クロン様
確か、発端はある謎めいた集団の奇怪な運動だった。一時は人々の小首を一斉に傾げさせたが、しかしその事件には後に高尚な名称が捧げられ、讃えられるべき歴史とされた。
いつだったか、何かの用事で街中を歩いていた時、私は突如として何者かに迫られた。それはひったくりでも、キャッチセールスでも無かった。
いきなり口に何かを突っ込まれたのだ。
息苦しい不快感に囚われ、何事かと思って退こうとした時には既に後の祭りで、口に突っ込まれた何かは取り出され、何者かは蛇のようにスムーズな動きで人混みに消えていった。今にして思えば、この時に私の細胞が盗まれたわけだが、あまりにも一瞬の出来事だったために、その時起こったことの意図するところなどは露ほども知らなかった。
私は不審に思いながらもどうすることも出来ないのでなんとなくもやもやして、解決するはずもないのにそのことを後で会社の同僚にメールで伝えた。すると、友人も同じ目に遭ったという。
それだけではない。その日、帰宅してからテレビを点けると、大抵のチャンネルは例の事件でもちきりだった。
驚いたのはその被害者の数で、その総数はほとんど人口に匹敵するものだった。
世間が不可解な事件に気をとられ、その謎の正体は何か、目的は何かと騒がれ、あらゆるジャーナリスト等が侃々諤々の論議を交わし、やがて過激な推測が物議を醸し、スリ目的の模倣犯が現れ、愉快犯の模倣犯が現れ、しかし新しい事実が発覚することは無く、その内話すことも無くなり、人々が思い出のように語り始め、やがて俗世からは忘れ去られた頃に、それは起こった。
人々が自らと出会い始めたのだ。
この時に初めてあの時の事件の真相が露呈した。各人の細胞を盗み、増やし、成長させ、クローン人間が作り出されたのだった。
*
クローン人間が大量に発生してから数日が経った頃に、私は私と出会った。
どちらの私も一様に驚いた。
鏡を見ているような錯覚に陥りもしたが、しかし目前に現れた人間は確かに実物であった。
私は恐る恐るだったが目の前に現れた私のようなものに話しかけた。すると相手は警戒しながらも、返してきた。ぎくしゃくしながらも名乗ってみると、同じ名前が返ってくる。不気味に思いながらも生い立ちを語ってみると、同じ歴史が返ってくる。不思議だったが、納得はした。これは私なのだ、と。
意気投合した、というわけではないが、とりあえずは和解し、過激な事態に発展することは無かった。
訊けば、身寄りが無いという。身寄りがあったならその場所がどんなところなのか気になったが、無いとなると、妙に可哀想に思えた。私は私を見殺しには、出来ない。当たり前の思考として、当然の帰結として、私達は共同生活をすることにした。
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助かったのは、彼女の労働意欲がとてつもなく強いことだった。
仕事をした記憶はあるが実感としての体験が無いらしく、彼女はとても仕事をしたがった。なので私は車の免許証と保険証、それから入社用IDカードと少しの現金を持たせて、私の勤め先である会社に向かわせてみた。
多少の不安は拭いされなかったものの、実はこれには、自信があった。
クローン人間が世間に蔓延り出して間もない頃に、私は何度か会社に出勤している。出社してから同僚と話していたのだが、その時、今まさに対面して話している同僚からメールが来たのだ。メールによって発覚した事実によると、現在会社にいるのは同僚のクローン人間であるらしい。なにやら仕事をしたがっていたらしく、代わりに向かわせたという。
不気味だった。全く見分けは付かなかったし、違和感も無かったのだから。
不意に気になって周りを見渡してみた。他にもクローン人間がいるのではないか。しかし見渡したところで分かるはずも無かった。
私と私のクローン人間が出会ったのは、その矢先のことだったので、この案は割と早く思い浮かんだし、一応の保証もあった。事実彼女はセキュリティ対策のために設置された指紋認証も難なく突破し、活発な動きで社内を震撼させた。とは、後に私のクローン人間が自ら語りかけてきたことだ。
