手繰り寄せた。
するすると肌の上を金属のチェーンがかすれる感触が、少しくすぐったい。人肌に温まった鍵を谷間から引きずり出して、その動作に見惚れていたアリスへと声をかける。
「アリス」
「あっ、なぁに。女王さま」
「私がこの鍵で、お前の還り道を開いてやろう。その時に、お前はきちんと別れの言葉を告げなければならない」
赤いハートのペンダントトップの鍵を見せながら、女王は法定をゆっくりと歩いた。
被告人の控え椅子から、証言者の証言台を通り抜け、大きく空いた空間で止まる。
上を見上げると、片手で数える程しか座っていない裁判長席が、やけに高くそびえ立って見える。
「きちんとした別れの言葉って、普通のお別れの言葉と違うのかしら?」
「アリスなら、扉を開けようとすれば分かるでしょ」
「そうなの? なら大丈夫ね!」
何も考えていないのだろう楽観的な彼女に、投げやりに近い言葉を掛ける彼を視線で諌める。
彼と共に何十回と見送ってきた場面なだけに間違ってはいないのだが、少しは演技をしろと言いたい。この少女なら多少のことは問題ないとは思うが、禍根なく“外の世界”に還って頂きたいのだから。
そう、この不思議の国での出来事が、“夢のことだった”と錯覚してしまうかのように、良い思い出だと思ってもらわねば困るのだ。
「この世界、楽しかった?」
「えぇ、怖いこともあったけど……。でもどれもこれも不思議で可笑しくて、とっても楽しかったわ!」
「そう。なら良かったね」
見かけだけは薄らと笑いかけているが、目が全く笑っていない。女王には空々しい乾いた笑みのようにしか見えなかったが、それでもまぁいいだろうと見て見ぬふりをした。
高くそびえ立つ裁判長席を見上げる。
つるりと磨き上げられた裁判長席の高さを誇る裁判台の木目に、そっと手を添えた。ゆっくりと動かす。滑らかな表面に小さなとっかかりを見つけ、女王は小さく爪を立てた。
かり、と隠していたカバーに爪が食い込む。
誰もここにアリスの還り道があるとは思うまい。
それほど巧妙に隠された鍵穴のカバーを開き、かちり、と音を立てて扉の開錠をした。
徐々にその扉の形に切れ目が入り始める裁判台からゆっくりと離れる。
扉の向こうは光で溢れているのだろう。その切れ目からも溢れている強烈な光に、アリスたちは目を細めていた。
ぶるりと、グリフォンが体を揺らして羽を揺らした。
不機嫌そうに細められた猛禽類の鋭い瞳が、女王の赤い瞳とぶつかる。
「ワタシ、飼い主のことなんか知らないわよ」
「そうか」
「アナタ飼い主らしくないし、ワタシが知ってる女王サマとも違うわ」
「そうか」
「……ワタシ、この世界が嫌いよ」
「そうか」
「えぇ。何時まで経っても終わる兆候すら見せない、こんな世界もう大嫌い」
「……そうか」
「そうか、以外に言う言葉はないのかしら?」
半ば話を聞き流していた女王は、呆れたようなグリフォンの言葉に“そうか”と言いかけた口を一度閉じた。
何を言われても仕方がない立場にいるのだから、文句は聞き流す程度に聞いてやろうとしていたのだが、グリフォンにはお気に召さなかったらしい。
そもそも、女王とグリフォンに交流はほとんどない。そんな存在がいると知っているだけである。
グリフォンから女王に接触するなんてことは、首を切られてもいいという覚悟をしなければならない上に面倒なことはしない。対照的に、女王としてもグリフォンという役持ちがいることは理解していたが、アリスを法定に連れてくる存在としてしか認識はしていない。
