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第三話:邂逅

 無我夢中で走った。

 どれくらいの時間、どれくらいの距離を走ったのか、全く見当もつかない。ただ、あの黒い不定形の怪物から一秒でも長く、一ミリでも遠くへ逃げることだけを考えていた。肺が焼けつくように痛み、足はコンクリートブロックでも括り付けられたかのように重い。それでも、足を止めるという選択肢はなかった。立ち止まれば、あの黒い何かに触れるだけで『消滅』させられてしまう。その圧倒的な恐怖が、俺の体を無理やり前へ前へと突き動かしていた。


 やがて、前方に変化が見えた。今までと同じ殺風景な通路の先に、ぼんやりとした明かりが灯っている。それは巨大な洞窟の出口に差し込む光のようだった。希望と呼ぶにはあまりに頼りないその光へ、俺は最後の力を振り絞って突き進む。


 たどり着いた先は、だだっ広い空間だった。今までいた通路とは比べ物にならないほど天井が高く、いくつもの巨大な柱が天井を支えている。どうやら地下鉄の駅の中でも、複数の路線が乗り入れるターミナル駅のコンコースらしい。壁には色褪せた広告ポスターが貼られ、床には点字ブロックが続いている。見慣れた光景のはずなのに、相変わらず人の気配はどこにもなく、不気味なほどの静寂が支配していた。


 俺は壁に手をつき、ぜえぜえと激しく肩で息をする。しばらくの間、荒い呼吸音だけががらんどうの空間に空しくこだましていた。


「……はぁ……はぁ……なんなんだよ、いったい……」


 悪夢だ。そうに違いない。大学の最寄り駅からこんな訳の分からない場所に迷い込み、得体の知れない怪物に追いかけられるなんて。きっと疲れてホームのベンチでうたた寝でもしてしまい、その間に見ている質の悪い夢なのだ。そうでも考えなければ、到底、正気ではいられなかった。


 不意に、カツンと硬質な音がした。


 自分の呼吸音ではない、明確な『異音』。俺は息を止め、音のした方向を睨む。巨大な柱の向こう側からだ。誰かいるのか? それとも、またあの黒い……。


 いや、違う。今度の音は、あのねばつくような不快な気配とは全く異質だった。もっと鋭く、そしてどこか緊張をはらんだ音。


 柱の向こうから、ゆっくりと姿を現したのは、人間だった。

 少なくとも、人間の形をしていた。二人組だ。


 まず目に飛び込んできたのは、その非現実的な出で立ちだった。

 一人は、背の高い女の人だ。彼女が持つ瞳と同じ色――その鮮やかな金色の長髪を、うなじのあたりで一つに束ねていた。何より目を引くのは、その全身を覆う鈍い銀色に輝く金属鎧。ファンタジー映画でしか見たことのない、プレートアーマーそのものだ。腰に差した剣は俺の身長ほどもある長大なもので、モデルのような華奢な体型とは不釣り合いに見えた。しかし、その立ち姿には微塵の揺らぎもない。


 もう一人は、その女騎士に寄り添うように立つ小柄な少女。陽の光を浴びたことのない新雪のように真っ白な銀色の髪が、腰のあたりまで伸びている。服装は深い緑色のローブ。手には、先端に宝玉がはめ込まれた杖を握っていた。彼女にはほとんど表情というものがなかった。感情の存在を感じさせない静かな青い瞳が、ただじっとこちらを見据えている。


 ゲームかアニメの世界から、そのまま抜け出してきたような二人組。

 この異常な空間にはあまりにも不似合いで、しかし、この状況では何か別の説得力があった。


 金髪の女騎士は俺の姿を認めると、カッと目を見開いた。瞬時に腰の剣の柄へ手をかける。

 その美しい琥珀色の瞳には、剥き出しの警戒心があった。


「おい、お前! 何者だ!」


 凛とした、それでいてどこか荒々しい力強い声がコンコースに響いた。俺はびくりと体を震わせる。殺意。あの黒い怪物とは違う、もっと直接的で分かりやすい敵意が、まっすぐに俺に突き刺さっていた。


