02 白うさぎ
白うさぎ。
『不思議の国のアリス』で、ハートの女王の部下の一匹の白うさぎ。
アリスを“外の世界”からこの物語へと連れてくる役目を担っている。ハートの女王の元までアリスが迷子にならないように、捕まらぬように導く役目でもある。
微妙な距離でもアリスと関わることが多いこの役目故に、アリスと共に“外の世界”へと還ってしまうことが多い。
一番、存在の入れ替わりが激しい役。
【02.白うさぎ】
小さいな。
それが、今回初めて“白うさぎ”を見た時に思った率直な感想だった。
ふわふわとした真っ白な毛並みに、いつもと同じように赤いチョッキを身に付け、ぷるぷると耳を下げて震えている姿は見慣れた白うさぎそのもの。ぎゅっと閉じられている瞳は、間違いなくピンク色であろう。
「顔をあげろ」
「はっ、はひぃっ!」
緊張のあまり、声が裏返ってしまったのだろう。甲高い声が耳に触る。
軽く眉をひそめると、機嫌を損ねてしまったと感じたのだろう。白うさぎはぷるぷるとさらに大きく体を震わせて頭を床にこすりつけた。
「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
ただひたすらに怯える姿に、思わずため息をついてしまいたくなった。そんなことをしたら、きっとこの気の弱い白うさぎは、思い余って倒れてしまうかもしれないが。
ゆっくりと深呼吸をして、静かに目を閉じる。
前の白うさぎは、アリスと共に外の世界へと行ってしまった。
それは仕方がない。白うさぎは一番アリスと関わる存在であり、過去繰り返してきた中で、どの役よりもアリスに情が湧いてしまう確率が高いのだから。それはそれとして割り切ることができる。
物語の欠けた役を埋めるかのように、いつの間にか新たな役目がこの国に存在するようになる仕組みとなっているのは、二桁のアリスを還した時に理解した。
待っていれば、役目を理解した新たな役が現れる。そうして物語を再び始める。
終わらない物語の今では、それが当然の流れとして行われていた。
「いい、許す」
「あり、ありがとうございます……!」
「気が引けるのなら、そのままでいい。私の質問に答えろ」
「ひゃい!」
面倒だなと思いつつも、いつもと同じように白うさぎの役目を理解しているか、確認の質問を口にした。
「お前の役はなんだ?」
「しっ、白うさぎ、ですっ!」
「お前の役目はなんだ?」
「あ、アリスをこの世界に連れてきて、この物語を終わらせる手伝いをすることですっ!」
「よろしい。他は?」
「ほ、ほか、はっ」
じぃっと見つめられていることが分かるのだろう、動揺が言葉の端々に広がっている。
震えながらも言葉を紡いでいたが、他と言われて戸惑っているのだろう。無意味な言葉が、行き場をなくしながら小さな口からこぼれ落ちている。
女王は静かに、続く言葉を待っていた。
「あっ、あのー、えーと、そのー、あー…」
「君のご主人様って誰になると思う?」
「ぴひゃっ!?」
「驚かしてやるな、ソレは気が小さい」
「本当だ。体小さいのに、俺の顔まで跳んでくるとかすごいね」
文字通り飛び上がって驚いた白うさぎを、思わず捕まえてしまったのだろう彼は、愉快そうにまじまじと白い塊を見つめた。
「で、答えは?」
「ひゃ、あのっ。えっ!?」
「君のご主人様は誰?」
「はっ、ハートの女王陛下ですっ!」
遠目でも分かるくらいに震えている白うさぎを哀れに思いつつも、女王は黙って成り行きを見守っていた。
彼のことだ。面白そうだから構っているか、助言をするために構っているかのどちらかだろう。前者の方が多いが、悪いようにはなるまい。
「そう、女王陛下だ。そんな女王陛下に、家臣たる白うさぎの君がすることは、何がある?」
「えっ、あっ、えっと、その……。あっ!」
白うさぎはようやく彼の意図に気付けたらしい。
