第十四話:迷宮
希望、というやつは、どうやらとんでもなく足が速いらしい。
さっきまで俺たちの心を鉛みたいに重くしていた絶望感なんてものは、今や影も形もなく、苔むしたダンジョンの暗がりの向こうへと走り去ってしまったようだった。代わりに俺たちの間を満たしているのは、風呂上がりの炭酸飲料みたいに、身体の芯から弾けるような高揚感だ。
「おい、ジュン! ぼーっとするな、置いてくぞ! この先は、確かスケルトンがうろついてるエリアだ! 骨だけになっても騎士を気取ってる、往生際の悪い連中だがな!」
先頭を歩くアリアが、肩越しに振り返って快活に笑う。その声は、石造りの通路によく通った。燭台の青白い炎が、彼女の金色の髪をきらきらと照らし出している。全身から「嬉しい」という感情がオーラみたいに立ち上っているのが、離れていてもはっきりと分かった。
「スケルトンって……マジでいんのかよ、そんなのが」
「当たり前だろ!あいつら、見た目はひょろいが、意外と剣の筋がいいやつもいるから油断するなよ!まあ、わたしの敵じゃねえがな!」
アリアはそう言って、腰の長剣の柄をポンと叩いた。自信満々のその様子は、ショッピングモールでマネキン相手に苦戦していた時とは大違いだ。ここは、彼女の庭なのだ。水を得た魚、というよりは、戦場に解き放たれた獅子と言った方がしっくりくる。
「……スケルトン。脅威度は低い」
俺の隣を歩くシルフィが、いつも通りの淡々とした口調で分析を加える。だが、その声には、どこか普段よりも弾むような響きがあった。フードの奥から覗く青い瞳も、らんらんと輝いているように見える。彼女にとっても、この『いつものダンジョン』は、心安らぐ場所なのだろう。
俺は、そんな二人を眺めながら、改めて自分たちが置かれた状況を考えていた。
正直、まだ実感が湧かない。
さっきまでいた、あの現代的な建物群とはあまりにもかけ離れた、ファンタジーの世界そのものの光景。壁を覆う苔の匂い、ひんやりと肌を撫でる湿った空気、遠くから聞こえてくる、獣ともつかない低い唸り声。その全てが、俺の常識の外側にある。
でも、不思議と不安はなかった。
アリアとシルフィがいる。ただそれだけで、ここがどこであろうと、俺は大丈夫だと思えた。それに、あの悪夢のような静寂と比べれば、モンスターの唸り声だって、心地いいBGMみたいなものだ。
「しかし、腹が減ったな! 早くダンジョンを抜けて、街の酒場で酒をがぶ飲みしてやる! それから、羊肉のシチューと、焼きたての黒パンだ!考えただけでよだれが出てきやがる!」
「あんたは食い物のことばっかりだな……」
「うるせえ! 生きるってのは、食うことだろうが! なあ、シルフィもそう思うだろ?」
「……同意。栄養補給は、生命活動の基本」
「だよな!ジュン、お前も街に着いたら、好きなだけ食っていいからな!わたしが美味い店に連れてってやる!」
「ああ、楽しみにしてるよ」
俺たちは、そんな他愛のない話をしながら、石の通路を進んでいった。
アリアの言葉通り、しばらく進むと、通路のあちこちで、白骨がごろごろと転がっているのが目につくようになった。中には、錆びついた剣を握りしめたまま、壁にもたれかかって事切れているものもいる。これが、スケルトンか。
「あれ? おかしいな。いつもなら、この辺で何体か襲ってくるはずなんだが……」