 まずい。これも敵か? 人間のように見えるだけで、中身はあの怪物と同じようなものなのか? だとしたら、もう終わりだ。疲労困憊の俺に、もう逃げる力は残っていない。


 だが、女騎士は剣を抜こうとはしなかった。柄に手をかけたまま、俺の頭のてっぺんからつま先までを値踏みするようにじろじろと眺めている。やがて、彼女は少しだけ眉根を寄せた。


「……なんだ、お前。武器も持ってないのか? それにその変な服……やけに弱そうだな」


 吐き捨てるような、しかし、どこか拍子抜けしたような口調だった。その言葉に、俺は安堵とほんの少しの屈辱を覚えた。どうやら俺のヨレヨレのTシャツとジーンズ姿、そして怪物から逃げてきたばかりの無様な様子が、彼女に『脅威ではない』と判断させたらしい。


 俺は、まだ荒い息を整えながらかろうじて声を絞り出した。


「て、敵じゃない……俺は、ただの人間だ……」


 両手をゆっくりと上げて、敵意がないことを示す。これ以上、刺激したくなかった。


「人間だと? こんな場所に、お前みたいなのが一人でいたのか?」


 女騎士は訝しげに問い返す。その隣で、銀髪の少女は相変わらず無表情のまま俺を観察していた。彼女の視線は、まるで未知の虫でも見るかのようだ。


「……気づいたら、ここにいたんだ。大学の駅から……。そしたら、黒いバケモノに追いかけられて……」


 支離滅裂になりながらも、俺は必死に説明した。

 俺の話を聞き終えても女騎士の警戒は解けなかったが、その瞳から最初の殺意のようなものは薄れていた。


「だいがく?なんだそれは」


 女騎士が心底、未知の単語を聞いたかのような対応をしてきた。


「ああ、大学っていうのは、色々な学問を学ぶための場所だ。」


「学問、ね。ま、よく分からんが、ガキが集まって何かを学ぶ場所ってことか」


 女騎士は納得したのかしていないのか、曖昧に頷くと、今度はまるで値踏みするように俺の全身を見た。


「まあ、わたしにとっては、どこのガキだろうが知ったことじゃない。それより、お前。あの気色の悪いやつらに会って、よく無事だったな」


「何か知ってるのか、あいつらを?」


 俺が問い返すと、女騎士は忌々しげに顔をしかめた。


「……いいや。だた、もう何匹か斬り捨ててきたところだ。連中、わたしの剣術が利くらしい」


 こともなげに言う女騎士。その言葉に、俺は「コスプレ」という可能性を完全に捨てた。彼女たちは本気だ。この敵意にあふれた世界で、実際に戦い、生き延びてきたのだ。だとすれば、この人たちは一体……? ファンタジー世界の住人、という非現実的な言葉が頭をよぎったが、この状況ではもはや、何でもありのようにも思えた。


 その時、今まで沈黙を守っていた銀髪の少女がぽつりと呟いた。


「……主張の揺らぎ、なし。嘘は言っていない。そして、あの化け物とも違う。少なくとも、彼は脅威ではない」


 短く、淡々とした、まるで分析結果を報告するかのような声だった。


「シルフィがそう言うなら、まあ、そうなんだろうな」


 女騎士は、シルフィと呼ばれた少女の言葉にあっさりと納得したようだった。彼女は剣の柄から手を離すと、やれやれといった様子で肩をすくめる。


「ったく、驚かせやがって。てっきり人の姿に化ける『擬態した化け物』ってやつかと思ったぜ」


 どうやら俺は本当に、かろうじて敵ではないと認識されたらしい。全身からどっと力が抜けていくのを感じ、俺はその場にへたり込みそうになった。


 俺たちはコンコースの隅にあるベンチに移動した。腰を下ろしたのは俺だけで、女騎士――アリアは腕を組んで仁王立ちし、魔法使いのような少女――シルフィは、その少し後ろで静かに佇んでいる。尋問はまだ続いているようだった。


