九条麻衣子は愛さない
九条麻衣子シリーズ第一弾
九条麻衣子は誰かを愛することができない。
それは昔からで、親すら愛おしい、と感じたことがなかった。
親? ええ、勿論、感謝はしてるわ。
でも、それだけ。
九条麻衣子には、愛情という絶対的な感情が欠落していた。
そして小学生だったある日、麻衣子は気付いたのだ。
『九条麻衣子』は、乙女ゲームのヒロインだったことに。
とんだキャスティングミスだ、と麻衣子は失笑する。
麻衣子がこんな風なのは、前世からずっとだった。
なら、と、笑う。
なら、嫌われて、傍観するヒロインになろう、と。
麻衣子は口端をゆったりと吊り上げた。彼女の赤々とした唇が弧を描く。
九条麻衣子は、嗤った。
だってここは、現実の世界だもの。
ヒロインは別に、麻衣子じゃなくてもいいのだ。
□■□
麻衣子は図書館から、中庭で愛を囁きあう攻略対象たちとそのヒロインを眺めていた。
そんな姿を見て、麻衣子はしたり顔でほくそ笑む。
「やった。やっぱりそれが、世界のお約束よね」
麻衣子は攻略より遥かに前の小学時代から、とことん攻略対象たちが嫌うようなことばかりをやってのけた。エスカレーター式の学校だ。もともと攻略対象たち全てが持ち上がり組だったのがら最もやり易い部分だったのだ。
たとえば、媚を売る女が嫌いな会長にはとことん媚を売ってやった。
人懐っこい同級生のサッカー部ホープには、徹底して冷たい態度をとった。
口説き上手なタラシの先輩には同じように甘い言葉を囁いてドン引きさせたし、女嫌いで有名な帰国子女のハーフの先輩には一時期、べったりとついて回った。
それが功を奏したのだ。これも、その乙女ゲームを攻略した故の行動だ。
麻衣子は手元の大学ノートに、今日見た攻略対象たちの状況を箇条書きで綴ってゆく。
*九月八日(金) 快晴
ヒロインと対象者四名。
今日も今日とて、放課後の中庭で愛を囁きあう。
ヒロインの女は満更でもない様子だ。逆ハーレムを作れて嬉しそう。
甘ったるい言葉が交わされているのが容易に想像できる。その言葉で詩集か小説でも出したら売れるんじゃないだろうか。まぁ、迷作になりそうだけど。
取り敢えず面倒臭いから、今日も傍観を続行。
そろそろこの睦言を見ているのも飽きてきたわ。面白そうなことが起きないかしら。
そこまで聞き終えて、麻衣子はシャーペンを置いて本を読み始めた。それは、ゲーテの詩集。
「二十代の恋は幻想である。 三十代の恋は浮気である。 人は四十代に達して、 初めて真のプラトニックな恋愛を知る」
ゲーテの有名な名言だ。
口ずさみ、なら十代の恋はどうなるのかしら、と思考に耽る。
十代の恋は、幻想以下。
なら、十代の恋はただのおままごとにすぎないのだろう。
中高校生の恋愛の、なんと儚きことか。
そんな学園生活を楽しく過ごすには、病みつきにもなれないゲームをする。あるのは壮大なリアリティと、ほんの少しの優越感だけ。
つまらないが、暇潰しにはもってこいだ。
この傍観ごっこも、麻衣子にとってはその一つでしかない。
はてさて、前世のわたしは一体、どんな終わりだったのかしら。
麻衣子は前世の自分の終わりを覚えていない。ただ、碌でもない終わりだったのだろうな、とは思っていた。だってわたしだもの。こんなわたしの最期が、めでたしめでたし、なんかで終わるはずもない。きっと壮大なラストだったのだろう、と想像し、麻衣子は喜びのあまり身を震わせた。ああ、なんて、なんて楽しそうなの。
それに比べれば、この世界の自分のなんと腑抜けたことか。
傍観しながら脚本できる舞台なんてないかしら。
麻衣子は立ち上がり、自身の聖域である図書館を歩いた。ふと見た窓の奥には、やはり逆ハーレムを作る男女。
イケメンたちに囲まれた平凡な彼女は、そんなおままごとを全力で楽しんでいる。
幸せそうね、良かった良かった。
麻衣子は自慢の栗色の髪を耳にかけた。麻衣子は地毛だ。もともと色素が薄い。
それにしても、攻略対象たちのなんと愚かなことか。
自分の弱いところを晒されて、気付かれて。そして包まれて。それに優越感を抱いて、落ちてゆく。
無防備にもほどがある。
そんなに簡単に心を開いて良いものなの?