アリアが、不思議そうに首をひねった。
「今日はやけに静かだな。まあ、わたしが帰ってきたって聞いて、怖くて隠れてるのかもしれんがな! がはは!」
豪快に笑うアリア。
俺たちは、さらにダンジョンの奥へと進んでいく。
アリアの記憶は正確なようで、彼女の言葉通りの分岐点や、目印となる特徴的な形の岩が次々と現れた。
「よし、この角を曲がれば、でかい空洞だ!トロールの骨が……」
アリアが、意気揚々と角の向こうを指差した、その時だった。
彼女は、何かを言いかけて、ぴたりと動きを止めた。
その背中から、今まで感じたことのない、戸惑いの色が立ち上る。
「……あれ?」
アリアの、気の抜けたような声が、静かな通路にぽつりと落ちた。
「どうしたんだよ?」
俺が彼女の横から顔を出すと、アリアは信じられないといった顔で、角の向こうを指差していた。
「……おかしい。空洞は、どこだ?ここを曲がれば、開けた場所に出るはずなんだが……」
彼女が指差す先には、今まで俺たちが歩いてきたのと、寸分違わぬ、苔むした石の通路が続いているだけだった。
俺も、あれ、と思った。アリアの話では、ここには大きな空間が広がっているはずだった。だが、目の前の光景は、ただの通路だ。
「道を間違えたんじゃないのか?」
「馬鹿言うな! このダンジョンは、わたしの庭みたいなもんだ! 間違うはずが……」
アリアは、そこまで言って、はっと何かに気づいたように、近くの壁に視線を走らせた。そして、ある一点を、じっと見つめている。
「……この壁の傷……」
彼女が指差す先。そこには、剣でつけられたような、十字の傷跡が深く刻まれていた。
「この傷……わたしが昔、訓練でつけたやつだ。見ろ、わたしの剣の幅とぴったり合う」
アリアは、自分の長剣を抜くと、その切っ先を傷跡に合わせた。確かに、ぴったりと重なる。
「……でも、おかしい。この傷は、もっと手前の……さっき俺たちが通ってきた通路にあったはずだ。なんで、こんなところに……」
アリアの言葉が、だんだんと弱々しくなっていく。
俺の背筋を、冷たいものがすっと走り抜けた。
この感覚。
この、ありえないはずの光景。
俺は、この感覚を、よく知っている。
「……シルフィ」
アリアが、助けを求めるように、隣に立つエルフの名前を呼んだ。
シルフィは、無言のまま、ゆっくりと壁に近づくと、その白い指先で十字の傷跡をそっとなぞった。そして、静かに目を閉じ、何かを探るように集中している。
数秒の沈黙。
やがて、彼女はゆっくりと目を開くと、いつもと変わらない、淡々とした声で告げた。
「……魔力の残滓が、同じ。さっき私たちが通った場所と、完全に一致する」
「なっ……! じゃあ、なんだってんだ! 同じ場所が、二つあるってことか!?」
アリアの叫びに、シルフィは静かに首を振った。
「いいえ。ここは、さっき私たちがいた、全く同じ場所」
「……は?」
「私たちは、前に進んでいるようで、同じ場所を、ただぐるぐると回っているだけ」
ループ。
その言葉が、俺の頭の中で、警報のように鳴り響いた。
そうだ。地下鉄のホームも、ショッピングモールのバックヤードも、そうだった。どこまで進んでも、結局は元の場所に戻ってきてしまう、あの悪夢。
嘘だろ。
せっかく、抜け出せたはずなのに。
ここは、アースガルドなんだろ?
アリアたちの、故郷なんだろ?
