「お前の功績は全て俺のものだ」と婚約破棄してきた公爵令息が、私の本当の価値を知らずに破滅しました
王宮の大広間は、年に一度の建国祭の熱気に満ちていた。天井の魔法灯が星屑のように煌めき、着飾った貴族たちの笑い声がワルツの調べと溶け合う。
その華やかな輪から少し離れた壁際で、私はただ静かに息を潜めていた。
私は、伯爵令嬢リディア・フォン・アークライト。銀灰色の髪に、同じ色の瞳。感情の起伏を見せないことから、社交界では『鉄仮面令嬢』と揶揄されている。
今日もまた、遠巻きに囁かれる声が耳に届く。
「ご覧になって。アークライト嬢、また一人でいらっしゃるわ」
「婚約者のアラン様が気の毒ね。あんなに地味で愛想のない方では……」
彼らの視線の先には、私の婚約者である公爵令息アラン・ド・ヴァレンティスがいた。彼は、今夜の主役の一人だ。輝く金髪を揺らし、自信に満ちた笑みで取り巻きに応えている。その腕には、甘い香りを振りまく男爵令嬢セリーナが猫のように寄り添っていた。
「アラン様、本当に素晴らしいですわ! この『自動気象調整器』があれば、我が国の農業は飛躍的に発展いたしますもの!」
「ああ。これも皆、私の長年の研究の賜物さ」
セリーナの甲高い声とアランの傲慢な返答。大広間の中央に飾られた、白銀に輝く複雑な魔導具――『自動気象調整器』。
あれを設計し、一から作り上げたのは、紛れもなく私だ。
しかし、その功績はすべてアランのものとして発表されている。いつものことだった。私の研究、私の発明、そのすべてが、婚約者である彼の名誉と富に変わっていく。
……それでいい。
私は自分に言い聞かせる。感情の波は、災いしか生まない。幼い頃、制御できなかった魔力が暴走し、大切だった庭をめちゃくちゃにしてしまったあの日から、私は心を閉ざすことを覚えた。喜びも、怒りも、悲しみも、すべて心の奥底に沈めて蓋をする。それが、私が平穏に生きるための唯一の方法だった。
だから、アランが私の功績を奪おうと、セリーナと公然と愛を語らおうと、私の心は揺らがない。……揺らぐはずは、なかった。
不意に、音楽が止んだ。
喧騒が静まり、すべての視線が一組の男女に集まる。アランがセリーナを伴って、まっすぐに私の元へと歩み寄ってきたのだ。
彼の碧眼には、私に対するあからさまな侮蔑が宿っていた。
「リディア・フォン・アークライト」
高らかに響いた声に、私はゆっくりと顔を上げた。これから起こることを予感しながらも、私の表情は氷のように固まったままだった。
「今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
アランの宣言は、静まり返った大広間に雷鳴のように轟いた。貴族たちは息をのみ、扇で口元を隠しながらも好奇の視線を私たちに突き刺す。
アランは満足げに周囲を見渡し、芝居がかった仕草で私の前に立つ。その隣で、セリーナが勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。
「理由をお聞かせ願えますか、アラン様」
努めて冷静に、私は問いかける。その声は自分でも驚くほど平坦だった。
「理由だと? 決まっているだろう!」
アランは私を指さし、声を荒らげた。
「貴様のような地味で無能な女は、次期公爵たる私の隣にふさわしくない!いつもいつも仏頂面で、愛嬌というものを知らない。それに比べてセリーナは、太陽のように明るく、私を心から支えてくれる」
「まあ、アラン様……」
セリーナは頬を染め、アランの腕にさらに体をすり寄せる。そのわざとらしい仕草に、会場のあちこちから失笑が漏れた。
「それに、貴様の唯一の取り柄だと思っていた魔導具開発も、所詮は私の指導があってこそではないか!私が基礎を教え、方向性を示してやったから、かろうじて形になったに過ぎん。感謝こそすれ、その功績を自分のものだと言わんばかりのその態度、実に不愉快だ!」
……指導?
