03 トランプ兵
トランプ兵。
『不思議の国のアリス』で女王陛下の従順な手駒として出てくる兵隊たち。
ハートの女王の気まぐれな“首刎ね”命令に怯えながらも、ハートの城で役目をこなしている。ダイヤは裁判官。スペードは兵士で、クラブは庭師。ハートは城使えの役であり、数字に意味があるのはJ~Kのみである。
過去にアリスと“外の世界”に還ったことがない数少ない役であり、役目の入れ替わり原因は首刎ねがほとんどである。
【03.トランプ兵】
「報告致します。アリスと思われしき存在が、女王陛下の庭園へと侵入致しました」
ようやく来たか。
むしろ遅いくらいだと感じてしまうのは、終わらない物語の繰り返しに感覚が麻痺してしまっているせいだろうか。兵の報告を聞きながら、女王は深く息をついた。
「現在、スペードの5以降の数字持ちが動いております。が、少し前にクラブ兵が侵入方向にて作業を行っていると報告が上がっており、クラブとアリスが接触してしまう可能性も否めません」
「接触、するでしょ。いつものことなんだし」
さらりと言い切った彼に、ゆっくりと視線を向けてやる。
彼は薄らと笑みを浮かべて、女王をエスコートするかのようにその細い腰に手を添えた。
「一種の恒例行事みたいな? 居合わせたクラブ兵にはご愁傷様としか言えないけど」
「……それも、今回のアリス次第だがな」
「本物のアリスならどうするか、なんて。誰にも正解は分からないけどね」
くすりと笑う彼を一瞥しつつも、誘われるかのように庭園へと共に向かう。
カツンカツンと、女王のヒール音が静まり返った廊下に大きく反響していた。
「あぁ、スペード兵は下げていい。アリスは私の客人のようなものだ」
「はっ」
「……代わりに、処理班を待機させておけ」
「……了解しました」
いくつか命令を与えると、従順な兵は是の答えだけを返して下がっていった。
何か言いたいことがあったとしても、それを女王に伝えられるような度胸は持ち合わせていない。それもそうだ。何かを報告するだけでも、その虫の居所が悪ければ首を刎ねられてしまうのだから。余計なことは言わないが身のためである。
それがたとえ、言外に『これから誰かしらの首を刎ねる』と宣言されているようなものだとしても。
「女王も意地が悪いよね。あそこが白薔薇だってこと、分かってて放置しているなんてさ」
「物語の道筋を変えるわけにはいかないだろう? 必要犠牲だと思えばそれまでだしな」
「あーあ、今だけは心から言ってあげれるよ。本当に、ご愁傷様」
何番だかも分からない哀れな犠牲者に、彼はしみじみと呟いた。
本当に心からは思っていないものを。よくぞまぁそこまで白々しく言えるものだ。
女王は呆れながら、ペチンと腰に回された手を叩き落とした。
「あいたっ」
「そろそろ目的の場所に着く。この馴れ馴れしい手を放せ、私の威厳に関わる」
「女王の威厳なんて、俺の前ではあってないようなもんじゃうわちょっと痛いって! 女王痛い痛いっ!」
「お前の首も刎ねてやろうか?」
「首斬られる前に耳千切れるって!」
ギリギリと片耳を引っ張ってやると、彼は涙目になりながら痛い痛いと泣き喚いた。
ざまぁみろ、いい気味だ。
心地よい優越感に浸りながら、女王は乱暴に耳を開放してやった。そして、脇目もふらずに真っ直ぐに目的地へと向かう。
白薔薇が咲き乱れる“アリスがいる場所”へと。
「……急が…と、女王……が来る前に」
「赤……を塗……」
赤いペンキで白薔薇を塗って誤魔化そうなど、動揺しているとは言え、どんなに滑稽なことなのか分かってはいないのだろう。そもそも何故毎回ペンキで塗ろうとしているのか。少しは学べばいいものを。
そこまで考えて、あぁ、学ぶにしてもこの兵は“初めて”の出来事だったな、と女王は皮肉気に苦笑した。
「それなら、わたしも手伝うわ!」
愚かなアリスもペンキを手にとった。それが物語に沿ったことなのか、彼女の意思なのかは女王には分からない。焦る兵とは対照的に、とても楽しそうに赤いペンキで美しい白薔薇を染め始める。
彼が剣帯を軽く掴んで、いつでも抜けるように構えた。白うさぎの先触れがないが、それも致し方ない。時間は待ってくれないのだから。
さぁ、女王の出番だ。
「久々に庭園に来てみたら……何やら面白いことをやっているのだな」