「……そんな、馬鹿な……」
アリアが、呆然と呟いた。彼女の顔から、血の気がさっと引いていくのが分かった。さっきまでの快活な笑顔はどこにもない。そこにあるのは、理解できない現象を前にした、純粋な恐怖と混乱だった。
希望に満ちていた空気が、急速に温度を失っていく。燭台の青白い炎が、やけに冷たく感じられた。
「落ち着け、アリア。きっと、何かの間違いだ。このダンジョンが、そういう構造になってるだけかもしれない」
俺は、自分に言い聞かせるように言った。そうだ。ここは、俺たちのいた『あんな場所』じゃない。剣と魔法の世界のダンジョンなんだ。こういう、不思議な仕掛けがあったって、おかしくはない。
そうに決まってる。
そうじゃなきゃ、困る。
「……ああ。そうだな。そうかもしれん。わたしの知らない、新しい罠が仕掛けられただけかもしれない。よし、もう一度、注意深く進んでみよう」
アリアも、無理やり自分を納得させるように頷いた。だが、その声は明らかに震えていた。
俺たちは、再び歩き出した。さっきまでの、軽やかな足取りはもうない。誰もが口を閉ざし、自分の足音だけが、重く通路にこだましていた。
五分ほど歩いただろうか。
俺たちは、ある通路の角で、ぴたりと足を止めた。
その壁には、剣でつけられたような、十字の傷跡が、深く刻まれていた。
「……あ……」
アリアの喉から、引きつったような声が漏れた。
だめだ。
何度やっても、同じだ。
俺たちは、この石造りの迷路に、完全に閉じ込められてしまったのだ。
希望が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。まるで、砂の城が波にさらわれるように、あっけなく。
◇
空気が、重い。
まるで、水の中にいるみたいに、呼吸をするのさえ億劫だった。
俺たちは、あの十字の傷跡の前で、ただ立ち尽くしていた。誰一人、言葉を発しようとしない。何を言えばいいのか、分からなかったからだ。
アリアは、壁に刻まれた傷を、まるで親の仇でも見るかのような険しい顔つきで睨みつけている。その拳は、白くなるほど固く握りしめられていた。シルフィは、うつむき加減で、自分の杖の先端をじっと見つめている。彼女の長い銀髪が、その表情を隠していた。
俺は、そんな二人を交互に見ることしかできなかった。
なんて声をかければいい?
「大丈夫だ」なんて、無責任なことは言えない。「何とかなるさ」なんて、何の根拠もない。
だって、俺には分かってしまったからだ。
この状況が、何を意味するのか。
手記にあった、あの言葉が、頭の中で何度も何度も再生される。
『出口はない。だが、別の場所へ 外れ落ちることができるかもしれない』
そうだ。あの手記の主は、言っていた。
出口は、ないと。
でも、俺たちは、あの儀式で、ここへ来た。アリアとシルフィの故郷である、アースガルドのダンジョンへ。
それは、脱出じゃなかったのか?
あの悪夢からの、解放じゃなかったのか?
違う。
違うんだ。
俺は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
『この悪夢には、階層のようなものがあるらしい』
『特定の儀式を行うことで、この階層から、別の階層へ、意図的に 外れ落ちる ことができるはずだ』
そうだ。
『脱出』じゃない。
『外れ落ちる』
それは、救いなんかじゃない。ただ、今いる悪夢から、次の悪夢へと、場所を移動するだけの行為だったんだ。
じゃあ、ここは?
この、アリアとシルフィが故郷だと言った、このダンジョンは?
まさか。
「……おい」
不意に、アリアが低い声で言った。
彼女は、壁から視線を外し、俺の方をゆっくりと見た。その琥珀色の瞳には、もう怒りの色はない。ただ、底なしの、暗い色が広がっているだけだった。
「なあ、ジュン。お前のいた、あの変な場所……ショッピングモール、だったか? あそこも、こんな感じだったのか?」
「……え?」
「どこまで行っても、同じ景色が続いて、出られない。そんな感じだったのかって、聞いてるんだ」
アリアの問いに、俺はこくりと頷くことしかできなかった。
そうだ。全く、同じだ。
違うのは、景色だけ。
地下鉄のホームが、ショッピングモールが、この石造りのダンジョンに変わっただけ。
本質は何も変わっていない。
ここは檻だ。
俺たちは、一つの檻から、別の檻に移されたに過ぎない。
「……そうか」
アリアは、それだけ言うと、ふっと自嘲するように笑った。
「はは……なんだ、そういうことかよ。帰ってこられたなんて、浮かれて……馬鹿みたいだ、わたしは……」
彼女は、その場にずるずると座り込んだ。長剣が、カラン、と乾いた音を立てて床に転がる。その音は、まるで、彼女の心が折れた音のようだった。
希望を、根こそぎ奪われた人間の顔だった。
俺は何も言えなかった。
だって、希望を与えたのは、俺だったからだ。
手記を見つけて、儀式をやろうと言い出したのは、俺だった。俺が二人を、もっと深い絶望の底へ、引きずり込んでしまったんだ。
「……違う」
その時、今まで黙っていたシルフィが、静かに顔を上げた。
彼女は、俺たちの前に歩み出ると、座り込んでいるアリアの前に、そっと膝をついた。
「アリアのせいじゃない。ジュンのせいでもない。これは、この世界の法則」
シルフィは、アリアが落とした長剣を拾い上げ、その柄を、アリアの手にそっと握らせた。
「私たちは、選択した。あのまま、あの場所で朽ち果てることを、拒んだ。その結果が、これ。なら受け入れるしかない」
シルフィの言葉は、いつも通り、静かで淡々としていた。だが、その一言一句に、有無を言わせない、強い力がこもっていた。
「……シルフィ……」
シルフィは立ち上がると、今度は俺の方を向いた。彼女の青い瞳が、俺をまっすぐに見つめている。
「手記には、『目的の場所へ外れ落ちる』とあった。どうして、私たちはダンジョンに来た?」
シルフィの問いに、俺ははっとした。
そうだ。なぜだ?
