第九話:再会
俺たちは再び、あの無機質な通路へと足を踏み出した。
詰所のドアを閉めると、さっきまでの穏やかな空気は断ち切られ、またひんやりとした圧迫感が俺たちを包み込む。壁も床も天井も、すべてが同じような灰色で、どこまで行っても同じ景色が続いているように思えた。このバックヤードにある天井の蛍光灯は客が行き来するエリアとは違って、どこか薄暗い気がした。そういったこともあるのか、何か得体の知れないものが現れるのではないかという、根拠のない不安がよぎった。
「さて、どっちに行くか……」
通路は左右に分かれていた。どちらも同じように暗く、どこに続いているのか見当もつかない。まるで巨大な蟻の巣の中にでもいるみたいだ。俺はどっちに進むべきか、少しだけ考え込んだ。こういう時、俺たちの世界の常識なら、壁に沿って進むとか、何か目印を残すとか、そういうセオリーがあるはずだ。だが、この空間でそんなものが通用するとは思えなかった。
「こっちだ」
俺が何か言う前に、アリアは一瞬だけ考え、迷いなく右の通路を指差した。その指先には、一片の疑いもなかった。
「何か根拠でも?」
俺が尋ねると、彼女はニッと不敵に笑って見せた。
「勘だ。こういうのは大体、わたしの勘は当たる」
あまりに自信満々な物言いに、俺は呆れてため息をつく。だが、考えていても仕方がないのは事実だった。左を選んだところで、結果が良くなる保証なんてどこにもない。俺たちはアリアを先頭に、再び隊列を組んで歩き始めた。コツ、コツ、という俺たちの足音だけが、コンクリートの壁に跳ね返って、不気味なほど大きく聞こえる。
進めども、進めども、景色はほとんど変わらなかった。コンクリートの壁、天井を這う無数の配管、薄暗く感じる蛍光灯。時折、別の通路と合流したり、行き止まりになって引き返したりはするものの、基本的な風景は同じまま。方向感覚はとうに麻痺し、自分たちがどれくらい進んだのか、元の場所からどれだけ離れたのかも分からなくなっていた。まるで、ランニングマシンの上で、ただひたすら足を動かしているだけのような、そんな感覚だった。
「おい……なんか、おかしくないか?」
三十分ほど歩いた頃だろうか。俺は壁に手をついて立ち止まった。息が上がっているわけではない。ただ、精神的な疲労が、ずしりと肩にのしかかってきたのだ。
「さっきから、同じ場所をぐるぐる回ってるような気がするんだ。あの壁の染み、見覚えがある」
俺が指差した先には、人の横顔のようにも見える、黒ずんだ染みがあった。それは、まるで壁そのものが涙を流した跡のようにも見えた。確かに、これを見るのは三度目な気がする。一度目は偶然だと思った。二度目は気のせいかと考えた。だが、三度目となると、もう偶然では片付けられない。
「む……言われてみれば、そうかもしれんな」
アリアも足を止め、周囲を警戒するように見回す。彼女の琥珀色の瞳が、鋭く暗がりを射抜いた。彼女の自慢の勘も、この無限回廊の前では役に立たなかったらしい。
「……空間が、ループしている。あるいは、繋がっている」
シルフィが、壁にそっと触れながら呟いた。彼女の白い指先が、冷たいコンクリートの上を滑る。
「どういうことだよ?」
「この通路は、まっすぐではない。歩いているうちに、無意識に元の場所へ戻される構造。始まりも終わりもない」
シルフィの淡々とした説明が、この状況の異常さを、より一層際立たせた。まるで、俺たちをこのバックヤードに閉じ込めようとする、何か明確な意思が存在しているかのように思えた。その事実に気づいた瞬間、通路の空気が一段と重く、冷たくなった気がした。じっとりとした湿気が、肌にまとわりついてくる。
その時だった。
ブーン、と絶え間なく響いていた機械の唸り音が、ふっと止んだ。
