第八話:儀式
通路を進んでいく。そもそも、俺たちが逃げ込んだ、防災シャッターの向こうは、従業員用のバックヤードだったらしい。
コンクリートがむき出しになった壁。天井を這う、色分けされた無数の配管。等間隔に並んでいるが、いくつかはカバーのない、光量が控えめの蛍光灯。ここの空気はひんやりと湿り気を帯びていて、カビと埃が混じったような、独特の匂いが鼻をついた。客用エリアの、どこか非現実的で綺麗な静けさとは違う。もっと生々しくて、息が詰まるような圧迫感が、この空間には満ちていた。
アリアを先頭に、俺が中間、そしてシルフィが最後尾という隊列を組んで、薄暗い通路を慎重に進み始めた。自分たちの足音だけが、コンクリートの壁に反響する。時折、どこからか聞こえてくる「ブーン」という低い機械の唸り音が、絶え間なく俺たちの不安を煽った。
どれくらい歩いただろうか。どこまで進んでも景色はほとんど変わらず、精神がじりじりと削られていくのを感じる。そんな時、前方を歩いていたアリアが不意に足を止めた。
「どうした、アリ――」
俺が声をかけようとして、言葉を呑んだ。アリアが見つめる先、通路の脇に、ガラスがはめ込まれたドアがあったのだ。そして、そのドアの向こう側からは、ぼんやりとした明かりが漏れていた。
俺たちは顔を見合わせ、アリアが代表してゆっくりとドアを押し開ける。ギィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げた。
そこは、従業員が休憩や事務作業に使う『詰所』といった風情の小部屋だった。古いスチール製の机とパイプ椅子。壁には何か書きかけのまま放置されたホワイトボード。机の上には、中身が干からびて茶色い染みになったコーヒーカップが置かれている。人の姿はないのに、ついさっきまで誰かがいたかのような生々しさが、かえってこの場所の異常さを際立たせていた。
「よし!ここなら、マネキンのような奴らが突然襲ってくる心配もなさそうだ」
アリアは部屋の中を検分し、満足げに頷いた。
「よし、ジュン。ここで儀式を行う」
アリアが改めて俺に向き直って言った。俺はごくりと唾を飲み、頷く。
「『絆の紋章』は、わたしたちの世界で、パーティを組む者たちが互いの魂を繋げるための魔法だ。これがある限り、仲間がどこにいるかなんとなく分かるし、生命の危機も伝わってくる。何よりバラバラになったときは、紋章の効果で仲間のいる場所に転移することが出来る」
「そんな便利なものが……」
「ああ。だが、この紋章を刻むには、相応の覚悟と……痛みが必要だ」
アリアが少しだけ言い淀む。
「痛み、か」
「ああ。魂に直接刻みつけるようなもんだからな。……まあ、気絶するやつもいるくらいだ」
「マジかよ……」
俺が顔を引きつらせていると、シルフィがすっと前に出た。
「私がやる。準備が必要」
彼女はそう言うと、持っていた杖を静かに床に置いた。そして、ローブのポケットから、チョークのような、しかし石のようにも見える不思議な質感の棒を数本取り出した。
「シルフィは、魔法の専門家だ。魔法について、なんでも任せておけば問題ない」
アリアの言葉通り、シルフィは慣れた手つきで詰所の床に何かを描き始めた。それは、幾何学模様のようでもあり、俺の知らない何かの文字のようでもあった。複雑な線が淀みなく引かれ、やがて床に直径一メートルほどの魔法陣のようなものが現れる。
「……座って」
シルフィが、陣の中心を指差して言った。俺は言われるがまま、あぐらをかいてそこに座る。目の前には、シルフィが座り、その向こう側にはアリアが腕を組んで成り行きを見守っていた。殺風景な詰所の中が、急に神聖な場所に変わったような、張り詰めた空気に満たされる。
「腕を」
俺は促されるまま、右腕の袖をまくり上げて差し出した。シルフィは俺の腕を掴むと、その冷たい指先で俺の手首から肘にかけてをゆっくりとなぞった。なんだか、診察されているみたいで妙な気分だ。
「……詠唱を始める。動かないで。意識を、保って」
シルフィが、いつになく真剣な声で告げる。彼女の青い目が、フードの奥から俺を射抜くように見つめていた。俺はこくりと頷く。アリアも、心配そうな顔でこちらを見ていた。