儀式を行ったのは、あのプールだった。そこから落ちてきた先は、アリアたちにとって既視感があるダンジョン。
これまで通ってきたのは、どこも俺が既視感を感じるような場所。
「そう。状況は変わりうる」
シルフィは一人納得したかのように呟く。
「そうだ、これまでの訳が分からんところより、正解に近づいてるんだ!」
項垂れていたアリアが、復活の狼煙を上げたかのように、突然叫んだ。
「シルフィの言う通りだ。ここなら、まだ、わたしの勘も働く。まだ、諦める段階じゃないさ!」
「そう。状況は変わりうる」
シルフィは一人納得したかのように呟く。
「そうだ、これまでの訳が分からんところより、正解に近づいてるんだ!」
項垂れていたアリアが、復活の狼煙を上げたかのように、突然叫んだ。
「シルフィの言う通りだ。ここなら、まだ、わたしの勘も働く。まだ、諦める段階じゃないさ!」
アリアは、シルフィに握らされた長剣を、今度は自分の意志で、強く、強く握りしめた。そして、剣を支えにして、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がる。その琥珀色の瞳には、さっきまでの暗い色はもうない。代わりに、逆境の中でこそ燃え上がる、不屈の炎が赤々と灯っていた。
「分かった。進もう」
俺も、二人の姿に勇気づけられた。そうだ。絶望している場合じゃない。終わってなんかいない。
「ああ! それに、ただループしているだけじゃないかもしれん。何か、法則があるはずだ。わたしたちが気づいていないだけの、このダンジョンの『解き方』がな!」
アリアは、今や完全にいつもの調子を取り戻していた。彼女は壁の十字傷を睨みつけ、今度は挑戦的な笑みを浮かべる。
「面白いじゃないか。こいつは、このダンジョンからの挑戦状ってわけだ。受けて立ってやろうぜ!」
「……同意。ジュンの知識と、私たちの経験。それを合わせれば、このループの法則を解明できる可能性は、高い」
シルフィが、静かに、しかし力強く俺たちの言葉を肯定する。そうだ。俺たちには、それぞれの武器がある。
「これまでと同じように、このダンジョンにだって、絶対に何かあるはずだ。進めば何かあるだろう」
「よし、じゃあ決まりだ!」
アリアが、仕切り直すようにパンと手を叩いた。
「ただ闇雲に進むんじゃない。このループの中に隠された『違い』を探しながら進むぞ! 壁の模様、床の石の色、空気の匂い、どんな些細なことでもいい! それこそが、このクソッタレな迷路からの出口に繋がる、唯一の道しるべだ!」
「ああ、分かった! それなら、目印を残していこう。俺のバックパックに、確かガムテープがあったはずだ。通った場所に印をつけていけば、ループの構造がもっと分かりやすくなるかもしれない」
「なるほど。合理的。情報の可視化は、分析の第一歩」
シルフィが、俺の提案に静かに頷いた。
絶望は、もうどこにもなかった。代わりに、俺たちの間には、困難な謎解きに挑むかのような、不思議な一体感が生まれていた。
悪夢は終わっていなかった。だが、俺たちの戦いも、まだ終わっちゃいない。
次なる悪夢が、その先で口を開けて待っているとしても、もう、俺たちは進むしかないのだから。