初めて、私の心の奥で何かが小さく軋んだ。
寝る間も惜しんで論文を読み漁り、夜を徹して術式を組み、何度も失敗を繰り返しながら、たった一人で作り上げてきた。彼がしたことと言えば、完成した設計図を見て「ふむ、悪くない」と頷き、自分の名前を署名しただけだというのに。
「よって、私は真に私を理解し、支えてくれるセリーナを新たな婚約者として迎えることを、ここに宣言する!」
アランがそう叫ぶと、セリーナは恍惚とした表情で彼を見上げた。
これで公爵夫人の座は自分のもの。そう顔に書いてある。
周囲の貴族たちは、憐れみ、嘲笑、そして好奇の入り混じった目で私を見ていた。誰も助けてはくれない。アークライト伯爵家はとうに没落寸前で、ヴァレンティス公爵家との婚約だけが頼みの綱だった。その綱が今、断ち切られたのだ。
ああ、これでようやく……
だが、私の心に浮かんだのは絶望ではなかった。むしろ、重い枷が外れたかのような、奇妙な解放感だった。もう、彼のために才能を差し出す必要はない。もう、彼の隣で心を殺し続ける必要もない。
私が静かに一礼し、この場を去ろうとした、その時だった。
「お待ちいただきたい」
凛とした、それでいて穏やかな声が響いた。
人々が振り返った先には、一人の青年が立っていた。飾り気のないシンプルな礼服に、学者然とした黒縁の眼鏡。王立研究所の研究員である彼は、私にとって数少ない、研究について対等に話せる相手だった。
「……カイさん」
「ヴァレンティス公爵令息。あなたの仰る『指導』とやらについて、少々興味深い点がありますな」
カイは、アランの前に進み出ると、分厚い書類の束を掲げた。
「これは……!?」
アランは、カイが突き付けた書類を見て、顔色を変えた。それは、私が王立研究所の書庫に保管していた、オリジナルの研究論文と設計図の写しだった。
「ヴァレンティス公爵令息。あなたが発表した『自動気象調整器』の理論は、ここに記されているリディア嬢の論文と寸分違わぬようですが、これは一体どういうことですかな?」
カイの口調は穏やかだが、その瞳は氷のように冷たい光を放っていた。
「な、何を言うか! そ、それは私の理論を彼女が書き写したものだ!」
アランは狼狽しながらも、必死に虚勢を張る。
「ほう。では、この術式についてご説明いただけますかな?」
カイさんは論文の一節を指さした。そこに書かれているのは、古代魔法言語を応用した極めて高度な多重次元魔方陣の設計理論。私自身、完成させるのに三ヶ月を要した部分だ。
「こ、これは……その、だな……」
アランは額に脂汗を浮かべ、しどろもどろになる。彼が私の研究を理解しているはずがない。彼はただ、結果だけを奪い、自分の手柄として喧伝してきたのだから。
「答えられないようですな。では、もう一つ」
カイさんは次の書類をアランの目の前に広げた。それは、魔導具開発の予算に関する会計報告書だった。
「公爵家から拠出された研究予算ですが、その三分の一が用途不明のまま消失しています。そして奇妙なことに、その消失した金額とほぼ同額が、セリーナ嬢のドレスや宝飾品の購入費として、複数の店からあなたの名で支払われている記録がありますな」
「ひっ……!」
今度はセリーナが悲鳴を上げた。彼女の顔は真っ青になっている。
「研究成果の横領に加え、公費の不正流用ですか。これは公爵家の名を汚す、由々しき問題です」
カイさんの静かな告発に、大広間は水を打ったように静まり返った。アランはがくがくと膝を震わせ、その場にへたり込みそうになっている。
「だ、黙れ! たかが一研究員の分際で、私に口答えする気か!」
最後の力を振り絞り、アランが吼える。
その時だった。
「その研究員は、我が息子だが?」
重々しい声と共に、玉座から国王陛下が立ち上がった。その隣には、カイがいつの間にか移動し、静かに控えている。彼は黒縁の眼鏡を外し、その素顔を露わにした。
そこにいたのは、王立研究所の研究員『カイ』ではない。
鋭い知性を宿した紫電の瞳を持つ、この国の第三王子、カイウス・エル・レオンハルト殿下その人だった。
「カイウス……殿下……!?」
