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ルミナルスペースで剣と魔法の異世界から来た美少女たちとサバイバルすることになった  作者: 速水静香


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第十話:手記

 もわっ、とした高い湿度を感じた。

 そして、鼻の奥をかすかに刺激する、独特の匂い。


 金属の冷たい感触がまだ手に残っている。

 背後で重々しく閉まった分厚い扉が、俺たち三人と、あの正体不明の黒い塊とを隔ててくれた。最後に見たあの黒は、全てを塗り潰すかのような勢いで迫ってきていた。もし、この扉を見つけるのがあと数十秒でも遅れていたら。もし、扉が固く閉ざされていて開かなかったら。そんな思考が頭をよぎり、全身から嫌な汗が噴き出してくる。


「はぁ……っ、はぁ……」


 俺は扉に背中を預けたまま、その場にずるずると座り込んだ。心臓がうるさいとか、そんな陳腐な表現では足りない。身体の内側から、何かが破裂しそうなほどの圧迫感が全身を駆け巡っている。隣ではアリアが壁に手をつき、肩で大きく息をしていた。彼女の金色の髪が、荒い呼吸に合わせて上下に揺れている。シルフィは、二人から少し離れた場所で杖を支えに立ち、静かに呼吸を整えていた。彼女だけは、こんな状況でも冷静さを保っているように見えた。あるいは、表情に出ないだけなのかもしれない。


 どれくらいの時間が経っただろうか。数分か、それとも数十分か。俺たち三人の激しい呼吸音だけが、この反響する空間に吸い込まれていく。やがて、あの黒い塊が追ってくる気配がないことを確信し、俺はようやく顔を上げた。そして、自分たちが迷い込んだ場所の全容を改めて認識する。


 俺たちがいるのは、巨大な屋内プールだった。

 だだっ広く、天井がやけに高い。その天井からはいくつもの大型照明が吊り下げられていて、施設全体を青白い光で満たしていた。その光に照らされているのは、静まり返った水面。まるで一枚の磨き上げられた黒い石板のようで、ほんのわずかな波紋すら見当たらない。等間隔に並ぶ白いスタート台、だらりと力なく垂れ下がったコースロープ、そして、すり鉢状に広がる観客席。どこを見ても、人の気配はなかった。


「……なんだ、ここは」


 アリアが、かすれた声で呟いた。無理もない。さっきまでいた無機質なバックヤードとは、あまりにもかけ離れた光景だ。


「プール……みたいだな。学校とか、市民体育館とかにあるような」

「ぷーる?」


 聞き慣れない単語だったのか、アリアが訝しげに俺の言葉を繰り返す。


「ああ。水浴び……というか、泳ぐための施設だ。あそこから飛び込んだり、向こうの端まで泳いで速さを競ったりする」


 俺はスタート台を指差して説明する。この説明で伝わったのかは分からないが、アリアは「ふうん」とだけ言って、改めて周囲に視線を巡らせた。その琥珀色の瞳には、強い警戒の色が浮かんでいる。


「……塩素」


 不意に、隣に立っていたシルフィがぽつりと呟いた。


「え?」


「この匂い。水の腐敗を防ぐ物質。このような場所では一般的?」


「ああ、そうだ。よく使われる」


 俺が驚いて言うと、シルフィはこくりと頷くだけだった。

 その短い言葉だけで、ここが俺の知る世界に由来する場所だと断定したようだった。


 そうだ。この鼻につく匂い。俺は子供の頃、夏になるとよく市民プールに通っていた。その時の記憶が、この匂いと共に蘇ってくる。消毒槽の冷たさ、けたたましい監視員の笛の音、友人たちのはしゃぎ声。そんな、ありふれた日常の記憶との既視感を感じさせる場所。

 それが今、こんなにも不気味なものに感じられるなんて。


「とにかく、あの黒いのが追ってこないだけマシか。ひとまず、ここが安全な場所か確かめるぞ」


 アリアが気を取り直したように言って、腰の剣の柄に手をかけた。その言葉に異論はない。俺もゆっくりと立ち上がり、アリア、シルフィと共にプールサイドを歩き始めた。


 俺たちの足音だけが、やけに大きく聞こえる。

 水面は相変わらず静まり返っていて、まるで底なしの闇が口を開けているかのようだ。思わず足元に視線を落とす。青白い照明の光も、この深い青黒さの前では無力だった。水底がどうなっているのか、全く見えない。