「さて、改めて名乗る。わたしはアリアだ。こっちの無口なのがシルフィ」

「……ジュンだ。ヤナセ、ジュン」

「ジュンか。どこの国の人間だ? その服装、東方の国の者か?」

「日本っていう国だ。あんたたちこそ、その鎧……騎士か何か?」


 アリアは「ほう」と少し感心したように眉を上げる。


「そうだ、かつて、わたしはアースガルド王国騎士団に所属していた。まあ、今はただの冒険者でしかないがな」


 アースガルド、王国騎士団。まるで物語の中から飛び出してきたような言葉の連続。


「それで、お前のいた『ニホン』とやらは、どの辺りにあるんだ? 聞いたこともない辺境だな」

「……それは……」


 なんて説明すればいい。俺の世界の地図に、アースガルドなんて大陸も国も存在しない。目の前にいる明らかにファンタジーな世界の人間に、俺の出身を正直に話したところで、信じてもらえるだろうか。俺が言い淀んでいると、今まで黙って俺を観察していたシルフィが静かに口を開いた。


「……前提知識に、致命的な乖離がある。ジュンが口にする『大学』『日本』という単語を、私たちは知らない。そして、私たちが口にする『アースガルド』『騎士団』は、彼の知識にない」


 淡々とした、しかし核心を突く言葉だった。シルフィは俺に向き直る。


「この人は、異邦人」

「……!」

「異邦人? 訳の分かんねえこと言うなよ、シルフィ。要するに、こいつがとんでもない田舎者で常識知らずってだけだろ?」


 アリアが苛立ったように言った、その時だった。極度の緊張と疲労を安堵が俺の疲労を加速させていた。そして、俺の喉が限界だった渇きを訴えてひときわ大きく鳴った。ごくり、という音が静かな空間に響く。


「……水」


 シルフィが短く呟いた。彼女が持っていた杖の先端の宝玉が、ふわりと淡い青色の光を放つ。すると、何もない空間から透き通った水が湧き出し、球体となって宙に浮かんだ。


「ほらよ」


 アリアがその水の塊を無造作に手ですくい、俺の目の前に差し出した。俺は呆気にとられたまま、差し出された水を両手で受け止める。ひんやりとした感触。紛れもなく、本物の水だ。


「……これが、魔法……」


 俺はふわふわと浮かぶ水を口に運んだ。乾ききった喉を、命の水が潤していく。その冷たさが、この現象が現実であることを俺の脳に嫌というほど叩き込んできた。


 手品じゃない。トリックでもない。これは本物の『現象』だ。


「……やっぱり、あんたたちは俺の世界の人間じゃないんだ……!」


 俺の叫びにも似た呟きに、アリアは「は?」と怪訝な顔をした。


「何言ってんだ、お前」


 だが、シルフィは違った。彼女は静かな青い瞳で俺を真っ直ぐに見つめ、静かに問いかけた。


「あなたの世界。そこには、この理――『魔法』が存在しない?」

「……ああ。ない。俺たちの世界は、科学と技術でできてる。こんな奇跡みたいなことは、物語の中にしか存在しない」


 俺はリュックからスマートフォンを取り出し、画面を見せる。


「これも、魔法じゃない。電気の力で動いてるんだ」


 シルフィは、光る画面に強い興味を示した。


「でんき……未知の理。これが、あなたの世界の法則の産物」


 彼女は俺の言葉を、そして目の前にあるスマートフォンという物証を、冷静に分析し、受け入れたようだった。そして、俺と彼女の間で一つの共通認識が生まれる。


「……君たちは、違う『世界』の人間なんだ」

「そう」


 俺とシルフィのやり取りを見ていたアリアが、ついに我慢の限界といった様子で声を荒らげた。


「おい! さっきから二人でゴチャゴチャと! 異邦人だの別の世界だの、訳の分からんことばかり言いやがって! シルフィ、この変な場所にあてられて、頭でもおかしくなったのか!?」


 彼女の剣幕に、俺は一瞬たじろぐ。アリアの常識では、「世界が複数ある」なんてことは想像の範疇を超えているのかもしれない。それはそうだ。俺だって、ほんのついさっきまでそうだったのだから。


