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第二話:遭遇

 どれくらい歩き続けたのか、もう分からなかった。同じようなタイル張りの通路、同じような柱、同じような広告のポスター。景色は無限にコピー&ペーストを繰り返しているかのようで、自分が前に進んでいるのか、それとも同じ場所をぐるぐると回っているだけなのか、その感覚さえ曖昧になってくる。スマートフォンの画面を点灯させれば現在時刻くらいは分かるだろうが、バッテリーの残量が気になって、そう頻繁に確認する気にもなれなかった。それに、この世界で現実世界の時間と同じように時が流れている保証など、どこにもないのだ。


 ただ一つ確かなのは、俺の身体が着実に生命活動を維持するためのエネルギーを要求し始めていることだった。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むのさえ億劫になってきた。腹の底からは、まるで自分の内側で小さな獣が鳴いているかのような、情けない音が断続的に聞こえてくる。この閉鎖空間に迷い込んでから、長くとも数時間くらいしか経っていないはずだ。それなのに、肉体的な消耗は、徹夜でレポートを書き上げた日の比ではなかった。精神的な疲労が、肉体の疲労を何倍にも増幅させているのだろう。


 壁に手をつき、荒い息を整える。ひんやりとしたタイルの感触が、少しだけ思考をクリアにしてくれる気がした。このままではまずい。水分と食料。何よりもまず、それを確保しなければ。体力と思考能力、その両方が底をついてしまえば、この異常な状況で生き延びることなど到底不可能だ。

 だが、どこに? このループしているかのような無機質な空間のどこに、食料があるというのか。自販機の一つくらいあってもよさそうなものだが、ここまで歩いてきた通路には、そんな文明の利器は一つも見当たらなかった。あるのは、色褪せた広告ポスターと、薄汚れた壁だけだ。


 俺はふらつく足で、再び歩き始めた。何か、ほんの少しでもいい。これまでと違う景色、違うものが目に入ってこないか。藁にもすがる思いで、壁のタイルの模様一つ一つにまで注意を払いながら進んでいく。その行為自体が、ほとんど意味のないことだと頭では分かっていたが、そうでもしていないと、心が折れてしまいそうだった。

 いくつめの角を曲がった時だろうか。

 不意に、俺の目にこれまでとは明らかに違うものが飛び込んできた。


 光だ。


 通路の少し先、その一角から、煌々とした白い光が漏れていた。それは、この駅全体の天井から降り注ぐ青白いLEDの光とは質の違う、もっと暖かみのある、生活感を想起させる光だった。まるで、暗い海の底を彷徨う深海魚が、一筋の光を見つけたかのような感覚。俺は、ほとんど無意識のうちに、その光に向かって駆けだしていた。乾ききった喉がひりつき、足がもつれる。それでも、足を止めることはなかった。


 光の源は、すぐに分かった。

 それは、通路の壁に埋め込まれるような形で存在していた。見慣れた緑と白のストライプ模様の看板。ガラス張りの自動ドア。


 コンビニだ。


 駅の構内でよく見かける、小規模な店舗だった。その見慣れた光景が、今はまるで砂漠で見つけたオアシスのように輝いて見えた。


「……助かった」


 かすれた声が、自分でも驚くほど素直に口からこぼれた。助かった、と本気で思った。少なくとも、水と食料は手に入る。それだけで、絶望の淵に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように思えた。


 俺は、コンビニの入り口に近づいた。自動ドアは、スゥーと開いた。


 店内に足を踏み入れると、独特の匂いが俺を迎えた。弁当や総菜の匂い、コーヒーの香り、雑誌のインクの匂い。

 それらが混じり合った、コンビニ特有の生活の匂い。

 店内は、無人であること以外、何一つおかしなところはなかった。

 商品棚には、おにぎりやサンドイッチ、ペットボトル飲料やスナック菓子が、客が来るのを待っているかのように整然と並べられている。

 賞味期限を確認すると、ごく最近の日付が印字されていた。この空間が、いつからこの状態なのかは分からないが、少なくともここの商品は『生きていた』。


 俺はまず、ドリンクコーナーに向かった。

 冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出してくる。

 迷わずミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、その場でキャップを開けて呷るように飲んだ。乾いた喉を、冷たい液体が通り過ぎていく感覚が、たまらなく心地よかった。

 半分ほど一気に飲み干し、ようやく人心地つく。


 次に、食料だ。日持ちのしそうなパンやカロリーバー、チョコレートなどを手当たり次第に買い物カゴに放り込んでいく。

 こんな状況で代金を払う必要はないだろうが、それでもどこか罪悪感のようなものが芽生え、必要最低限のものだけを選ぶように心がけている自分がいた。

 馬鹿馬鹿しい、と思った。そうだ、この生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに。しかし、一度、染みついた常識というのは、そう簡単には抜けないものらしい。