まるで、巨大な生き物が呼吸を止めたかのように、完全な静寂が訪れた。さっきまでの、あの不快な低周波音ですら、この静寂に比べればまだマシだったと思えるほど、耳が痛くなるような静けさだった。
「……なんだ?」
アリアが剣の柄に手をかける。カチャリ、という小さな金属音が、やけに大きく聞こえた。シルフィも、杖を握り直し、警戒態勢に入った。フードの奥の青い瞳が、わずかに細められる。
俺は、この感覚に覚えがあった。地下鉄のコンビニで、あの黒い塊に遭遇した時と、全く同じ空気の変化。酸素だけが、この空間からごっそりと抜き取られたような、そんな息苦しさ。
ぞわり、と全身の皮膚が粟立つ。
俺たちの視線は、自然と、さっき俺が指摘した壁の染みに引き寄せられていた。人の横顔のように見えた、あの黒ずんだ染み。
その中心が、じわりと濡れたように色を濃くした。
それは、まるで乾いた紙にインクが滲むようにゆっくりと広がり、やがてぽたり、ぽたりと、黒い液体を床に滴らせ始めた。粘り気のある、タールのような液体だった。
床に落ちた黒い雫は、コンクリートに吸い込まれることなく、その場で一つの塊になっていく。壁からも、粘性のある液体がずるずると流れ落ち、床の塊と一体化していく。それは、光を一切反射しない、絶対的な黒。まるで、空間に穴が空いて、その向こう側の暗黒がこちらに溢れ出してきているかのような、そんな光景だった。あらゆる形を拒絶したような、不定形の質量。それは、ただそこにあるだけで、周囲の空間を捻じ曲げているかのような、強烈な圧迫感を放っていた。
「こいつ……!駅のコンビニにいた、あいつだ!」
俺の叫びに、アリアが目を見開く。彼女の表情が、驚きから険しいものへと変わった。
「ああ、この化け物か!」
アリアは、怯むことなく、むしろ好戦的な笑みを浮かべた。
「ふん、前に会った時は、わたしがいなくて残念だったな、ジュン!」
彼女の言葉には、確固たる自信が満ちていた。たしかに彼女と初めて会ったとき、アリアは『もう何匹か斬り捨ててきた』と言っていた。あの時は、正直なところ半信半疑だったが、今の彼女の様子を見る限り、それはただの強がりではなかったのかもしれない。この黒い塊には、剣技が通用するのか?
「うおおおっ!」
アリアは怯むことなく、剣を抜き放ち、黒い塊に向かって駆けた。その動きは、まるで疾風のようだった。重い金属鎧を身に着けているとは思えないほどの俊敏さで、一瞬にして間合いを詰める。
気合一閃、振り下ろされた長剣が、黒い塊を両断する。
かに見えた。
だが、アリアの剣の刃は、何の抵抗もなく黒い塊を通り抜けた。まるで、濃い霧を斬りつけたかのように、剣先は手応えなく床を叩いた。斬られたはずの塊は、まるで水面のように揺らめいただけですぐに元の形に戻り、一切のダメージを受けた様子はない。
「なっ……!?」
アリアが驚愕に目を見開いた、その一瞬。
「馬鹿な……!前に戦ったやつらとは、違うのか……!?」
彼女の動揺が、俺にも痛いほど伝わってきた。彼女の自信は、過去の成功体験に基づいたものだった。だが、目の前の『これ』は、彼女がこれまで相手にしてきた個体とは、根本的に何かが違うらしい。
黒い塊の表面が、ぐにゃりと盛り上がり、鞭のような触手を何本も伸ばしてアリアに襲いかかった。その動きは、先ほどまでの緩慢なものとは比べ物にならないほど、素早く、そして正確だった。
「アリア、危ない!」
「くっ!」
アリアは咄嗟に後方へ跳んでそれを回避する。黒い触手が叩きつけられたコンクリートの床は、ジュッ、という音を立てて、まるで強酸を浴びたかのように泡立ち、黒く変色してドロドロに溶けている。もし、あれが直撃していたら、彼女の鎧とて無事では済まなかっただろう。
「……物理攻撃、無効。これまでのとは、性質が異なる」
シルフィが冷静に分析し、杖の先端を黒い塊に向ける。彼女の唇が、短い詠唱を紡ぐ。その声は、この絶望的な状況下でも、変わらず静かで、落ち着いていた。
