第一話 俺の恋はバニラの香り
「俺の恋はさ、バニラの甘い香りがすんだよ…」
「はぁ?」
5月下旬、夏の陽気な日差しが見え隠れする季節。
けだるげにワイシャツの襟のボタンをはずしながら、俺の目の前の男はファストフード店のコーラをズッと飲んだ。
「なぁに乙女みたいなこと言ってんだよお前は。新卒で入った会社で頭やられたか?」
「そんなことねぇよ、樹。—―俺はもうあの夜出会った女の子のことが忘れらんねぇんだ…」
「あの夜ぅ?」
そう、あの夜。
俺は運命的な出会いをした。
会社の新人歓迎会で飲み会に参加した俺は、普段飲まない酒にグデグデに酔っ払い、そりゃあもう大層、たいっっそう気持ちよくなっていた。
二件目にキャバクラに連れて行ってやるという上司の申し出に、慣れない俺は酔っていながらも怖気づいた。
きっとご馳走してくれるのだろう、だが、そのあとうっかりハマってしまって抜け出せなくなったら…
俺の新卒で得た収入はパーだ。
すみません、俺この辺で…そう言いかけたとき、4つ上の上司の飯田さんがガッと肩をつかむ。
「小鳥遊くん!帰っちゃうの?」
「あ、いや、女の子の店はちょっと怖いなぁと…すみません、意気地なしで…」
飯田さんはくすっと笑って、ポンと背中をたたいた。
「いいんだよ、無理に行かなくたって!私と新人ちゃんの女の子たちさ、行きたい場所があって。小鳥遊君、帰っちゃうなら無理にとは言わないけど…せっかくなら一緒に行かない?」
あそこらへんなんだけど、と指さされたのは、一本路地を入ったところにある雑居ビルだった。
「…どこに、行くんでしょう…。正直女の子の店より怖い感じがするんですが」
「あっはは!見た感じ怖いよね、路地一本入るところなんて。えっとね、シーシャ、水タバコ…っていうんだけど、中東のほうで発祥したといわれるタバコでね。甘かったり、さっぱりしてたり、いろんな味があるんだって。私も新人ちゃんたちも行ったことなくてさ。この機会に出撃するかー!って!」
「シーシャ…なんかあのよくわかんないどでかいボトルみたいなやつからめちゃくちゃ煙出る怪しいやつですよね…合法…ですか…?俺、薬とかはちょっと…」
「ばかっ!ふふ、合法だよ!でもタバコだから、未成年は入れないの。ゆったりして二件目にはぴったりじゃない?お酒も飲めるし、キャバクラ行かないならこっちおいでよ!」
飯田さんは俺の”合法か?”発言が気に入ったらしく、俺と同期の新人の女の子たちにきゃっきゃと話していた。
まぁ確かに、こういう機会くらいないと行かないか…
と、俺はついて行ってみることにしたのだ。
「へぇ、和、シーシャ行ったんだ。俺もたまに行くぜ」
「樹はなんでもすぐ行動に移せてすごいよなぁ。俺なんて、酒の勢いなかったら怖くて行けなかったよ」
「和は昔っから怖がりだよなぁ。ホラゲーやろうつって集まったのに、お前、枕に顔うずめて震えてんだもん、笑っちゃったよ」
「枕は優しいからな…」
シーシャも、俺の中ではそんなイメージだ。優しくて、ふわふわしてて、あの子にそっくり…
「和。…なぁごみぃ。帰ってこーい」
樹の声を遠くに聞きながら、あの夜のことを思い出す。
雑居ビルの七階にそのシーシャ屋はあって、やたらと古いビルだったから、ここで地震きたらこえぇな、と思ったのを覚えている。
無骨な扉を開けると、薄い煙幕が揺らめいた空間が広がっていた。
独特な香りがして、でも不思議とどこか懐かしい気持ちもして、テーブルに揺らめく小さなキャンドルが俺の不安を映しているようだった。
飯田さんと同期2人の計4人で入店した俺たちは、ボックス席に案内された。
革張りの重厚感あるソファ。ところどころ穴が開いているのはなんでなんだろうか。
後ろの席からも、横の席からも、ポコポコポコ…という水のような音が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ。こんばんは。初めてのご利用ですか?」
メニュー表をもって現れたのは、茶髪にふわふわとしたロングヘアの可愛らしい女の子。
くりっとした瞳がこちらを見つめている。
「…ぁ」
一目ぼれ、だった。
過ぎ去った春風が舞い戻るかのように、衝撃を受ける。
人生で惚れやすい方と思ったことのない俺は正直驚いた。
心臓が高鳴る。
酔いのせいじゃない。
初めての場所の高揚感でもない。
この子とは、たぶん、何か縁がある。
そう思った瞬間だった。
じっと見つめる俺を不思議そうに見るその子の胸元には
「ひより」
と書かれていた。
俺は、漢字にしたら「日和」ですか、おれ和って言います、なんか似てますね、なんて最悪のファーストコンタクトを取ろうと考えていた。
その女の子からは、甘いバニラの香りがした。
ふわふわの髪の毛が揺れるたび、心臓が痛い。
急患で運んでくれ、いや、運ばないでくれ、そんなバカげたことを巡らせながら、俺の恋は始まった―—