 食料と水を確保できたことで、精神的にかなりの余裕が生まれた。

 俺は集めた商品をレジの上に置いた。そして、レジカウンターの内側に入り、従業員用の椅子に腰を下ろして一息ついた。カウンターの上には、小さなモニターが四つ、壁に設置されている。防犯カメラの映像だろう。

 真っ暗な画面がほとんどだった。ただ、一つだけ、はっきりと映像を映し出しているモニターがあった。


 何気なく、そのモニターに目をやった。


 それは、店の入り口付近あたりを映しているようだった。


 その瞬間、俺は全身の動きを止めた。


 モニターの隅、通路の床に、何か黒いものが映り込んでいる。


 ゴミか?いや、違う。


 それは、ゆらゆらと、まるで陽炎のように揺れていた。

 濃い墨汁を、静かな水面に一滴落とした時のような、不定形で、明確な形を持たない、黒い染み。それが、じわり、じわりと、床を這うようにして、コンビニの入り口に向かってきている。


 なんだ、あれは。


 得体の知れないものに対する嫌悪感が、背中を駆け上がった。

 俺はモニターから視線を外し、現実の、ガラス張りの店の入り口へと目を向けた。自動ドアの向こう側。


 いた。


 モニター越しに見たそれよりも、遥かに大きく、遥かに濃い、純粋な『黒』が、そこにいた。

 それは生き物と呼べるのかさえ分からない。目も、口も、手足もない。ただ、不定形の黒い塊が、アメーバのように、あるいは粘菌のように、蠢いている。その存在は、この世界のあらゆる法則から逸脱しているように見えた。物理的な質量を持っているのかどうかすら怪しい。しかし、そこにあるだけで、周囲の空間がねじ曲げられるような、強烈な圧迫感を放っていた。


 直感が、警鐘を乱れ打つ。

 あれは、駄目だ。

 あれは、この世界の『住人』ではない。俺と同じ、異物だ。だが、俺とは違う。あれは、捕食者だ。


 見つかったら、終わる。喰われる。消される。そんな根源的な恐怖が、俺の思考を支配した。


 俺は買い物カゴを床に落とすのも忘れ、息を殺してその場にしゃがみこんだ。

 このコンビニは、駅の売店を少し大きくした程度の、極小の店舗だ。隠れる場所など、ほとんどない。

 今俺がいる、この低いレジカウンターの壁が、唯一の遮蔽物だった。


 

 心臓のあたりが、氷の塊でも押し付けられたかのように冷たい。

 全身の血が、急速に温度を失っていくような感覚。

 喉の奥がカラカラに乾いて、張り付いてしまいそうだ。俺は低いカウンターの壁に背中を押し付け、ただ息を殺していた。さっきまで手にしていた買い物カゴは、床の上で無様に転がっている。それを拾い上げる余裕なんて、どこにもなかった。指先一本、動かすことすらできない。


 ギ、……ギチ、……。


 何か、床を擦るような、粘り気のある音が聞こえる。それは、店の入り口の方からだった。

 あの黒い塊。

 間違いなく、あれが出している音だ。まるで、粘度の高い液体が、床のタイルにまとわりつきながら移動しているかのような、不快な音。聞いているだけで、全身の皮膚が粟立つ。


 見たい、でも、見たくない。


 確認しなければという理性と、見ると気配から向こうに捕捉されるかもしれない、が頭の中で激しくせめぎ合う。

 ほんの少しだけ、ほんの数ミリだけ、カウンターの端から顔をのぞかせる。その行為が、とてつもなく大胆なことのように思えた。


 それは、まだ入り口の自動ドアの隙間にいた。相変わらず、墨汁を水に落としたような、定まらない形をしている。それが、まるで巨大な肺か心臓のように、わずかに膨張と収縮を繰り返していた。その動きに合わせて、あの粘ついた音が聞こえてくる。大きさは、大人が一人、膝を抱えて丸くなったくらいだろうか。しかし、それは常に形を変え続けているため、正確な大きさは掴めない。ただ、そこにあるだけで、周囲の空気がよどんでいくような、そんな強烈な圧迫感があった。あれは、間違いなくこの世界の法則から外れた何かだ。生き物なのか、現象なのか、それすらも分からない。しかし、強烈な『悪意』や『飢餓』のようなものを、肌で感じる。胃の腑を直接掴まれるような、原始的な恐怖。あれに見つかってはいけない。その確信だけが、俺の体を支配していた。


 黒い塊は、しばらくその場でうごめいていたが、やがて、スルスルと店内に入ってきた。まずい。


 俺は慌てて頭を引っ込めた。ドクン、ドクンと、自分の脈打つ音が耳元でうるさいほどに鳴り響く。

 静かにしろ、静かにしろよ、俺の身体。この音を聞かれたら、終わりだ。俺は両手で自分の胸を押さえつけ、必死にその鼓動を抑え込もうとした。


 黒い塊は、驚くほど静かに店内を進んでくる。さっきの粘ついた音はもう聞こえない。ただ、空気が重くなっていく感覚だけが、その接近を知らせていた。


 まるで、水中にゆっくりと沈んでいくような、息苦しい圧迫感。


 どこへ向かっている? 俺のいる、このカウンターか? それとも、別の場所か?


