(3)舌戦
「失礼します」
ノックの後、そう断りを入れてから姿を現した初老の案内役らしい男は、恭しく藍里に一礼してから告げた。
「ヒルシュ様、そろそろ試合開始時刻になりますので、競技場への移動をお願いします」
「分かりました、お願いします」
落ち着き払って立ち上がった藍里だったが、無言のままルーカスが付いて歩き出した為、案内役の彼が怪訝な顔になった。
「ルーカス殿下?」
彼にしてみれば、御前試合を既に何度か経験済みの彼が、ここから先は当事者だけ進む事になるのを知っている筈であり、何故付いて来るのかと言外に尋ねたのだが、それにルーカスは藍里を指差しながら皮肉っぽく言葉を返した。
「別に一緒に競技場に入る訳では無いから良いだろう? この無骨者が歩いている最中に何も無い所で躓いて、壁をぶち壊したりしないか心配なだけだ。案内役のお前の命に係わるかもしれないからな」
「そこまで粗忽者じゃ無いつもりだけど?」
さすがに面白く無さそうな顔付きになった藍里だったが、ルーカスはその抗議をぶった切ってジーク達に向き直った。
「お前は黙ってろ。皆は先に観客席に行ってて構わない」
「分かりました。先に行っております」
「ではお二人とも、こちらにどうぞ」
顔を見合わせて頷いた三人をその場に残して、藍里とルーカスは男に先導されて廊下を進み始めた。そして並んで歩きながら、前を歩く男に聞こえない様に藍里が囁く。
「別にそこまで神経質にならなくても、良いんじゃない?」
それに忌々しげにルーカスが囁き返す。
「一応だ。あそこまで露骨に審判を息のかかった者で固めてきたのを見て、公正さを期待するのは無駄だろう」
「かと言って、試合直前に何か仕掛けるかしらね? 何かあったって言う様なものじゃない」
「何も無いなら、それはそれで良い」
そうこうしているうちに、三人は目的の場所にたどり着き、案内役の男が「後はヒルシュ様だけで」と暗にルーカスに下がる様に告げた為、彼は「分かった」と頷いた。それを見てた藍里は、素直ではない感謝の言葉を述べる。
「無駄足を踏ませて悪かったわね」
それにルーカスは真顔で言い返した。
「さっきも言ったが、無駄足で良かったさ。何があっても負けるなよ?」
「こういう場合は、何があっても勝てよ、じゃないの?」
その問いかけに、ルーカスはそれは尤もだと頷いた。
「なるほど。やはり俺はまだまだらしい」
「十代の若造だしね」
「それを言ったら、お前は十代の小娘だろうが」
「違いないわね。だけど小娘なら小娘なりに、ふんぞり返ってる連中の、神経を逆撫でしてあげるわ」
「期待してる」
そこでルーカスに背を向けた藍里は、目の前の両開きの扉を押し開けて外へ出た。そのまままっすぐ進みながら、背後でゆっくりと扉が閉まるのを気配で感じ取った藍里は、直径約百メートルの円形の地面と、それを囲っている高さ約二メートルの壁と、その上部にある観客席をぐるりと見回して観察した。
(さて、セレナさんから聞いた内容だと、競技場には入口が二つあって、西側は挑戦者の出入り口、東側は対戦相手の出入り口。北側の観客席に公爵の観覧席が設置されている筈だから)
そこで向かって左側に目をやると、ディアルド公爵ランドルフが確かに無表情で席に着いており、藍里は小さく息を吐いた。
(居たわね。だけどいまいち読めない表情なのよね、公爵様って。年期の違いか。そうなると、西側の観客席には挑戦者の身内とか支持者がいる筈で……)
すぐに公爵の観察を諦めた彼女は、歩きながら背後をちらりと振り返ったが、視界に入った光景を見て、思わず笑い出しそうになった。
(うん、見事にうちの家族だけだわ。下手に近くに座って、肩入れしていると思われたく無いんでしょうね。……でも、ジークさん達は良いのかしら?)
