第十二話:落下
「……ここでいいのか?」
プールサイドのほぼ中央、スタート台が並ぶラインと垂直に交わる地点で、アリアが周囲を見回しながら言った。ここなら、四方を見渡せる。何かが現れても、すぐに対応できるはずだ。
「ああ、手記の記述に一番近いのはここだ。俺が魔法陣を描く。二人とも、援護を頼む」
俺はバックパックから、大学ノートと油性の極太マジックを取り出した。ノートの最後の数ページに描かれた、走り書きのような図形。それは、幾何学模様のようでもあり、どこか古代の文字のようでもあった。シルフィが儀式で描いた魔法陣とは、明らかに様式が違う。もっと無骨で、呪術的な雰囲気をまとっていた。
俺はノートを床に広げ、その複雑な図形と足元のコンクリートを交互に見比べながら、マジックのキャップを外した。冷たく、乾いたコンクリートの上に、黒々としたインクで最初の一本線を描き入れる。キュッ、というマジックのペン先が擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
集中しろ。一本でも線を間違えたら、何が起こるか分からない。
俺が最初の一筆を入れた、その時だった。
ふと、空気が変わった。
さっきまで感じていた、淀んだプールの空気とは違う、もっと粘りつくような、悪意に満ちた何かが、俺たちの周囲にまとわりつき始めたのだ。
「……来るぞ」
アリアが、低い声で呟いた。彼女はすでに長剣を抜き放ち、俺を背後にかばうようにして周囲を警戒している。シルフィも、杖の先端に淡い青色の光を灯し、いつでも魔法を放てる体勢に入っていた。
何が、どこから。
そう思った瞬間、俺は耳にした。
―――タスケテ……アア……イタイ……。
―――イタイ……シニタクナイ……。
―――アア……アア…タスケテ……。
囁き声。
男とも女とも、子供とも老人ともつかない、不気味な声。それがプールの四方八方から聞こえてくる。
いや、それは壁や水面から反響しているというより、直接、俺の頭の中に響いてくるような、そんな気味の悪い声だった。
「なんだ、この声は……!」
俺は思わず耳を塞いだ。だが、無駄だった。声は、頭蓋の内側から鳴り続けている。
「幻聴か!惑わされるな、ジュン!」
アリアが叫ぶ。その声すらも、囁き声にかき消されそうになる。
囁き声だけではなかった。プールサイドの壁、そのコンクリートの表面に、異変が起きていた。じわり、と黒い染みがいくつも浮かび上がり、それがゆっくりと人の顔のような形を成していく。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔。無数の顔が、壁の中から俺たちをじっと見つめていた。そのどれもが、どこか歪んでいる。それを見ているだけで正気を削り取られるような、冒涜的な光景だった。
そして、その顔たちの口が、一斉に、ゆっくりと開かれた。
ズルッ。
ズルルッ。
その口の中から、ぬらりとした質感の、人間によく似た白い腕が何本も伸びてきたのだ。指は五本あり、関節の付き方も人間と同じ。だが、その肌は病的なまでに白く、血が通っているようには見えなかった。何より、その動きが異常だった。まるで、意思を持った蛇のように、くねくねと蠢きながら、俺たちがいるプールサイドの中央へと、壁や床を這い上がってくる。
「うわあああああっ!」
俺は思わず悲鳴を上げた。壁や床を埋め尽くす無数の白い腕。それは、地獄の底から亡者が救いを求めて手を伸ばしている光景のようだった。
「ちっ、面倒なのがうじゃうじゃと湧いてきやがったな!」
アリアは悪態をつきながら、床を這って俺たちに迫ってくる腕の一本を、容赦なく斬り捨てた。スパッ、と乾いた音がして、白い腕が半ばから切断される。だが、痛みを感じる様子もなく、切断された腕は蠢きを止めず、なおも俺たちの方へと這い寄ってくる。
「こいつら、マネキンと同じか! 斬っても意味がねえ!」
「――障壁展開」
シルフィの、凛とした声が響く。彼女が杖を掲げると、俺たち三人を囲むように、淡い青色の光の膜が出現した。床を這い上がってきた腕が障壁に触れると、バチッ、と火花のようなものを散らして弾かれる。
「シルフィ、ナイスだ!」
「……長くは、もたない。囁き声が、魔力の集中を阻害する」
シルフィの額には、すでに玉のような汗が浮かんでいた。障壁は完璧ではなく、腕が叩きつけられるたびに、水面のように揺らめいている。あの囁き声は、彼女の魔法にも影響を与えているらしい。
「ジュン!急げ!あとどれくらいだ!」
アリアが叫ぶ。俺はひたすらに、マジックを操り魔方陣を描く。頭の中では、まだあの不快な囁き声が鳴り続けている。
―――ドウシテ……アア……ドウシテ……。
―――クルシイ……ユルサナイ…………。
―――アア……アア……アア……。
俺は、その亡者たちの囁き声をかき消すように、一心不乱に魔法陣を描き続けた。
バキッ!