それで本当に幸せになるの?
愛することって、そんなに軽いもの?
──なんて。
馬鹿馬鹿しいのは、わたしも同じか、と麻衣子は本を閉じた。
放課後の図書館には人っ子一人いない。だからこそここは、九条麻衣子の聖域だった。
ここより先の領域には誰一人近付かないし、それは最早暗黙の了解となっている。
ふらふらと歩き回っていた麻衣子は飽きたのか、自身の特等席に座り勉強を始める。かりかり、とシャープペンシルがノートを滑る美しい音だけが聞こえる。
空が赤みを帯び、図書館の窓から差し込む光が橙色に染まってきた頃だ。麻衣子はそろそろ帰るか、と席を立った。麻衣子は図書委員だ。図書館の鍵を閉め、後は職員室で先生に受け渡す……だけだったのだが。
麻衣子は見てしまった。視界の端にちらりと移る少女を。
彼女はふらふらした足取りで階段をのぼってゆく。その先にあるのは屋上だ。
その少女には見覚えがある。
確か、会長の婚約者である少女だ。
麻衣子は知らず知らずのうちに嗤ってしまう。
ああ、なんて愉快で、滑稽で、楽しそうなんでしょう。
麻衣子はその彼女の後ろをそっと追った。
□■□
少女は疲れていた。
婚約者だった男を取られ、挙句突き放されて、虐められて。
もう、すべてが面倒臭くなった。
そんなときだ。
「ねぇ、貴女。死ぬの?」
声がして、少女は弾かれるように振り返る。
そこには、フランス人形のように整った顔立ちをした、美しい人がいた。
首を傾げる動作ですら艶めかしく映る。
少女はその彼女を知らなかった。こんなに整った顔をしているのに、どうして有名にならないのだろう、と疑問を持つ。
それはそうだろう。少女がこの学園に入ったのは、高校時代からだった。
小学時代の話など持ち上がるはずもなく。
少女が九条麻衣子を知る機会など、絶対的になかったのだ。
麻衣子は続けた。
「今中庭でイチャイチャしてる、あの女が憎いの?」
少女の胸がどきりと弾む。
「……べ、別に、何だっていいじゃないですか」
それが少女の、最大にして最高の拒絶。
するとフランス人形の彼女は微笑む。
「貴女が死んだって、世界が変わるわけないじゃない」
全てを知ったような口調に、少女の頭に血が登る。
「そんなの、やってみないと分からない!」
「そうかしら。じゃあ貴女は、見知らぬ同級生の死を悼む?
交通事故で死んでしまった人に花を供えに行く?
──そんなわけ、ないわよね」
「っ……」
ならどうしたら良いのだ。そう、少女は途方に暮れた。わけが分からない。
思わず座り込んだ少女に、フランス人形の彼女、九条麻衣子は手を差し伸べた。麻衣子の背には、後光のように赤く熟れた太陽が宿っている。
まるで、女神のようだった。
「なら、復讐しましょ。あの女を落として、堕として、墜として。そして、取り戻しましょう。あの女の楽園を潰すの。どう、とぉっても、楽しそうでしょう?」
少女は知らず知らずのうちに、九条麻衣子の手をとっていた。
復讐したい。
そして、わたしのことを突き落としたあの女を踏み躙りたい。
少女の今の活力は、そんな可愛らしくも艶かしい復讐心。
そんな彼女に、九条麻衣子は笑った。見たもの全てを虜にするような笑みで、だ。
そろそろあの茶番劇を見るのも、飽きてきてたのよね。
「よろしく、わたしは九条麻衣子」
「……わたしは、御園静佳」
九条麻衣子は自身の暇を埋めるために。
そして御園静佳は、自身の復讐のために。
──かくして舞台は開かれた。
取り敢えず、魔がさしたという、かなり気紛れに書いた作品です。でも楽しかったからよし。
理屈っぽい九条麻衣子が作者のお気に入り。