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第一話:静寂

 俺の意識が最後に捉えていたのは、大学の最寄り駅の喧騒だったはずだ。


 だが、今、俺の耳に届くのは静寂と、自分の浅い呼吸の音だけだった。


 ゆっくりと瞼を持ち上げる。目に飛び込んできたのは、無機質な天井を照らす、青白いLEDの光だった。なんだか頭がぼんやりとする。まるで、徹夜明けの朝のような、現実感のない感覚だった。


「……ここ、どこだ?」


 かすれた声が、自分の喉から出たものだと認識するのに少し時間がかかった。


 体を起こすと、自分が硬いベンチの上で横になっていたことに気づく。ひんやりとしたプラスチックの感触が、安物のシャツ越しに背中に伝わってきた。


 目の前に広がっていたのは、見慣れた光景のはずだった。俺が毎日利用している、大学の最寄り駅の地下鉄ホーム。


 だが、何かが決定的に違っていた。


 まず、人が一人もいない。俺以外に、動くものが何一つ存在しなかった。いつもなら、スマホをいじる学生や、疲れた顔のサラリーマンでごった返しているはずなのに。人の気配はどこにもない。


 そして、生活音が全くない。電車の到着を告げるアナウンスも、レールのきしむ音も、人々の話し声や足音も、何も聞こえない。聞こえるのは、自分の呼吸音と、空調が「ゴォー」と低く唸るような作動音だけ。それはまるで、世界から俺以外の人間だけが、綺麗に消え去ってしまったかのようで。


 駅名を示す看板も、時刻表も、壁の路線図も、見慣れたいつものままだ。それなのに、行先を示す案内表示板だけが真っ黒な画面をさらしている。まるで、この駅からどこへも行けないと宣告されているかのようだった。


 慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。画面の左上には、電波が入っていないことを示すアイコンが無情にも表示されているだけだった。ここがどこなのか、なぜ俺がここにいるのか、何も分からなかった。


「なんだよ、これ……」


 状況が全く理解できない。酔って寝過ごした?いや、俺は酒を飲んでいなかったはずだ。そもそも、俺は大学からの帰り道で、今の時間は夕方のラッシュ前の時刻。ラッシュ前とはいえ、この駅の利用者は多い。誰かいるはずだ。しかし、駅員の姿すら、どこにも見当たらない。


 俺はベンチから立ち上がり、まずは出口を探すことにした。自分のスニーカーの底がコンクリートの床を叩く、コツ、コツ、という乾いた音だけが、不気味なほどに大きく聞こえる。


 改札の方へ向かう。自動改札機は、すべて電源が落ちているようで、液晶画面は真っ暗だった。その横にある駅員室も、室内灯は消えており、ガラス窓の向こうは暗闇が広がっているだけだ。


 俺は改札の横にある、車椅子用の通路をすり抜け、改札の外側に出た。この先の通路を進んでいけば、地上へ続く階段があるはずだ。


 俺は通路を進んだ。


「は……?」


 思わず、声を出してしまった。通路を歩いた先にあったのは、冷たいコンクリートの壁だったからだ。


 意味が分からず、壁に手を触れる。硬く、冷たい感触。間違いなく本物の壁だ。出口があったはずの場所が、完全に塞がれている。


 そんな馬鹿な。


 俺は他の出口を探して走り出した。この駅には出口がいくつかある。焦る気持ちを抑えながら、構内図があったはずの場所へ向かう。そこにある構内図はいつも通りなのに、示されているはずの出口が壁で塞がれていた。


 記憶だけを頼りに、別の出口があったはずの方向へ走る。長い通路を抜け、角を曲がる。そこにあるはずの階段も、やはりコンクリートの壁で無慈悲に塞がれていた。


「なんでだよ……!」


 息を切らしながら、壁を拳で殴りつける。ゴツン、と鈍い音が響き、自分の手の甲にじんと痛みが走っただけだった。


 全ての出口が、壁になっている。


 その事実が、ずしりと重くのしかかってきた。


 まさか、ここから出られないのか?


 いや、そんなはずはない。きっとどこかに見落としがある。俺は自分に言い聞かせ、今度は別のホームへと続く乗り換え通路へと足を踏み入れた。この駅は複数の路線が乗り入れている。別の路線のホームからなら、出られるかもしれない。


 タイル張りの長い通路を、ひたすらに歩く。自分の足音と空調の音だけが、耳についた。


 どれくらい歩いただろうか。やがて、見覚えのある分岐点が見えてきた。ここを右に曲がれば、別の路線のホームのはずだ。


 角を曲がった俺は、自分の目を疑った。


 そこに広がっていたのは、俺がさっきまでいた、全く同じホームの光景だった。


「……は?」


 同じデザインのベンチ。壁には寸分違わぬ路線図。俺がさっきまでいたホームと、全く同じ光景がそこにあった。


 混乱しながらも、俺はホームの番号を確認しようとした。だが、柱に書かれているはずの番号すらも同じだった。


 気のせいか? 


 この駅は構造が似ているから、焦っている俺が間違えただけかもしれない。


 俺はもう一度、別の通路を選んで歩き始めた。今度は、さっきよりもっと長い、薄暗い通路だ。壁のタイルが一部剥がれ落ちている。見覚えのない通路だ。


 希望が見えた気がした。この先に、きっと違う場所が。


 しかし、その通路を抜けきった先に広がっていたのもまた、全く同じ、見慣れたホームの光景だった。


 ぞわり、と全身の肌が粟立った。


 おかしい。絶対におかしい。ここは、俺の知っている駅じゃない。


 これは、ループしているのか?