障壁の一部に、大きな亀裂が入る音がした。シルフィは無表情にそれを見ている。
しかし、確実に残された時間は、僅かしかないことは明らかだった。
「まずい!」
亀裂から、数本の白い腕が侵入し、アリアに襲いかかった。
彼女はそれを剣で薙ぎ払うが、腕の勢いは止まらなかった。一本の腕がアリアに襲い掛かる。
「このっ……!」
アリアが腕を振り払い、剣で突き刺す。だが、その隙に、別の腕がシルフィの足元に迫っていた。
シルフィは杖でその腕を打ち払おうとする。だが、障壁の維持に集中力を奪われ、反応がわずかに遅れた。白い腕が、彼女のローブの裾を掴む。
「シルフィ!」
アリアがローブを掴んだ腕を引き剝がした。
「大丈夫」
静かな声。
しかし、次々と腕の大群が俺たちに迫ってきてた。
「くっ……!」
まずい。このままでは、二人ともやられてしまう。
俺は、描きかけの魔法陣を完成させるため、最後の線を引いた。手記に描かれていた図形が、プールサイドの中央に黒々と浮かび上がる。
「できたぞ!」
俺は叫びながら、バックパックのサイドポケットに突っ込んでいた、最後の切り札を取り出した。
俺のスマートフォン。
いや、もはやただの文鎮と化した、それ。手記には、こう書かれていた。
『儀式の触媒として、この世界に由来しない、異質な理を持つものを捧げよ』と。
俺がこの世界に持ちこんだもの。そして、これにもはや利用価値はない。うってつけだった。
「魔方陣が完成した!」
俺が叫ぶと同時に、シルフィの障壁が、大きな音を立てて砕け散った。堰を切ったように、おびただしい数の白い腕が、俺たち三人に殺到する。
「うおおおおおっ!」
アリアが俺の前に立ちはだかり、最後の抵抗を試みる。彼女の長剣が、嵐のように振り回され、白い腕を次々と叩き折っていく。だが、数が多すぎる。
その、ほんの一瞬の隙。
俺は、アリアの背後から、魔法陣の中心へと。そして、スマートフォンを置いた。
置いた瞬間。
世界から、音が消えた。
囁き声も、アリアの叫びも、腕が蠢く音も、全てが嘘のように止んだ。
殺到していた白い腕の動きが、ぴたりと止まる。壁の顔たちも、動きが止まっていた。
魔法陣の中心に置かれたスマホを中心に、世界が止まったように思えた。
それは、まるでこの世界の理を拒絶するかのような、力場のようなものに見えた。
そして、次の瞬間。
魔法陣から、凄まじい光と衝撃波が放たれた。
「ぐわっ!」
俺たちは、その爆風に吹き飛ばされそうになるのを、必死でこらえた。白い腕は、光に触れた瞬間、塵のように消滅していく。壁の顔たちも、悲鳴を上げるようにして、消え去る。
怪物たちの気配がなくなっていく。
後に残されたのは、眩い光を放ち続ける魔法陣と、呆然とプールサイドに立ち尽くす俺たち三人だけだった。
「……やった、のか……?」
アリアが、かすれた声で言った。
凄まじい光と衝撃波が過ぎ去った後、プールサイドには不気味な無人の静寂が戻っていた。壁から伸びていた無数の白い腕も、俺たちの精神を蝕んでいた囁き声も、全てが嘘のように消え去っている。
儀式は順調だった。
光が完全に収まると、俺たちは目の前の光景に息を呑んだ。プールの中の水が、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりと渦を巻き始めていた。その中心は、どこまでも深い闇。天井の照明の光すら届かず、全てを吸い込んでいくかのような、絶対的な虚無が口を開けている。そこから、ごう、と低い風の唸りのような音が聞こえ、ひんやりとした空気が俺たちの足元に這い上がってきた。