次の日も私のクローン人間は朗らかに笑って挨拶をしてから、楽しそうに家を出ていった。そういえば私も入社間もない頃は心が踊ったものだと感慨深くなった。
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私は自由を謳歌し始めた。
お金は私のクローン人間が稼いでくれる。仕事が無いと時間が出来た。
昼間のワイドショーを観ていると、おそらくクローン人間であろう人々が街を行き交う様が見られた。私も映っていた。少し驚いたが、ここ最近は外出していないので、すぐに私のクローン人間なのだと気付いた。なんだか嬉しかった。
私のクローン人間はよく働いてくれた。
それは仕事だけに留まらず、家事全般から客人の応対まで全てを首尾良くこなしてくれ、私はそれを自分がやったことのように錯覚し、誇らしく思った。
私は未だかつて味わったことのない幸福を身に染みて感じていた。
*
目覚めると昼間だった。居間に向かうと会社の同僚がいて、私のクローン人間と喋っていた。
会社の同僚は泣いていた。
聞くところによるとやはり彼女はクローン人間で、オリジナルである彼女は、先日自殺してしまったという。私はその人と親しかったので、わざわざ訃報を伝えにきてくれたらしい。
会社の同僚のクローン人間は早々に帰っていった。彼女は終始泣いていた。
私はと言えば、実のところそれほど悲しくは無かった。私からすれば、会社の同僚の訃報を知らせてくれたのは会社の同僚と寸分違わない会社の同僚のクローン人間だったわけで、どうにも実感が伴わなかったからだ。私のクローン人間も同じ気持ちらしく、私達は二人揃って小首を傾げた。
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会社の同僚がなぜ自殺したのかは、さすがに気になるところではあったが、その理由はすぐに知れた。
私も死にたくなったからだ。
理由は明解なもので、単にやることが無くなったという事実に起因している。要するに、暇だったからだ。
私のクローン人間が出勤のため家を出た後、私は遺書を書き始めた。ペンを持つということすらも長らくしていなかったので、些か見るに堪えない酷な字体になってしまった。
私は死んだという旨を、そしてその理由を簡潔にまとめて封筒にいれた。
それからなんとなく家が名残惜しくなり、しばらく家の中を懐かしむように徘徊してから、テレビを点けた。飽きるほど観てきたワイドショーが、今日もやっている。
一人の男が、私はオリジナルの人間である。と名言してから話を始めた。
それは、クローン人間を讃え、それから親しみと敬意を込めて『クロン様』と呼び、崇め、崇めることを画面の向こうに推奨し、そして最後に再びクローン人間を讃える内容のものだった。
私はこれから死ぬのだから、一切関係はないものだ。共感はしたが、あまり面白く無かったのでチャンネルを変えると、幾人かの人間が複雑な表情で会話を交えていた。
例の事件で二倍に増えた人口だったが、相次ぐ自殺で今や人口は元通りだ。と、背景のスクリーンに映し出されていた。
現代社会でオリジナルの人間は一体何人いるのだ、と嘆くように言っている評論家のネームプレートにはクローンともオリジナルとも記されていなかった。多分クローンだろう。いずれにしてもよく分からなかったので、私は諦めてテレビを切った。
いよいよ死のうと思い、縄に手をかけて首に巻くと、色々なことが想起された。
私と私のクローン人間が出会ったこと、私のクローン人間と会社の同僚のクローン人間が親しかったこと、私のクローン人間が会社で昇給したのを祝ったこと、私のクローン人間が私の好きだった人と付き合い始めたのを喜んだこと。どれもこれも良い思い出だった。心から嬉しかった。
私は一度縄から離れて遺書を取り出して、文末に少し、付け加えた。
「私に幸あれ」
私は少しだけ勘違いをしていた。
いつの間にか書きあがってました。社会的立場を必要としない人の暮しって、どんなんだろうと思ったのがきっかけだった気がしますが、かなり軌道がそれました。
ぼくが二人になったら、多分どっちもヒモです。
ともあれ、ありがとうございました。