第六話:蠢動
家電量販店を後にした俺たちの間には、先ほどの薄気味悪いラジオ音声から、重たい沈黙が垂れ込めていた。
手に入れたLEDのランタンやナイフはずっしりとした重みで、物理的な生存の可能性を俺に教えてくれている。だが、精神的な天秤は、明らかにマイナスの方へと大きく傾いていた。希望かもしれない、なんて思った自分が馬鹿みたいに思えた。
あれは、ただの悪意の塊だった。このショッピングモールという見せかけの安全地帯が、実はとんでもなくたちの悪い何かの巣窟なのかもしれない、そう改めて思い知らされた気分だった。
俺たちは、再び吹き抜けのホールに戻り、一つ上の階層を目指して、止まったままのエスカレーターを上り始めた。
衣料品売り場のあるフロアは、これまでのどの階層よりも広大だった。メンズ、レディース、キッズ、スポーツウェア、フォーマルウェア。ありとあらゆるジャンルの服が、ブランドごとに区切られた区画に、整然と並べられている。その光景は、俺が知っている休日のデパートそのものだ。ただ、そこにいるはずの、服を選ぶ客も、商品を勧める店員も、誰一人として存在しないことを除けば。
「うわっ、なんだこの服は! ペラッペラじゃないか!」
アリアが、マネキンが着せられていた派手な柄のシャツを手に取り、不満そうな声を上げた。
「それに、こっちのズボンも……なんだか妙にテカテカしてて気持ち悪いな。こんなので戦えるのか?」
「それは戦うための服じゃないんだ。おしゃれ着、っていうか……まあ、普段着だな」
「普段着?こんな防御力もなさそうな布切れが?」
アリアは心底信じられないといった顔で、手にした化学繊維のシャツを眺めていた。彼女の世界では、服とはすなわち、身を守るための『装備』なのだろう。平和な世界のファッションは、騎士である彼女には到底理解できないらしい。
「ジュン。私に、この服はどうか?確認を要請する」
シルフィが指さしていたのは、落ち着いた深緑色の、シンプルなワンピースだった。彼女が着ているローブと同じような色合いだ。
「ああ、いいんじゃないか?シルフィに似合いそうだ」
「……そう」
シルフィは、ほんの少しだけ、本当にわずかに、口元を緩めたように見えた。彼女は、そのワンピースを手に取ると、大事そうに抱きかかえた。
俺も、自分の着替えを探すためにメンズコーナーを歩き回る。動きやすそうなジーンズと、丈夫そうな厚手のパーカー、それから下着と靴下を数枚ずつ。商品に付けられたタグの値段を見るたびに、なんだか悪いことをしているような気分になったが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
ひとまず、必要なものを確保した俺は、アリアとシルフィが待つ合流地点へ向かおうとした。
その時だった。
俺は、自分の視界の端で、何かが『動いた』ような気がした。
はっとして、そちらに顔を向ける。そこには、最新の流行らしいスポーティーな服装に身を包んだ、一体のマネキンが立っているだけだった。躍動感のあるポーズで、片足を軽く上げている。さっきここを通った時と、何も変わらない。
「……気のせい、か……」
家電量販店のことで、自分の神経が過敏になっているだけなのかもしれない。
俺はそう自分に言い聞かせ、再び歩き出そうとした。
だが、どうしても、拭い去れない違和感が、背中に張り付いて離れない。
なんだ? 何がおかしい?