「おい、ジュン。この水の中は大丈夫だと思うか?」


 アリアが、俺と同じように水面を警戒しながら尋ねてきた。


「さあな。何もいないかもしれないし、何かとんでもないものが潜んでいるかもしれない。少なくとも、俺なら絶対に飛び込もうとは思わない」


「だろうな。こんな気色の悪い水たまり、願い下げだ」


 アリアは吐き捨てるように言った。

 俺たちはプールサイドの壁に沿って、慎重に進んでいく。壁には五十メートル、百メートルといった距離を示すプレートが取り付けられていた。どこまでもリアルな作りだ。だが、そのリアルさが、逆にこの空間の異常性を際立たせている。


 やがて、俺たちはプールサイドの一角に設けられたシャワー室を見つけた。金属製のノブをひねってみると、水が出てきた。


「おう!これで水浴びができるということか」


 アリアがシャワーの水を見ながらそう言った。


「ああ、このプールで泳いだ後、ここで塩素を洗い流す」

「…なるほど」


 シルフィがじっと、シャワーヘッドを見ていた。

 隣の更衣室も覗いてみた。等間隔に並んだロッカーは、全て扉が開け放たれており、中は空っぽだった。誰かが使った痕跡はどこにもない。ただ、整然とした空虚な空間が広がっているだけ。


「ここも、同じか。物はあっても、生活の痕跡がない」


「ああ。まるで、オープン前の施設に忍び込んだみたいだ」


 俺の言葉に、アリアは「気味が悪い」と顔をしかめた。


 確かに気味が悪い。

 この、耳が痛くなるほどの静けさ自体が、何かの攻撃の前触れなのではないか。俺たちの精神を少しずつ削り取っていく、悪質な罠なのではないか。

 俺は考え込んでしまった。


「……どうした、ジュン。顔色が悪いぞ」


 アリアが、俺の顔を覗き込んできた。


「いや、なんでもない。少し、考えすぎていた」


 俺はそう言って、無理に笑みを作った。余計な心配をかけても仕方ない。


 俺たちは探索を再開した。

 更衣室を抜け、プールサイドの反対側へと向かう。

 途中、ガラス張りの採暖室や、機械室の扉などがあった。どれも、どこかで見たかのような既視感のあるプールの風景そのままだ。

 この空間は、既視感に満ちている。

 その事実は、少しだけ俺に優位性を与えてくれるが、同時に、自分の内面を勝手に覗かれているような不快感ももたらした。



 プールを半周ほどしたところで、俺たちは一度休憩を取ることにした。幸い、観客席へ上がる階段があったので、その中段あたりに腰を下ろす。ここなら、万が一何かが起きてもすぐに対応できるだろう。

 俺はバックパックから、ショッピングモールで手に入れたペットボトルの水と、カロリーバーを取り出した。


「ほら、二人とも。少しは食べておいた方がいい」


「おお、気が利くな」


 アリアは快活に笑って、カロリーバーを受け取った。彼女はもうすっかり、こちらの世界の食い物に慣れたようだった。シルフィも無言で受け取り、小さな口で少しずつ食べ始める。


 しばらくの間、三人の間に会話はなかった。ただ、カロリーバーを咀嚼する音と、ペットボトルの水を飲む音だけが、静かな空間に小さく響く。

 俺は眼下に広がる静かな水面を眺めながら、これまでのことを考えていた。

 地下鉄のホームから始まり、ショッピングモール、そしてバックヤード。どの場所も、俺にとっては見慣れた風景だった。だが、そこにいるべき人間がおらず、いるはずのない怪異が闊歩している。

 俺たちは、一体どこに向かっているのだろうか。出口はあるのだろうか。


「……なあ、アリア。お前たちの世界にも、こういう場所はあるのか?」


 沈黙に耐えかねて、俺は尋ねた。


「こういう場所、か。ただ水が溜まっているだけの場所、という意味なら、湖や川があるな。騎士団の訓練で、鎧を着たまま川を渡るなんてこともやらされた」


「鎧を着たまま!? 溺れないのか?」


「魔法の加護があるからな。それに、いざとなれば鎧を脱ぎ捨てて泳ぐさ。もっとも、そんなヘマをやらかす奴は、半人前扱いだったが」


 アリアはそう言って、少し自慢げに胸を張った。彼女が語る世界は、俺の常識からはかけ離れている。だが、そこには確かな『日常』があった。訓練があり、仲間がいて、守るべきものがある。そんな当たり前の日常が、今の俺にはひどく眩しく思えた。