アランとセリーナは、信じられないものを見たかのように目を見開いて絶句した。
「父上。事の次第はご覧の通りです」
カイウス殿下は、国王陛下に深く一礼した。
国王陛下は、冷徹な眼差しで床に這いつくばるアランを見下ろした。
「アラン・ド・ヴァレンティス。貴様の罪は三つ。第一に、王家が認めた婚約を私的な感情で破棄しようとしたこと。第二に、リディア嬢の類稀なる才能を搾取し、その功績を詐称したこと。そして第三に、公爵家の名を騙り、不正に富を蓄えたこと。許しがたい愚行だ」
国王の断罪の言葉が、一つ一つアランの心臓に突き刺さる。
「ヴァレンティス公爵家は、本日をもって爵位を剥奪。全財産を没収の上、一家は北の辺境地へ追放とする。セリーナ嬢を輩出した男爵家も同罪だ。異論は認めん」
「そ、そんな……いやだぁぁぁっ!」
「嘘だ、夢だと言ってくれ……!」
アランとセリーナの絶叫が、虚しく大広間に響き渡った。衛兵に両脇を抱えられ、無様に引きずられていく二人の姿を、もはや誰も見ようとはしなかった。
嵐が過ぎ去った大広間で、私は一人立ち尽くしていた。
婚約は破棄され、アランは破滅した。これで、すべてが終わったのだ。
安堵と、ほんの少しの虚しさを感じながら踵を返そうとした私を、カイウス殿下の声が引き留めた。
「リディア嬢」
彼は私の前に歩み寄り、深く頭を下げた。
「私の身分を隠していたことを、まずはお詫びしたい。そして、あなたの受けた屈辱を、私の力不足で防げなかったことも。本当に、申し訳なかった」
「……殿下が謝ることではございません」
「いや、謝るべきだ。私は、ずっと前からあなたの才能に気づいていた。あなたの論文を読むたび、その発想の深さと情熱に心を打たれていた。それなのに、あなたがアランのような男に利用されていることに気づきながら、すぐに行動できなかった。……私は臆病者だ」
自嘲するように笑う殿下の顔は、苦渋に満ちていた。彼は、続けた。
「あなたの功績は、国にとってかけがえのない宝だ。アランのような男のためではなく、この国と民のために、その力を使ってはくれないだろうか。王立研究所の所長として、あなたを正式に迎えたい」
所長という言葉に、私は目を見開いた。それは、この国の科学技術の頂点に立つ地位だ。
「私には、そのような大役は……」
「あなたならできる」
カイウス殿下は、私の言葉を遮った。その紫電の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「私は知っている。その『鉄仮面』の下に、どれほど熱い情熱と優しい心を隠しているのかを。もう、自分を偽る必要はない。これからは、あなた自身の人生を生きてほしい。笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒り、そして……喜びを感じてほしい」
その言葉は、まるで魔法のようだった。
私の心の奥底に固く閉ざされていた扉が、軋みながら開いていく。
幼い頃からずっと抑え込んできた感情の奔流が、堰を切ったように溢れ出した。
視界が、じわりと滲む。
頬を伝う涙を、私は止めることができなかった。
「……どうして」
どうして、あなたは分かってくれるのですか。
誰にも見せなかった、本当の私を。
カイウス殿下は、驚いたように目を見張り、それから、とても優しく微笑んだ。
「ようやく、笑ってくれたね」
彼はそっとハンカチを差し出し、私の涙を拭う。その指先の温かさに、また涙が溢れた。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
長い冬が終わり、ようやく春の陽光に触れたような、温かくて、嬉しい涙だった。
私は、しゃくりあげながら、それでも懸命に口角を上げた。
不格好で、泣き笑いのような顔だったに違いない。
けれど、それは紛れもなく、私が心の底から浮かべた、十数年ぶりの笑顔だった。
これから始まる新しい人生は、きっと輝かしいものになるだろう。
私の本当の価値を理解してくれる、この人の隣で。
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