俺は、もう一度、そのマネキンに注意深く視線を向けた。プラスチックでできた、つるりとした白い顔。そこに描かれた、無表情な目。
その、視線が。
なぜか、まっすぐに、俺の方を向いているような気がするのだ。
ぞわ、と全身の肌が粟立った。
「おい、アリア、シルフィ」
俺は、自分でも気づかないうちに、大きな声で二人を呼んでいた。
「なんだよ、ジュン。大声出して」
アリアが、呆れたような顔でこちらにやってくる。その隣には、新しいワンピースを大事そうに抱えたシルフィもいた。
「いや……あのマネキン、なんだかおかしくないか?」
俺が指さした先を見て、アリアは首をかしげた。
「まねきん?ああ、あの人形か。で、人形がどうしたってんだ。」
「あのマネキン、さっきまで、あんな方向を向いていたか……?」
「おいおい、ジュン。ただの作り物相手に、何をびびってんだよ」
アリアは、俺の懸念を鼻で笑い飛ばした。彼女の言う通りかもしれない。俺が、ただ怖がりすぎているだけなのだろうか。
「……アリア」
その時、隣にいたシルフィが、静かに口を開いた。
「この空間では、常識は意味をなさない。注意は、必要」
彼女の静かな、しかし、重みのある言葉が、俺の不安を肯定する。シルフィも、何かを感じ取っているのかもしれない。
アリアは、そんな俺たちの様子を見て、少しだけ不満そうに口を尖らせた。
「ったく、二人して大げさなんだよ。そんなに言うなら、確かめてきてやる」
言うが早いか、アリアはマネキンの方へずんずんと歩いていく。
「おい、待て、アリア!」
俺の制止も聞かず、アリアはマネキンの目の前まで行くと、そのプラスチックの肩を、バン、と平手で叩いた。
「ほら見ろ、何も起きねえじゃねえか。ただの……」
アリアの言葉が、途中で止まった。
カクン。
静まり返ったフロアに、何か硬いものがずれるような、乾いた音がした。
それは、アリアが叩いたマネキンの、首の関節から発せられた音だった。
マネキンの首が、ギ、ギ、ギ、と、ぎこちない動きで、ゆっくりとアリアの方を向いた。
「……なっ」
アリアが、息をのむのが分かった。
それは、始まりの合図だった。
カクン。カクン。カクンカクンカクン。
フロア中に点在していた、何十、いや、何百という数のマネキンたちが、一斉に、同じような動作で、俺たちの方へと首を向けたのだ。
メンズコーナーのマネキンも。レディースコーナーのマネキンも。子供服売り場の、小さなマネキンまでも。
その全てが、無機質なプラスチックの瞳を、俺たち三人に、ぴたりと合わせていた。
それは、この世のものとは思えない、悪夢のような光景だった。
「ひっ……!」
俺の喉から、引きつったような短い悲鳴が漏れた。
次の瞬間。
ドタタタタタタタタタッ!!
全てのマネキンが、一斉に走り出した。
その動きは、およそ人間がするような滑らかなものではない。関節が固定されたまま、まるでコマ送りの映像のように、ぎこちなく、床を蹴ってこちらへ迫ってくる。ガシャガシャと、プラスチックの体がぶつかり合う、不快な音がフロア中に鳴り渡る。
「アリア!シルフィ!逃げよう!」
叫びながら振り返ると、アリアは既に長剣を抜き放ち、迫りくるマネキンの一体を、横薙ぎに切り払っていた。
ガキン! という硬い手応え。マネキンの胴体は、アリアの一撃で真っ二つに分断され、床に転がった。
「ちっ、こいつら……!」
だが、マネキンは動きを止めない。上半身だけになったマネキンが、腕だけで床を這い、アリアの足首を掴もうと迫ってくる。下半身も、まるで自分の意志があるかのように、その場で足踏みを続けている。
「アリア、そいつら、斬っても無駄だ!」
「分かってる! だが、こうでもしなきゃ、進めねえだろうが!」
アリアは床を這う上半身をブーツで踏み砕くと、次々と押し寄せるマネキンの群れに、再び剣を振るった。
「――風よ、壁となれ!」
シルフィの、凛とした詠唱が聞こえた。彼女が杖を前方に突き出すと、その先端から圧縮された空気の塊が放たれ、数体のマネキンを後方へと吹き飛ばした。だが、それも、ほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。吹き飛ばされたマネキンたちは、すぐに体勢を立て直し、再びこちらへ向かってくる。
数が、多すぎる。
この広大なフロアにいる、全てのマネキンが敵なのだ。その数は、百や二百ではきかないだろう。
どこもかしこも、マネキン、マネキン、マネキン。まるで、悪夢の中だ。
「くそっ、きりがない!」
アリアが悪態をつきながら、通路を塞ごうとするマネキンの首を、剣の柄で殴りつける。ゴツン、と鈍い音がして、マネキンの首が不自然な角度に折れ曲がった。それでも、そいつはまだ、こちらに向かってきた。
こいつらには、痛みも、恐怖もない。ただ、俺たちを襲うだけだ。それは、あの黒い塊とはまた違う、無機質で、感情のない、純粋な『殺意』だった。
俺たちは、まるで濁流に飲み込まれた木の葉のように、マネキンの大群に押し流されながら、ただ必死に戦闘を続けるしかない。
どこへ逃げればいい?
出口はどこだ?
このフロアから、生きて出られるのか?
分からない。
しかし、それに捕まったら、もう終わりだということだけは理解できていた。