「シルフィの世界は?」


 俺は、隣で静かにカロリーバーを食べていたエルフに話を振った。


「森。泉。静か。でも、こことは違う」


「違う?」


「森の静けさは、生命の音に満ちている。風の音、木の葉のざわめき、水のせせらぎ、虫の羽音。全てが調和している。でも、ここの静けさは……死んでいる」


 シルフィの言葉は、俺が感じていた漠然とした不安の正体を、的確に言い当てていた。

 そうだ。ここは死んでいる。生命の気配が一切しない。だから、こんなにも不気味なのだ。


「……俺の世界のプールは、いつも騒がしかったよ。子供たちのはしゃぐ声や、水しぶきの音で。こんなに静かなプールは、初めてだ」


 俺たちは、それぞれの世界の『水辺』に思いを馳せ、再び言葉を失った。出自の違う三人が、同じ場所で、同じものを見て、全く違うことを考えている。その事実が、なんだか不思議でおかしかった。


 休憩を終え、俺たちは再び探索を始めた。

 プールの奥には、飛び込み台が設置されていた。一番低いもので三メートル、そして、見上げるほど高い位置には、十メートルはあろうかという飛び込み台がそびえ立っている。


「うわ……、たっか……」


 俺は思わず声を漏らした。下から見上げるだけでも、足がすくむような高さだ。


「なんだ、ジュン。高いところは苦手か?」


 アリアが、面白そうに俺をからかう。


「苦手っていうか……、あんなところから飛び降りる奴の気が知れないだけだ」


「ふん、軟弱なやつめ。わたしなら、あれくらいの高さ、どうということはないぞ」


 アリアはそう豪語するが、本当だろうか?


 その言葉は、どこか彼女の強がりにも見えた。

 騎士という立場やアリアの性格上、そういっていることが何となく読めたからだ。


 俺たちがそんな他愛のない話をしていると、シルフィがじっと飛び込み台の一点を見つめていることに気づいた。


「どうした、シルフィ?」


「……あれ」


 シルフィが指差す先。それは、一番高い十メートル飛び込み台の、先端部分だった。そこに、何かがあるというのか。俺は目を凝らしたが、青白い照明が反射しているだけで、特におかしな点は見当たらない。


「何か見えるのか?」


「……分からない。でも、何かを感じる。魔力の流れが、ほんの少しだけ……乱れている」


 魔力の流れ。俺には感知できない感覚だ。だが、シルフィが言うからには、何かがあるのかもしれない。


「確かめに行くか?」


「危険。今はやめた方がいい」


 シルフィは静かに首を振った。彼女の判断が正しいのだろう。この世界で、無闇に危険な場所へ首を突っ込むのは愚策だ。


 結局、飛び込み台には近づかず、俺たちはプールサイドの最後の角を曲がった。

 そこにあったのは、これまでと同じような壁……ではなかった。

 壁の一部が、他とは違う材質でできていた。金属製のドア。削り出し感のあるアルミ製のドア。それは、俺たちがここへ入ってきたドアとよく似ていた。


「出口か!?」


 アリアが声を上げる。俺も、期待に胸が膨らむのを感じた。ここから出られるかもしれない。この気味の悪いプールから、次の場所へ。

 アリアが逸る気持ちを抑えきれない様子で、ドアに駆け寄った。そして、その分厚い取っ手に手をかけ、力任せに引く。

 ぎ、と鈍い音を立てて、ドアは案外あっさりと開いた。鍵はかかっていなかったようだ。

 だが、ドアの先に広がっていた光景に、俺たちは言葉を失った。

 そこにあったのは、出口でも、新しい通路でもなかった。

 寸分違わぬ、全く同じ、巨大な屋内プールが広がっていたのだ。


「……なんだよ、これ……」


 アリアが、絞り出すような声で呟いた。

 ループしている。ここも、あのこれまでと同じように、無限に繋がっているのか。せっかく見つけた希望は、一瞬にして、より深い絶望へと変わった。

 俺たちは、再び途方に暮れてしまった。

 まるで、俺たちの心を弄ぶかのように。


「くそっ! どうすりゃいいんだよ!」


 アリアが苛立ちを隠せない様子で、近くの壁を殴りつけた。頑丈なはずのコンクリートの壁に、彼女の拳の跡がくっきりと残る。

 俺も同じ気持ちだった。だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。何か、何か手がかりがあるはずだ。


 俺はもう一度、周囲を見渡した。

 静まり返ったプール。等分に並ぶスタート台。誰もいない観客席。そして、そびえ立つ飛び込み台。

 何か見落としているものは……。


 その時、ふと、ある建物が目に入った。

 それは、プールサイドの一角に建てられた、ガラス張りの小さな部屋だった。これまで、特に気にも留めていなかった場所。おそらく、監視員が使う部屋だろう。


「……なあ、あそこ。あそこをまだ調べていない」


 俺が指差すと、アリアとシルフィもそちらに視線を向けた。

 藁にもすがる思い、というやつだった。俺たちは、そのガラス張りの部屋へと向かった。


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