くすりと嘲笑を浮かべて、トントンとレースのついた扇子で口元を叩いて見せる。
びくりと大きく震え上がったトランプ兵が、ばしゃりと赤いペンキをぶちまけて、辺りを真っ赤に染め上げた。じんわりと芝生に広がる赤色のペンキが、独特な香りを辺りに強く放ち始めた。
不快感から眉を寄せると、この世の終わりとでも言うかのように兵は絶望の色を浮かべていた。
「……貴女が、ハートの女王さま?」
この場で何も分かっていないのは彼女だけ。
アリスだけが、きょとんと目を丸くして女王を見つめていた。
「あぁ、私が女王だ。それで、お前は私の大切な薔薇に、何をしている?」
「ペンキを塗ってたのよ。赤い薔薇になるように。白い色が染まるように」
何も分かっていない少女が無邪気に笑った。
子供は何も分かっていない。
“外の世界”から来たから。この子は“初めて”だから。“アリス”だから。
理由などいくらでもある。だが、どれもこれも女王には関係ない。
「そうか。なら私も手伝ってやろう」
「本当! それなら、ペンキはここに」
「但し、私なりのやり方でな」
役無、と小さく呼べば、彼は心得たと素早く動いた。
ザン、と鈍く“何か”が斬れた音がした。
遅れてとさり、と“何か”が落ちる音。そして勢いよく“何か”が吹き出す音。
一色に染まる視界。ペンキの臭いに混ざって漂うキツい鉄錆の匂い。
「え……?」
彼が更に動く。アリスの言葉以外、無慈悲に響く斬撃の音しか聞こえない。
ぴしゃりと、アリスの足元にはねた赤色。
とさりと音を立てて落ちた“それ”と、目が合う。光を失った、濁ったような瞳と。
“それ”が何か、わからないわけではない。理解したくないだけだ。
今先程まで言葉を交わしていた相手の、“生首”だと。
時間を置いて理解し始めた頭と比例するように、どろりとした液体は鮮やかな赤色から黒ずみ始めていた。ぴくりと痙攣していた体も、今はもう動いてはいない。
くすりと、女王は笑った。
「植物の根に赤を吸わせてやれば、花は自然と赤くなる」
「そうだね。ペンキで塗るよりも、ずっと花には優しいんじゃない」
「愚兵に対する罰にもなるし、一石二鳥にもなる。効率的でなによりだ」
女王は満足そうに笑い、そう思わないか? と少女に同意を求めた。
さぁ、アリス。本物のアリスならばどうする? 酷いわと怒るか? 首を切り落とした女王たちに恐れを抱くか? 可哀想と嘆くのか?
「う、ぁ。ぐっ……」
「あぁ、お子さまには刺激が強すぎたか。戻すなら戻せ。そしてこの場から立ち去るといい」
少女にとって少々衝撃的な場面に、吐き気を堪えることが出来なかったのだろう。その場にうずくまって嘔吐していた。
そこにできた二つ分の成れの果て。それを始末にくるのは、もう少し時間が掛かるだろう。
辺りに漂う生臭い臭気に眉をひそめ、女王はゆっくりと踵を返した。
アリスに出会う。それが達成できたのだからここに用はない。今アリスが動けないのなら、女王と話を続ける展開には繋げない。せいぜい、自分で物語を進めてくれと、物語を終わらせてくれと願うだけだ。
「あ、ぅ」
「いいの? 女王、行っちゃうよ?」
「ひぃっ!」
未だ赤い血が滴り落ちる抜き身の刃を見せつけながら、彼は嘲笑を浮かべていた。
少女は彼のことなんて目に入っていない。強烈に印象づけられた場面をフラッシュバックさせられる要因となる、赤く染まった刃から目が離せないでいる。
まるで次はお前の番だとでも言われているかのように、錯覚させられてしまう。
本当にタチが悪い、と思いながらも女王は歩みを止めた。
ゆっくりと振り返る。
「っ、はぁ」
顔色は既に蒼白となり、肩で荒い呼吸を繰り返す少女を見下ろす。
きっと、少女は本物ではないだろうな。
そう、女王は漠然と思った。あくまでも女王の勘に過ぎない。それでも何十回と繰り返してきたのだ。何十回繰り返しても、本物には出会えなかったのだ。だからこそ、どこか確信めいた勘が囁くのだ。
この少女では物語は終わらない。この世界は終われない。
「……還りたいか?」
哀れな娘。
この世界を終わらせたいがために連れてこられた、偽者の娘。
憐憫? いや、これはただの同情心だろう。
小さく呟いた言葉は、少女の耳に届いただろうか。
「……い」
蒼白ながらも泣きそうな顔で、少女は口にした。