所詮、名ばかりの飼い主とペットの関係なのだ。
「さぁな。この国の住人でなくなる者に、私がかけるべき言葉があるのか? あぁ、あるとすれば、“その国を捨てた裏切り者の首を刎ねよ”か」
「ワタシ、アナタのそれ、いっちばん嫌いよ」
嘲笑混じりに見下しながら女王が面倒くさそうに吐き捨てると、嫌悪感丸出しにグリフォンが羽を震わせた。ぐるるぅ、と不機嫌そうに喉を鳴らしながら。
少し離れた場所で、不思議そうにこちらの様子を伺っている彼と彼女の声が聞こえる。
「何を話しているのかしら?」「さぁね、飼い主とペットの最後の別れでも交わしているんじゃないの?」「それなら邪魔しちゃダメね」などなど。実際の内容からは全くと言ってもいいほどかけ離れている。
鼻で笑って吐き捨ててやりたい衝動を押し殺し、それで、とグリフォンを尚も見下し続ける。
グリフォンは鋭い眼差しをますます細めて、嫌悪感をぶつけるかのように吐き捨てた。
「首を本当に刎ねてしまう血みどろ女王には、本当に赤がお似合いね」
「褒め言葉として、受け取っておこうか」
「ハートの王様がいない可哀想な女王サマ。止めてくれる相手がいないんじゃ、そりゃこの物語だって終わるはずないわよねぇ」
ぴたり、と女王の動きが止まった。
「どういう、ことだ?」
「自分で考えてご覧なさいよ、ハートの女王サマ。偽ウミガメの陰鬱なエピソードがだぁい好きな、首刎ね女王サマなら、わかるでしょう?」
「おい、グリフォン!」
動揺した女王のことなど気に求めずに、グリフォンはのそりと扉の方へと歩き出した。
ぱたりと強靭な羽は伏せたまま、のそりのそりと足音を立てない後ろ足と、鋭い爪が床を叩く前足を器用に動かしながら。
首だけくるりと振り返り、グリフォンは彼女を誘う。
「さぁ、アリス。行きましょうか。アナタの世界へ」
「えぇ、帰りましょう! 私の世界に!」
「待てグリフォン! まだ話は終わって」
いない、と続けようとした女王に、グリフォンは再び視線を向けた。
あぁ、何だその瞳は。
まるで哀れんでいるかのような、その瞳は。
「ここに許しを与える存在はいないの。こんな物語、必要ないわ」
くすり、とグリフォンが器用に笑った。
彼女がゆっくりと扉へと手を掛け、押し開ける。
光があふれてまともに直視できない。
そんな光の中へ、彼女は駆け出した。
“いつもと同じように”くるりと途中で振り返って、あの言葉を口にする。
「さよなら! 素敵な夢をありがとう!」
どこが素敵なものか!
女王は禍根なく彼女を元の世界へと戻そうとしていたが、そうも言っていられない事情ができてしまった。このまますんなりと、光の向こうへと彼女を還すわけにはいかない。
いや、別に彼女はいいのだ。彼女についていこうとしているグリフォン。あいつはダメだ。
あいつは何を知っていた? 何を知っている?
「待てっ!」
急がないと。
グリフォンからはまだ聞きたいことがたくさんあるのだ。
それをみすみす逃すわけには行かない。ここで見送ってしまったら、“今の”グリフォンと二度と会えないのだから。
「待てと言っている、グリフォン!」
いつもはもどかしいくらいに早く閉まれと思う扉も、今はどうしてそんなにも早く閉じてしまうのかと思ってしまう。
ゆっくりと閉まりゆく扉の向こうで手を振る彼女。勝ち誇ったように笑うグリフォン。
扉が完全に閉じてしまう前に、止めなければ!