「手記の通りだ……。儀式は成功した。次は、この階層で最も高い場所から、身を投じる」
俺は、そびえ立つ十メートルの飛び込み台を見上げた。あそこが、俺たちの運命を分ける最後の舞台だった。
「……覚悟はいいな」
アリアが、渦巻く闇を睨みつけながら言った。その横顔に、もはや迷いは見られない。
「……問題、ない」
シルフィも静かに頷く。俺は二人の顔を交互に見て、一度だけ強く頷いた。
「行くぞ!」
俺たちは、再び走り出した。怪物どもはいなくなったが、いつまでこの状態がもつか分からない。
目指すは、飛び込み台へと続く、壁際に設置された鉄製の梯子。俺たちは、その無骨な鉄の塊に、ためらうことなく手をかけた。
「うわっ、たっか……! おい、これマジで上るのかよ!」
俺が先頭で梯子を上り始め、数メートル進んだところで見上げて叫んだ。見上げる先はまだ遥か遠く、まるで空へと続く柱のようだ。
「当たり前だろ! ぐずぐずするな、ジュン! 冗談言ってる場合じゃねえぞ!」
すぐ下から、アリアに急かされる。彼女は重い鎧を着ているとは思えないほど、軽やかな動きで俺に続いていた。
「いや、冗談じゃなくてだな……! 足元見ると、くらっと……」
「見るな! 前だけ見てろ!昔、城壁の上でやった訓練に比べりゃ、こんなの散歩みたいなもんだ!」
アリアはそう言って、俺の尻を篭手でぽんと叩いた。その力強さに、少しだけ勇気が湧いてくる。正直、俺はこの高さにくらくらしていたが、どうやら彼女たちにとって、それは何の障害にもなっていないようだった。シルフィも、アリアの後ろを音もなく、静かに上ってくる。
梯子の冷たい感触を掌に感じながら、俺は必死に腕と足を動かした。眼下の闇から吹き上げてくる風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。どれくらい上っただろうか。ようやく、目の前にコンクリートの床が見えてきた。
「よし……着いた……!」
俺は最後の力を振り絞って、飛び込み台の上へと這い上がった。息を切らし、膝に手をつく俺の隣に、アリアとシルフィも軽々と降り立つ。
そこは、コンクリートでできた細長い板が、遥か眼下の闇に向かってまっすぐに伸びているだけの、あまりにも心許ない場所だった。ここから見る渦巻く闇は、プールサイドで見た時よりも、さらに大きく、そして深く感じられる。まるで、巨大な獣が顎を開けて、俺たちが落ちてくるのを待っているかのようだ。
俺たちは、その先端へと、ゆっくりと歩を進めた。
そして、三人で並んで立つ。
もう、後戻りはできない。
眼下に広がるのは、救いか、それともさらなる絶望か。
「アリア、シルフィ……」
俺は、二人の手を、強く握った。右手にアリアの、硬い鎧の篭手の感触。左手にシルフィの、少しだけ冷たい、華奢な指の感触。その温もりが、恐怖に押しつぶされそうな俺の心を、かろうじて繋ぎとめてくれていた。
「……信じてるからな、ジュン、シルフィ」
アリアが、不敵な笑みを浮かべて言った。それは、いつもの強がりな笑みではなかった。
「……共に」
シルフィが、短く、しかし、何よりも力強く言った。彼女の青い瞳もまた、まっすぐに俺とアリアを見つめていた。
俺たちの腕に刻まれた、三つの輪が絡み合った『絆の紋章』。それは、この狂った世界で、俺たちが唯一信じられる、温かい繋がりだった。三人の魂が、今、確かに一つになっている。そんな感覚があった。
俺は、頷いた。
そして、眼下に広がる、渦巻く闇へと、俺たちは身を投げ出した。