「帰りたい」
家に帰して。
こんなおかしな世界じゃなくて。
自分がよく知った、いつもの世界に。
「帰りたい、よぉ……」
彼女は被害者だ。
この世界に振り回された、哀れな少女。
楽しそうに振舞ったって、心のどこかで常に帰りたいと思っている。
それを表に出させたのが女王の言葉だったというだけであって、彼女はきっと、ずっと帰りたがっていたのだ。
「……帰りたければ、グリフォンに遭え」
「……えっ?」
だからこそ、女王は告げた。
「お前はきっと、まだグリフォンには遭っていないだろう? この国の役持の全員と遭わなければ、扉を開くことはできない」
「女王にしてはとっても優しいじゃんか。珍しい好待遇だね」
「黙れ役無」
ひょいと肩をすくめ、口元を引き締めた彼を一瞥し、女王は少女から離れたまま静かに続ける。
「帰り道は、私の法廷にある」
「帰れるの……?」
「帰れる。お前の世界へ続く扉を開いてやろう。お前がこの世界を一度、終わらせるのなら」
少女の瞳に光が宿った。
女王が強く言い切ると、まだ若干青白い顔に笑みを浮かべた。
「帰れるなら、やるわ! グリフォンに遭って、貴女の法廷に行けばいいのね!」
帰れる。元の世界へと、帰れる。
小さく胸に芽生えた希望を糧に、少女は立ち上がった。スカートを翻して、勢いよく駆け出す。
今まであったことなど忘れたかのように。目に焼き付いた惨状ですら、忘れたかのように。
赤い水たまりを踏み越え、赤い雫をその身に跳ねさせても、少女は気にすることすらなくただ真っ直ぐに進んだ。
「あーあ、行っちゃった。あの娘、グリフォンの居場所分かってるのかな」
「分からずともたどり着けるだろうよ。一応、今回のアリスなのだから」
「ふーん、そういうもんなんだ」
「……この世界は、アリスの都合のいいように作用するみたいだからな」
それに振り回され、付き合わされることには、半ば諦めている節もあるが。
皮肉気に笑った女王に、彼は腕を広げ……止めた。
「あ」
「どうした?」
小さく拗ねるかのように唇をとがらせ、もどかしさに耐えるかのように広げた腕を閉じかけては小さく戻す。
何を奇行を繰り返しているのだろうか。女王は怪訝そうに眉をひそめた。
所在がなさそうな腕を持て余しながら、ゆっくりと近づいてくる。
彼にしては珍しく、困ったように眉を下げていた。
「……女王」
「だから、どうした?」
「今すごく女王を抱きしめたいんだけど、今それやったら怒るでしょ?」
「は?」
真面目な顔で何を言い出すかと思えば、そんなくだらないことか。思わず素で聞き返してしまったくらいに阿呆らしい。
小さく吹き出して、女王は腰に手を当てて彼を見下ろした。
「お前はいつも許可など取らないのに、どんな風の吹き回しだ?」
「だって、ほら。今、俺返り血ついてるから、移ったら嫌でしょ? 前も言ったけど、女王に嫌われたくないからね、俺は」
そんなことを言ったこともあっただろうか。
そんな小さなことを気にするなど、本当に馬鹿だ。大馬鹿だ。
女王はいつもよりしおらしい彼の言葉を一笑してやった。
「そんなことか」
「そんなことって、あのね女王」
俺にとってはかなり重要なことなんだけど。
そう続けたかったのだろう彼の言葉を、飲み込ませるようにして人差し指で口元を止めてやった。
きょとんと目を丸くした彼に、女王は艶やかに笑う。
「この世界で一番赤が似合うのは誰だ?」
女王の言葉を飲み込み、理解するまでに時間がかかっているようだ。
ぴたりと動きを止めた彼の口元からゆっくりと指を移動して、そのまま額をついてやった。
軽くよろめいた彼を呆れたように笑い、置き去りにしようと止めていた歩みを進めた頃に、ようやく彼が動き出した。
「ねっ、ちょっと女王! それってねぇいいってこと!? 遠慮なく抱きついてもいいってことっ!?」
「それは私の問いの答えになってないな」
「赤が似合うのはもちろん女王だよ! でっ!? ねぇ、このまま抱きしめてもいいのっ!? ねぇ、このままでも嫌いにならないっ!?」
「役無、しつこい男は嫌われるぞ?」
「ああああああっ!! どっちかわかんねぇえええええ!!」
頭を抱えて悶える彼の愉快な様子を横目に見ながら、女王は楽しそうに。とても楽しそうに笑みをこぼしていた。