「ダメだよ、女王」
駆け出そうとした女王の腰に、するりと腕が回ってきた。
ぴたりと背中にくっつく体温。動き出そうとした女王を絡め止めた、慣れた感覚。
振り返らなくても誰かは分かる。
普段は特段気にもとめてはいなかったが、今は事情が違う。
「放せ役無!」
「だからダメだってば。ほら、笑って見送るんでしょ?」
「今はそれどころじゃ」
「扉が閉まるまで、離さないよ。俺は」
「役無ッ!」
何をふざけたことを抜かしているのだ。今はそんな場合ではないというのに。
女王はがむしゃらに彼の腕から抜け出そうともがいたが、がっちりと捕まえられた彼の腕は、そう簡単に解けはしなかった。
女王は知らない。
女王に止めてくれる存在が、本来ならば存在していたことなど。
女王は知らない。
その存在がいなければ、物語を終わらせることができないのではないかということを。
女王は、本当は知らない。
物語を、どうやって終わらせればいいのか。
それは本物のアリスにしか、本物のアリスにも分かるかわからないのだから。
だからこそ、方法を知っているらしきグリフォンの、数少ない情報も知りたかった。
知らなければならなかった。その機会を今更、こんなことで失われるなど認められるはずがなかった。
「っ、兵は!」
「女王、どうしてそんなにグリフォンに固執しているのさ? 今更そんなにヤツが惜しくなったの?」
「戯言もいい加減に」
「ほら、さよならだ」
ぱたん、と無情な音が響いた。
光が消えると同時に、彼が拘束をほどいた。ゆるりと背中にあった体温が離れる。
支えを失った今、女王は思わずへたりこみそうになった。力がうまく入らない足を意地でも支えさせて、なんとか立っているような状態だ。
「役無ッ、お前……っ!」
なんてことをしてくれたのだ、と女王は鋭く睨むが、言葉に覇気はない。震える唇でなんとか押し出した声は、女王が思った以上にか細く、頼りないものだった。
せめて眼光だけでも強くあれ、とまぶたに力が篭ったのは女王なりの自尊心なのかもしれない。
真っ直ぐに向けた視線の先で、彼は緩やかに笑っていた。
「そんなにグリフォンが惜しいの女王? この、俺よりも?」
「ふざけたことを抜かすな役無」
低い声で唸ったつもりだが、それは果たして震えなかっただろうか。
「俺は、いつだって本気だよ、女王」
それは女王だって分かっているでしょ?
彼は何度も言う。その言葉を何度も女王は聞いている。
だが、女王の心に余裕がない今はいけない。それを嘲笑して流せるような、そんな寛大な心ですら、今はもてそうにないのだ。
「……私が、性質の悪い冗談は嫌いだと分かっていての発言か?」
「それは心外だね。俺の心を疑うつもり?」
疑うも何も、最初から信用などしていないと言うのに。
震える膝に無理やり力を込めているせいか、極度の緊張によるものか、体中から嫌な汗が流れ落ちてくる。不快感から眉をひそめるも、女王は動けなかった。
そう、動けないのだ。
女王が思った以上に、グリフォンの言葉が心に深く突き刺さっているのだ。何も知らない女王を、グリフォン如きが嘲笑ったことも、初めて知らされた物語の内容についても。
「いつでも、俺は女王の味方だって言うのに。女王はそれを信じてくれないのか」
「……下がれ」
「それは命令? 俺の女王さま」
「命令違反として首を刎ねられたいか役無ッ!!」
叩きつけるかのようにして、女王は叫んだ。
血が頭にのぼって、視界が赤くなって見える。どうしてか頭までくらくらしてきた。
どうにも体中が思ったように力が入らなくて、これ以上惨めな姿を誰かに見られたくない自尊心から彼に喚き命令する。
やれやれ、とでも言いたそうにして、彼はひょいと肩をすくめた。
「女王の仰せのままに」
そして音もなく、唐突に彼は姿を消した。
それはそれでいい。いつものことだ。彼は神出鬼没であり、役目に縛られない役無なのだから。
彼の姿が見えなくなると、女王はやがて、ゆっくりと床に座り込んだ。
力が入らない震える体を抱きしめて、ぎゅっと瞳を強く閉じる。
「……私が一番の、道化みたいじゃないか」
この世界が終わるように少女を迎え入れているのに。迎え入れる決断を下している他でもない自分が。ハートの国の統治者たる自分が、終わりを迎えられない要因の一つになっているなんて。
こんな皮肉な喜劇を演じていることにすら気付けなかったなんて。
馬鹿みたいだ。
ギリリ、と真っ赤な口紅が塗られた唇を、女王は強く強くかみ締めた。
つう、と流れた真っ赤な血は、首刎ねが好きなハートの女王によく似合っている、なんて皮肉を言ってくるような相手は今ここにいない。
それを望んだのは自分なのに、どうしていない、と感じてしまった自分に、女王はいっそう強く唇を噛み締めていた。