家族のすぐ後ろに、当然の様にジーク達が座っているのを認めて、藍里は思わず三人の立場を心配したが、この場でどうこうできる筈も無い為、彼女は再び進行方向に視線を戻した。
(それから……、あらまあ、対戦者の方は鈴なりだこと。最前列の顔付きが険しい夫婦って、やっぱり両親のオランデュー伯爵夫妻かな? その横に、この前丁重なご挨拶を頂いたアメーリア様。婚約者だから居るのは当然だとしても、相変わらずそんな憎々しげな顔をしてると、美貌が台無しって教えてあげる人はいないのかしら?)
真面目にそんな事を考えていると、至近距離から声がかかった。
「おい、小娘」
いつの間にか対戦相手のすぐ前に来ていた事に気が付いた藍里は、目の前の二十代後半に見える男に、素っ気なく言い返した。
「何でしょう。礼儀知らずの物知らずさん」
「何だと!?」
思わず声を荒げて怒鳴りつけようとしたアンドリューだったが、ランドルフが居る辺りから鋭い叱責の声が飛んでくる。
「何を騒いでいる! 公爵閣下の御前だぞ!!」
「ちっ……」
忌々しげに舌打ちしてアンドリューが口を閉ざすと、どうやら進行役らしい男が、ランドルフに恭しく声をかけた。
「それでは閣下。時間になりましたので、試合開催の宣言をお願いします」
「分かった」
そこで鷹揚に頷いてゆっくりと立ち上がったランドルフは、朗々と張りのある声を、競技場の隅々にまで響かせた。
「この場に集まった皆に宣言する。この度、私こと、ランドルフ・アル・ディアルドは、アンドリュー・オランデューが保持するディル位をかけて、アイリ・ヒルシュが彼に挑む事を了承し、この場でそれを見届ける事にする」
ここまでは通常の御前試合の宣言の内容と何ら変わる所が無い為、観客は静かに公爵の言葉に聞き入った。しかし次の言葉に、大方の者が顔を見合わせる。
「尚、この試合の審判として、四人のディル位保持者が自ら名乗り出た事を嬉しく思い、試合の運営と安全を保証してくれた事に感謝し、それに関しての全権を与える事を併せてここに宣言する。宜しく頼むぞ、カール、ロナルド、パトリック、アスター」
塀の上に待機していた四人は、名前を呼ばれたと同時に立ち上がってランドルフに一礼し、四人を代表してカールが恭しく請け負った。
「お任せ下さい。問題無く、遂行してご覧に入れます」
それを観客席の中を移動しながら聞いたルーカスは、憤慨した様子で空いていたセレナの隣の席に腰を下ろしながら悪態を吐いた。
「あいつら、立候補しやがったのか!? それなのに、どうして父上はそのまま受け入れるんだ! 茶番も良い所だろうが、あいつら絶対何か企んでやがるぞ!?」
「ルーカス様、声が大きいです」
「構わん! どうせ向こう側には聞こえないだろうし、仮に聞こえてもあいつらが気にする筈無いだろ!」
「ですが……」
困った顔でセレナが宥めているうちに、進行役が対戦者二人に向かって声をかけた。
「それでは試合を開始します。双方、武器を構えなさい」
それに応じてアンドリューは持参した剣を鞘から抜き放ったが、藍里は小さく「グエス、ア、タス」と唱えて、左腕に装着している紅蓮から藍華を取り出して構えた。すると、それを見たアンドリューがせせら笑う。
「何だ、その不格好な槍は? 随分珍妙な姿で出て来たと思ったら、ヒルシュ家は武器までまともな物を用意できないとみえる」
しかし藍里は淡々と言い返した。
「まともな武器を用意しても、珍妙な衣装の女にズタボロにされたんじゃあね……。本当に、あなたのお兄さんには同情するわ。ああ、勿論、あなたにも同情してあげるから」
その痛烈な皮肉に、アンドリューは忽ち憤怒の顔付きになった。
「同情だと? そんなものは必要無い。勝つのは俺だからな」
「そう。要らないと言われたなら、同情する必要は無いわね。良かったわ」
「この身の程しらずがっ! すぐに後悔させてやるぞ!!」
「やれるものなら、やってみなさい!!」
「それでは、御前試合を開始する。双方、始め!!」
売り言葉に買い言葉で毒舌がエスカレートしていくのを遮る様に、ランドルフの力強い口調の開始宣言が、競技場の中に響き渡った。