 その考えに至った瞬間、無限に続くかのように思えたこの空間が、急に息苦しい牢獄のように感じられた。どこへ進んでも、結局は同じ場所に戻ってきてしまう。出口はすべて壁で塞がれている。


 俺は、この地下空間に完全に閉じ込められてしまったのだ。


 その絶望的な事実に気づいた時、俺の脳裏に、数時間前の、どうでもいい会話が鮮明に蘇ってきた。



「おい、これ見てみろよ」


 講義が始まるまであと十分もない、ざわついた大教室。俺がぼんやりとスマホを眺めていると、隣の席に座った男――確か、同じ講義をいくつか取っているだけの、名前も曖昧なやつが、ぐいと自分のスマホ画面を突きつけてきた。


「なにこれ」


 画面に映っていたのは、薄暗い廊下の画像だった。どこかの学校だろうか。非常口の緑色のランプだけが光っている、不気味な写真だ。俺は特に興味もなかったので、適当に返事をした。


「これが今、ネットで一番アツいんだって。『ルミナルスペース』」


 男は得意げに鼻を鳴らした。


「ルミナルスペース?」


 聞いたこともない単語だった。俺が怪訝な顔で聞き返すと、男は待ってましたとばかりに言葉を続けた。


「そう。なんか、人がいないはずの場所なのに、誰もいなくなった既視感のある異世界のことらしい。誰もいないショッピングモールとか、真夜中の学校とか。そういう空間が無限に連なって抜け出せなくなる。そういった場所に迷いこんで、永遠に戻れなくなってしまう、というネットミームなんだけどさ、俺はガチだと思うんだよな」


「ガチって……ただの不気味な写真だろ、これ」


「それが違うんだって。話はそこからで、特定の行動を取ると、本当にこういう場所に迷い込むらしいんだよ」


 男は目を輝かせながら、自分のスマホをスワイプしていく。次々と、誰もいない場所の写真が表示された。人っ子一人いないテーマパーク、がらんとしたオフィスビル、そして、誰もいない地下鉄のホーム。


「『特定の行動』ってなんだよ。」


「その行動ってのはな、例えば『古い神社の鳥居を特定の順番でくぐる』とか、『誰もいない駅のホームで特定の電車を待つ』とか……」


「へえ、具体的だな。で、その『特定の行動』ってのは、全部同じなのか?」


「……えっと、それは投稿者によってバラバラだな」


「特定の行動が特定されてないんじゃん。ネットミームなら、みんなが話に乗って『俺、特別な場所に来ちゃったかも』って、集団でポエム書いてるだけじゃないのか」


 俺が呆れたように言うと、そいつは馬鹿にされたように感じたらしい。


「はぁ…いやな、この日常から外れ落ちた感じがエモいんだろ?」


 そいつはどこか、遠くを見るように語った。

 その様子を観察していると、なんだか自分が冷めた人間に思えてくる……わけもなかった。


「そうだな」


 バカバカしい、そもそも画像があるということは、画像の投稿者は現実に戻ってきているじゃないか。

 俺は心の中で一人突っ込みをいれた。


 そもそも、こいつに捕まったのが間違いだったのかもしれない。

 俺は適当に相槌を打ち、イヤホンを耳につけるふりをして、この不毛な会話を強制的に打ち切った。



 ―――まさか、本当に?


 あの与太話が、現実になったというのか?


 俺は、あのルミナルスペースとかいう場所に、迷い込んでしまったっていうのか?


 馬鹿な。ありえない。非科学的だ。あの男の声が、頭の中で再生される。そうだ、こんなことがあるはずがない。きっと、これは夢だ。疲れているんだ。

 俺は自分の頬を、思い切りつねってみた。

 じわりと、鈍い痛みが走る。

 夢じゃない。

 これは、紛れもない、現実だ。

 その事実を認識した瞬間、立っているのがやっとだった。


「うそだろ……」


 乾いた唇から、かすれた声がこぼれ落ちる。

 人類だけが消去されたのではなく、俺だけが、この閉鎖空間に閉じ込められた。その事実は、より純粋な恐怖となって俺に襲いかかった。

 あの男が話していた与太話が、頭にこびりついて離れない。永遠に戻れなくなる、不気味な異世界。

 その言葉が、現実味を帯びて脳に突き刺さる。静まり返ったホームや通路の暗がりが、まるで俺を嘲笑っているかのように見えてきた。

 得体の知れない恐怖が、背筋を這い上がってくる。


「……っ、うわあああああああああああっ!」


 俺は、意味もなく叫んだ。喉が張り裂けんばかりの、絶叫だった。

 俺の悲痛な叫びは、コンクリートの壁に反響し、虚しく消えていく。その反響音すら、誰か別の人間が発した声のように聞こえて、余計に恐怖を煽った。

 膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。


 だめだ。パニックになったら、終わりだ。

 そうだ、冷静にならなければ。


 俺は、原因不明の現象によって、元の世界とは異なる、誰もいない閉鎖空間に迷い込んでしまった。ここは、ネットで噂されているルミナルスペースと呼ばれる場所に酷似している。

 電話は通じず、スマートフォンはただの文鎮…いや、ライトや時計としての機能しか持たない。そして、バッテリーも大して持たないだろう。いや、そもそも時間も正常に経過しているか怪しい。

 絶望的な状況だ。どうすれば元の世界に帰れるのか、皆目見当もつかない。


 だが、それでも。

 俺は、ここで死ぬわけにはいかない。

 生きなければ。


 この訳の分からない世界で、何が何でも生き延びて、元の世界に帰る方法を見つけ出すんだ。

 俺はゆっくりと立ち上がった。まだ足が少しふらつくが、さっきよりは力がこもっている。


 まずは、探索だ。


 このループする空間の中に、何か変化はないのか。

 途方もない作業に思えたが、じっとしているよりはマシだった。

 俺は、これまで歩いていない通路を、慎重に選んで進み始めた。


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