 シルフィはアリアに向き直り、いつもと変わらない淡々とした口調で告げた。


「アリア。事実を報告する。彼は、私たちの世界とは異なる物理法則で構成された、別の現実から来た存在。彼の持つ『スマートフォン』という道具が、その証明」

「はぁ!?」

「そして、この場所は彼の世界でも、私たちの世界でもないと、推測される」

「……」


 アリアは言葉を失い、シルフィと俺の顔を交互に見ている。

 俺も必死に訴えかけた。


「信じられないかもしれないけど、本当なんだ!俺の世界にはアリアみたいな騎士も、シルフィみたいな魔法使いもいない! あんたたちの言うアースガルドなんて国も、地図のどこにも載ってないんだ!」

「そんな……そんな馬鹿な話があるか……!」


 アリアは、まだ信じられないといった様子で頭を振っていた。


「……信じられるか、こんなこと……」


 呻くように呟くと、アリアはがしがしと金色の髪を掻きむしった。琥珀色の瞳が、混乱に揺れていた。


「……だが……信じるしか、ねえってのかよ……。そうだな。確かに……。この状況じゃあな……」


 吐き捨てるようにそう言うと、彼女は深く、深いため息をついた。



 重苦しい沈黙が、コンコースに落ちた。

 やがて、最初にそれを破ったのは、いち早く状況を受け入れたアリアだった。


「……ちっ。もういい!お前がどっから来ただろうか、知ったことか!問題は、ここがどこでどうすれば出られるかだ!」


 その切り替えの早さに、俺は少し驚いた。彼女は細かいことを考えるのが苦手な分、一度受け入れてしまえば行動に移るのは早いのかもしれない。


「私たちは、ダンジョンの調査中に……気づいたらここにいた。もう何日も、出口を探して歩き回ってる」

「何日も!? 食料は?」

「携帯食ももう尽きそうだ。水は、さっきみたいにシルフィの魔法でどうにかなってるが……」


 尽きかけていく資源。徘徊する正体不明の敵。出口のない閉鎖空間。状況は、絶望的と言ってよかった。


「……なあ」


 俺は覚悟を決めて、アリアに向き直った。


「俺は、あんたたちみたいに戦えないし魔法も使えない。多分、足手まといになるだけだ」

「分かってるじゃねえか」とアリアは鼻を鳴らす。

「でも、三人いれば何か変わるかもしれない。一人より二人、二人より三人の方が生き残れる確率は上がるはずだ。それに、俺の世界の知識が何か役に立つかもしれない。だから……俺を、あんたたちの仲間に加えてくれないか?」


 俺の必死の提案に、アリアは腕を組んだまましばらく黙り込んでいた。彼女がちらりとシルフィの方を見ると、シルフィは小さくこくりと頷いた。


「……彼の知識、未知の法則は、利用価値、あり」


 シルフィの言葉が、決め手になったようだった。

 アリアは大きなため息を一つ吐くと、やれやれといった様子で俺を見下ろした。


「……分かったよ。シルフィがそう言うなら仕方ねえ。ただし、条件がある!」

「条件?」

「ぐずぐずするな!わたしの指示には絶対に従え! 勝手な行動は許さねえ! もし、少しでも怪しい動きを見せたら……その時は、容赦なく斬り捨てるからな! 分かったか!」


 ビシッと俺に指を突きつけて、アリアは言い放った。その瞳は本気だった。


「……分かった。それでいい。それで、これからどうするんだ?」


 俺が尋ねると、アリアはコンコースの奥、その先の通路を示した。


「一つだけ、気になる場所がある。この先にある、やたらだだっ広い吹き抜けの空間だ。そこはよ、今までのどの場所とも少し雰囲気が違ったんだぜ」

「雰囲気が違う?」

「ああ、うまく言えねえが……何か、あるような、そんな感じがしたんだ」


 シルフィも静かに頷く。


「……そこへ、行く。その場所こそが、この空間の中心、あるいは出口に繋がる手がかりがある可能性が高い」


 危険かもしれないが、このままここにいても状況は悪化するだけだ。一か八か、賭けてみるしかない。


「よし、分かった」


 俺は立ち上がった。


「行こう。その場所に」


 俺の言葉に、アリアは満足そうにニッと不敵な笑みを浮かべた。


「おう、話が早くていいじゃねえか! 行くぞ、ジュン! シルフィ!」


 俺たちは、再び歩き始めた。


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