 分からない。分からないことが、恐怖をさらに増幅させる。まるで、目隠しをされて、すぐそばに猛獣がいると告げられたような気分だった。汗が、こめかみを伝って流れ落ちるのが分かった。


 俺は、カウンターの壁に爪を立てた。このままここにいても、見つかるのは時間の問題かもしれない。この店は狭い。隠れる場所なんて、たかが知れている。あの黒い塊が、計画的に店内を探索し始めたら、俺がここにいることなどすぐに見抜かれてしまうだろう。


 どうする。どうすればいい。思考がまとまらない。パニックになりかけた頭を、必死で抑えつける。


 落ち着け。


 まずは状況を確認するんだ。深呼吸一つでさえ、命取りになりかねない。


 俺はもう一度、カウンターの端から、今度は床に頬をこすりつけるようにして、低い位置から店内をうかがった。

 黒い塊は、雑誌コーナーの前にいた。陳列された雑誌を眺めるでもなく、ただその場で、ゆらゆらと揺れている。まるで、何かを探しているかのように。あるいは、獲物の気配を慎重に探っているのかもしれない。その動きは、目的を持っているようにも、ただ漂っているようにも見え、その掴みどころのなさが、余計に不気味だった。


 そして俺は、信じられない光景を目の当たりにした。


 黒い塊が、雑誌が陳列された棚に、ゆっくりと『触れた』。すると、触れた部分の棚が、まるで熱い鉄板の上に乗せられたバターのように、音もなく、液体のようにどろりと溶け始めたのだ。

 プラスチックも、金属も、紙も、インクも、区別なく、すべてが黒い塊に吸収されていく。それは捕食というよりも、もっと根本的な『消滅』に近い現象に見えた。あの黒い塊は、この世界の物質を、その存在ごと喰らっているのだ。

 雑誌コーナーの一角が、ごっそりと抉り取られたように消滅する。その跡には、何も残らなかった。

 腹の底から、冷たいものがせり上がってくるのを感じた。


 あれに触れられたら、俺もああなるのか。


 痛みを感じる暇もなく、この世界から、俺という存在そのものが消し去られてしまうのか。

 黒い塊は、雑誌コーナーを消滅させると、その場でピタリと動きを止めた。まるで、次の獲物を品定めするかのように、あるいは、俺の存在を既に正確に捉えているかのように。


 数秒の、永遠にも感じられる静寂。


 やがて、それは、ゆっくりと向きを変えた。

 レジカウンターの方へ。俺が息を殺して隠れている、この場所へ。


 来る。

 こっちに来る。

 俺は全身の血が凍りつくのを感じた。もうだめだ。逃げ場はない。この狭いカウンターの裏で、あの消滅の塊に見つかるのを待つだけなのか。

 じり、じりと、黒い塊が床を這ってくる。もう、カウンターのすぐそこまで来ている。俺は観念して、固く目をつぶった。


 死ぬ。


 脳裏に、その二文字が黒々と浮かび上がった。


 あっけない。


 こんな訳の分からない場所で、訳の分からないものに喰われて、俺の人生は終わるのか。

 昨日まで当たり前のように見ていた大学の風景が、頭の中を駆け巡っては消えていく。


 ぬるり、とカウンターの向こう側から、黒い塊の一部が乗り越えてくる気配がした。粘つくような音は聞こえない。だが、空気が淀み、温度が奪われていく感覚が、その接近を何よりも雄弁に物語っていた。


 もう、本当に、終わりだ。

 そう思った瞬間。


 俺の身体は、思考よりも先に動いていた。


『生きたい』


 それは、理屈ではない。ただ、魂の根源から湧き上がる、本能の叫びだった。

 俺は、目を見開くと同時に、床を蹴っていた。


「うおおおおおおっ!」


 意味の分からない雄叫びを上げながら、カウンターの端から飛び出す。目標はただ一つ、店の入り口。あの黒い塊が今まさに通り抜けようとしている、その脇をすり抜けて、外へ。

 ほとんどゼロ距離。俺のすぐ横を、あの『消滅』が通り過ぎていく。触れれば終わり。その事実が、アドレナリンを全身に駆け巡らせる。世界が、スローモーションになったかのように感じられた。

 黒い塊が、俺の動きに気づいて、にゅるり、と触手のようなものを伸ばしてくるのが見えた。速い。だが、今の俺の、火事場の馬鹿力と言うべき瞬発力の方が、わずかに上回っていた。


 伸ばされた黒い触手。


 俺には届くことはなかった。黒い塊が、俺に直接触れなかったのは、奇跡としか言いようがなかった。

 俺は、もつれる足を必死に前に出し、開いたままの自動ドアを、転がり込むようにして飛び出した。


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