シルフィは俺の腕を掴んだまま、静かに目を閉じた。彼女の唇から、今まで聞いたことのない、不思議な響きを持つ言葉が紡がれ始める。それは歌のようでもあり、囁きのようでもあった。意味は全く分からないが、その一つ一つの音に、何らかの力がこもっていることだけは肌で感じられた。
何かが、変わる。
空気がざわめき、床に描かれた魔法陣が淡い光を放ち始めた。シルフィの銀色の髪が、風もないのにふわりと持ち上がる。彼女の掴んでいる俺の腕に、静電気が走ったような微かな痺れが伝わってきた。
詠唱の声が、少しずつ熱を帯びていく。それに呼応するように、魔法陣の光も強さを増していく。詰所の部屋が、青白い光で満たされた。
その瞬間だった。
「ぐっ……!?」
差し出した右腕に、灼熱の鉄を押し付けられたかのような、激烈な痛みが走った。思わず腕を引っこめようとしたが、シルフィの華奢な腕が、まるで万力のように俺の腕を固定して離さない。
「う、あ……あああああっ!」
声にならない叫びが喉から迸る。痛い。痛いなんてもんじゃない。皮膚の表面じゃない。もっと奥、骨を通り越して、神経そのものを直接焼かれているような、耐え難い痛みだ。視界が真っ白に点滅し、全身から汗が噴き出す。歯を食いしばっても、呻き声が止められない。
「耐えろ、ジュン! 今が一番きつい時だ!」
アリアの檄が飛ぶ。だが、その声もどこか遠くに聞こえた。俺の意識は、右腕を苛む灼熱の奔流にすべて飲み込まれそうになっていた。
シルフィの詠唱が、クライマックスに達する。彼女の額にも玉のような汗が浮かんでいた。俺の腕を掴む彼女の指先が、白くなるほどに力を込めているのが分かった。
痛みの奔流の中で、俺は見た。
俺の右腕の、ちょうど前腕あたりに、光の線が集まっていくのを。それは二つの輪を描き、互いに絡み合う形を成していた。アリアやシルフィが時折見せてくれた、あの紋章だ。
だが、紋章はそれで完成ではなかった。
二つの輪が形作られた後、さらに別の光の線が現れ、その二つの輪を縫うように、三つ目の輪を描き始めたのだ。
「があっ……! ぐ、うううっ……!」
痛みが、さらに一段階、深くなる。今度は焼かれるような熱さだけじゃない。体の内側から、何かを引きずり出されるような、魂が削られるような感覚。あまりの苦痛に意識が飛びそうになる。朦朧とする視界の中で、三つの輪が複雑に絡み合った紋章が、青白い光を激しく放つのが見えた。
そして。
ふっ、と。
まるでランプの火が消えるように、痛みと光が同時に消え失せた。
「……はっ、はぁ、はぁっ……」
俺は床に突っ伏し、荒い息を繰り返した。全身がぐっしょりと汗で濡れ、右腕は感覚が麻痺して自分のものじゃないみたいだった。
「……終わった、ぞ」
アリアの声に、俺はゆっくりと顔を上げた。シルフィが、疲労の色を浮かべた顔で俺の腕を解放する。俺は自分の右腕に視線を落とした。
そこには、何もなかった。
「え……?」
あれだけの痛みがあったのに、火傷の跡も、傷跡一つない。綺麗な、元のままの俺の腕があるだけだ。
「……力を、込めてみろ」
アリアが言った。俺は言われるまま、まだ少し痺れの残る右腕の拳を、ぐっと握りしめた。
すると、何もないはずだった皮膚の上に、淡い光を放つ紋様がじんわりと浮かび上がってきた。
三つの輪が、互いに結びつき、決して離れないという意思を示すかのように、複雑に絡み合っている。それは、紛れもなく『絆の紋章』だった。俺たちが、三人で一つのパーティになった証ということか。
「……これが……」
俺は呆然と、腕に浮かび上がった紋様を見つめた。それは数秒でまたすうっと消えていき、元の皮膚に戻る。だが、確かにそこにあるという感覚だけは、はっきりと残っていた。心の奥深くに、アリアとシルフィとの温かい繋がりが、確かに根付いている。そんな不思議な感覚だった。
「どうだ。これで、お前も名実ともにわたしたちの仲間だ」
アリアが満足そうに腕を組んで言った。
「……ああ」