「……炎」
杖の先から放たれた小さな火の玉が、黒い塊に着弾した。ボウッと音を立てて燃え上がるかと思いきや、炎は一瞬でその黒に飲み込まれ、燃え広がることなく消滅してしまった。まるで、焚き火に一滴の水を垂らしたかのように、あまりにもあっけなく。
「魔法も……吸収された。無効」
シルフィの冷徹な報告がこの絶望的な雰囲気を感じさせる。その、彼女の青い瞳は、じっと敵を見ていた。
だめだ。こいつには、俺たちの攻撃は一切通用しない。あのコンビニの時と同じだ。いや、それ以上に厄介だ。もしかしたら、これは『現象』なのかもしれない。だから、俺たちが持っている武器も、魔法も、常識も、この黒い絶望の前では、何の意味も持たないのだ。
「逃げるぞ!こいつとは戦えない!」
俺は二人に叫んだ。アリアは悔しそうに歯噛みしたが、自分の攻撃が全く効かなかった事実を前に、俺の言葉に従うしかなかった。
彼女は一度だけ黒い塊を睨みつけると、大きく舌打ちをして俺たちの元へ後退した。俺たちは背を向け、一斉に走り出した。
背後から、ずる、ずる、と何かが這い寄ってくる不快な音が聞こえる。それは、粘り気のある液体が床を擦るような、聞いているだけで気分が悪くなる音だった。振り返る余裕はない。ただ、前へ、前へと足を動かすだけだ。無限に続くかと思われたこのショッピングモールのバックヤードで、出口のない追いかけっこが始まった。
「こっちだ!」
俺はがむしゃらに、来た道とは別の通路へ飛び込む。だが、その先もまた、同じような景色が続いているだけだった。どこまで逃げても、灰色と薄暗がりが続くだけ。まるで、巨大な迷路の中で、目に見えない何かに追いかけられているような気分だった。
「くそっ、どこまで行っても同じじゃないか!」
アリアが悪態をつく。彼女の額にも、汗が浮かんでいた。背後の音は、確実に距離を詰めてきている。あの黒い塊に捕まったら、床のようにドロドロにされて終わりだ。痛みを感じる暇もなく、俺という存在そのものが、この世界から消し去られてしまうだろう。
もうだめか、と諦めかけた、その時だった。
前方の通路の突き当りに、それまでなかったはずの、ドアが現れたのが見えた。窓がない、全面、削り出し感のあるアルミ製のドア。それは何の変哲もない、ただのドアだった。だが、この無限に続くかと思われた通路の中では、その存在はあまりにも異様だった。まるで、この状況を見かねた誰かが、俺たちのために用意してくれたかのように。
「あれだ! あそこに入るぞ!」
それが罠かもしれないなんて、考える余裕はなかった。藁にもすがる思いで、俺たちは最後の力を振り絞ってドアに駆け寄った。アリアが先頭に立ち、その屈強な肩で全体重をかけて体当たりする。
バタン! と大きな音を立ててドアが開き、俺たちは雪崩れ込むようにして中へ転がり込んだ。俺はすぐさま振り返り、全体重をかけてドアを閉める。鍵はない。ただ、必死でドアを押さえた。ガタガタと音を立てるドアが、俺の非力な腕ではすぐに破られてしまうのではないかと、緊迫感が俺の身体を支配していた。
ドアの向こう側で、ずる、という音が止まった。
黒い塊は、追ってくるのをやめたようだった。まるで、このドアの向こう側には、干渉できないかのように。あるいは、単に興味を失っただけなのか。
理由は分からない。だが、助かった。その事実だけが、今の俺たちにとっては全てだった。
「はぁ、はぁ……、ま、撒いた、のか……?」
俺はドアに背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。アリアもシルフィも、壁に手をついて荒い息を繰り返している。
数分間、俺たち三人の激しい呼吸音だけが、『その空間』に響き渡っていた。