ピンと耳を垂直に立てて、気付たことに興奮した様子でバタバタと足を動かし、彼の手から逃れようとしている。彼が手を離すや否や慌ただしく女王の前に平伏し、尚も震えながらも興奮したように気付けた言葉を述べる。
「ボクは、女王陛下の従順な白うさぎです! 女王陛下がくだされた命令を遂行します!」
「……時間は掛かったが、まぁ、妥協してやろう」
「す、すみませんごめんなさいごめんなさい!」
彼の手助けがあったが、まぁ気付けないよりはいいだろう。そう思っての言葉だったが、気の弱い白うさぎには真逆の意味でとられてしまったようだ。
イライラするくらいに、再び謝罪の言葉を重ね連ねる。
女王は一つ大きくため息をついた。
「白うさぎ」
「ぴゃい!」
「私の命令は?」
「絶対です!」
「よろしい。以後謝罪は一回につき一度だけにしろ」
「ひゃいっ!」
飛び上がって返事をした白うさぎだったが、口から溢れ出そうになった謝罪の言葉はなんとか飲み込めたようだ。それでいい、と女王は満足そうに頷いて、控えさせていたトランプ兵を呼んだ。
「アレをここへ」
「御意に」
ベルベットの小さな台座に乗せられて差し出されたモノを持ち上げ、ゆっくりと玉座から立ち上がる。
柔らかなレッドカーペットがヒール音を消し、白うさぎへの威圧感を少しでも和らげているといいのだが……。そこまで考えて、女王は何故自分が気を使ってやらなければならないのか、と自嘲した。
「白うさぎ」
「は、はいっ」
「これをお前に渡そう」
差し出したのは、白い手袋と扇子。そして、金色の懐中時計。
前の白うさぎが投げ捨てていった品物たちである。
「お前が、白うさぎだ。屋敷と従者は自由に使うといい」
小さな体には少し大きい品々を大切そうに受け取った白うさぎに、女王は少し悩んだ後、言葉を続けた。
「……白うさぎ」
「はっ、はいっ!」
「この国でアリスに囚われないよう、気をつけろ」
「はい? ……あ、あぁ! ボクが捕まったら、物語が進まないですものね。き、気をつけます」
それだけではないのだが、まぁいい。
何も知らない白うさぎに、本当の意味を察しろというのはどだい無理な話だろう。
女王はただ静かに頷いた。
「決まったのなら、さっさと屋敷へ行くといいかもね」
「ぴゃっ!?」
「君の従者たちが、新しい主人がくるのを首をながぁくして待っているみたいだからさ」
そんなに驚かないでよ、とおどけたように肩をすくめた彼だったが、やがてゆっくりと白うさぎへと手を伸ばす。
びくり、と大きく震えた頭に軽く手を乗せ、小さく呟く。
「 」
ぱたり、と長い耳が動いた。小刻みに震える小さな体躯を、なだめるかのように彼は頭を撫でていたが、その目元は冷ややかである。
「分かったら、行きなよ」
「ぴっ!?」
ぴん、と額をついてやると、白うさぎは文字通り飛び上がって、脱兎のごとくその場から離れて行った。
小さな体でも、その足の速さは変わらないらしい。あっという間にその姿が見えなくなった。
「……余計なことを告げたわけではないだろうな?」
「まさか。女王陛下の意にそぐわないことは、しない主義なんだけど」
「どうだかな」
はっ、と鼻で笑ってやると、俺って信用ないね、と彼は軽薄な笑みを浮かべていた。
それだ。
その笑い方が、信用するには難しいのだ。
全てを見透かしておきながら、人を小馬鹿にしているかのようなその笑みのどこに、信用させられるような要素があるというのだろうか。
「この城で、変わっていないのは私とお前だけだ」
「そうだね。女王の首斬り命令さえなければ、トランプ兵も半分くらいは変わらなかったんじゃない?」
「女王に、首刎ねを止めろと言いたいのか、お前は?」
「まさか。それも女王の役目だからね、俺は、止めはしないよ」
分かっていて言っているのだ、この男は。
……本当にタチが悪い。