俺はまだ麻痺の残る腕をさすりながら、力強く頷いた。痛みは地獄だったが、それと引き換えに得たものは、とてつもなく大きい。この狂った世界で、孤独ではないという、何よりも確かな証明。
「ありがとう、シルフィ。それと、アリアも」
俺が礼を言うと、シルフィは小さくこくりと頷き、アリアは「ふん」とそっぽを向いた。だが、その横顔が少しだけ赤らんでいるように見えたのは、きっと気のせいではないと思った。
◇
儀式を終えた詰所の中は、先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、どこか場違いの安堵感に満たされていた。
床に描かれた魔法陣の光はすっかり消え、今は部屋の蛍光灯だけが、俺たち三人をぼんやりと照らしている。俺はまだじんじんと痺れが残る右腕をさすりながら、改めてアリアとシルフィの顔を見た。
「……なんか、変な感じだな」
「何がだ?」
ビーフジャーキーの袋を開けながら、アリアが問い返す。
「いや、なんというか……あんたたちが、すごく近くにいる気がする。この紋章のせいかな」
目には見えないが、右腕に宿った紋章が、確かな熱を持って二人の存在を俺に伝えていた。それは物理的な距離とは違う、もっと根本的な部分での繋がりだった。まるで、細くて丈夫な線が、俺たち三人の間を結んでいるみたいだ。
「当たり前だ。魂で繋がったんだからな。それが『絆の紋章』だ」
アリアはぶっきらぼうに言うと、ジャーキーを一枚、俺に放ってよこした。俺はそれを慌てて受け取る。
「……接続は安定している。」
シルフィが、机の上の干からびたコーヒーカップを指でつつきながら、分析結果を口にした。
「まあ、とにかく、これで俺もあんたたちの仲間ってわけだ。よろしくな、改めて」
「ふん、足手まといになるなよ」
「……よろしく」
そんな短いやり取りを行う。
そして、俺たちはこの薄暗い詰所で少しだけ休息を取り、残っていた缶詰を分け合って食べた。
今後の相談と言っても、やることは一つしかない。このバックヤードを探索し、このルミナルスペースからの出口、あるいは何らかの手掛かりを見つけることだ。
◇
短い休息を終え、俺たちは再びあの無機質な通路へと足を踏み出した。
詰所のドアを閉めると、さっきまでの穏やかな空気は断ち切られ、またひんやりとした圧迫感が俺たちを包み込む。
「さて、どっちに行くか……」
通路は左右に分かれていた。どちらも同じように見え、どこに続いているのか見当もつかない。
「こっちだ」
アリアは一瞬だけ考え、迷いなく右の通路を指差した。
「何か根拠でも?」
「勘だ。こういうのは大体、勘で当たる」
あまりに自信満々な物言いに、俺は呆れてため息をつく。だが、考えていても仕方がないのは事実だった。俺たちはアリアを先頭に、再び隊列を組んで歩き始めた。
進めども、進めども、景色はほとんど変わらなかった。コンクリートの壁、天井の配管、薄暗い蛍光灯。時折、別の通路と合流したり、行き止まりになって引き返したりはするものの、基本的な風景は同じまま。方向感覚はとうに麻痺し、自分たちがどれくらい進んだのか、元の場所からどれだけ離れたのかも分からなくなっていた。
「おい……なんか、おかしくないか?」
三十分ほど歩いた頃だろうか。俺は壁に手をついて立ち止まった。
「さっきから、同じ場所をぐるぐる回ってるような気がするんだ。あの壁の染み、見覚えがある」
俺が指差した先には、人の横顔のようにも見える、黒ずんだ染みがあった。確かに、これを見るのは三度目な気がする。
「む……言われてみれば、そうかもしれんな」
アリアも足を止め、周囲を警戒するように見回す。
「……空間が、ループしている。あるいは、繋がっている」
シルフィが、壁にそっと触れながら呟いた。
「どういうことだよ?」
「この通路は、まっすぐではない。歩いているうちに、無意識に元の場所へ戻される構造。」
まるで、俺たちをこのバックヤードに閉じ込めようとする、何か明確な意思が存在しているかのように思えた。その事実に気づいた瞬間、通路の空気が一段と重く、冷たくなった気がした。
ブーン、と響いていた機械の唸り音が、ふっと止んだ。