額を抑えながら玉座へと戻る。後ろから彼が着いて来ているのは察しているが、それについては咎めまい。咎めるようなことでもない。
大きく息をつきながら、女王は静かに瞳を閉じた。
「役目を放棄することが許されるのは、アリスの還る時だけだ」
「そう、アリスと共に“外の世界”へ還る時だけ。女王に還る気がなければ、役目を果たさないとね」
「まるで、私にとっとと還れとでも言っている口ぶりのようだな」
「女王。その冗談、笑えないんだけど」
とん、と耳元で聞こえた音に、女王はゆっくりと目を開けた。
楽しそうに口元は弧を描いているのに、瞳は決して笑っていない彼の顔が至近距離にあった。
そっと視線を横にずらすと、逃がすものかと閉じ込める彼の腕が両側にあった。
囲われ、見下ろされながらも、女王は赤い瞳で彼を睥睨した。
「……何がしたい?」
「誰よりも女王を還したくない俺に、それを言うの?」
くつりと笑う彼の吐息が、頬を撫でる。
「どの口がそれを言う?」
「この口。女王のソレで塞いでみる?」
減らず口を叩きながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
怪しく揺らめく彼の紫色の瞳を見つめてはみるものの、その真意は読めない。
瞳を閉じることも、逃げようとするでもなく、女王はただ笑った。
「……あぁ、そうだった。お前は私が大好きだったな」
「そう、大好きだよ女王」
「私に嫌われたくなければ、今すぐ離れろ役無」
赤いルージュを塗られた唇に、彼の囁きが触れる。
だが、彼が告げる熱っぽい甘い言葉に対して、女王が返したのは鋭い命令の言葉だった。
落とされる沈黙。無言で交わされる視線の応酬。
先に動いたのは彼だった。
ゆっくりと体を起こして、深くため息をつきながら己の腕から女王を解放する。
「女王陛下のご随意のままに」
俺だって嫌われたくないからね、と軽口を叩く彼の本意はどこにあるのか。
女王に理解する気はさらさらないが、彼に支配されているような圧迫感がなくなったことに、小さく安堵していた。
命令するのは自分だけでいい。ハートの王などいらない。
この国で一番偉いのは、この国で誰からも指図されないのは、この女王だけで十分だ。
だからこそ、この役無の思い通りにはなりたくない。
なってたまるものか。私は、女王なのだから。
「“あの”白うさぎのように、立場を逆転させたいのか、お前は」
アリスに心を囚われ、役目を放棄したいつかの白うさぎのように。
アリスに追われなければいけない立場なのに、アリスを追いかけていた愚かな白うさぎのように。
「何度も言うよ。俺は女王を還したくないだけ」
「答えになってないな。そもそもお前は、言動が矛盾している」
「矛盾するのが恋の奴隷、って言うしね」
言葉遊びをしたいわけではないのに、彼の掴みどころのない言動のせいで有耶無耶にされてしまう。
付きたくなった何度目になるかのため息を飲み込み、女王は尚も覚めた視線で彼を見つめた。
「阿呆かお前は」
「そう? こうして誰もいない空間で、無防備に俺みたいな男と二人きりになっている女王の方だって、人のこと言えないかもしれないけれどね」
女王と彼の他、誰もいない謁見室。
主たる女王を恐れているトランプ兵は、喚ばねば自らは決して来ない。
役無である彼に関わろうとするものなど、誰もいない。
だだっ広いこの空間に、彼と二人きりと改めて認識されたところで、女王は動揺するでもなく笑った。
「だからなんだ」
「……少しは危機感持って欲しいってことなんだけど」
「私が、お前にか? もう少し笑える冗談を言え」
「あぁ、うん。もういいや」
玉座の肘掛に腰を落とし、彼は諦めたように小さく笑った。
それでいい。嘲笑よりも、自然に笑えたその顔の方が気に触らなくて済む。
女王は何も言わず、ただそこに居ることを無言で許しているのみだった。