悪役令嬢が好きになったのは、俺でした。
転入初日。魔法学園の石造りの門をくぐった俺は、ひとつ息を吐いた。周囲は華やかな制服を着た貴族子息たちばかりで、平民上がりの俺には、どこか現実感が薄かった。
そのときだった。
校舎へ向かう道の向こうから、一人の少女が歩いてきた。黒髪は夜の静寂を纏ったように艶やかで、その顔立ちはまるで彫刻のように整っていた。周囲の生徒たちが自然と道を空け、誰もが息を呑んで彼女の通り過ぎるのを待っていた。
――“悪役令嬢”、カリーナ・ノワール。
この学園で最も有名な生徒。恋愛禁止の規則を守らせるため、恋に堕ちた者を冷酷に断罪する《模範破壊者》。俺が知っていたのは、そんな噂話だけだった。にもかかわらず――
その瞳が、俺をとらえた瞬間。胸の奥が、ざわついた。
懐かしい。けれど、理由がわからない。
彼女は歩みを止めず、まるで俺なんか存在しないかのように通り過ぎていった。けれど、ほんの一瞬だけ。その唇が、かすかに震えたような気がした。
――まさか、俺を見て、何かを思い出したんじゃ……?
そんなはずはない。俺たちは初対面で、俺は記憶にない。けれど、なぜだろう。
あの目を見たとき、「俺はこの人に、――かつて、恋をしていたんじゃないか」と、そう思ってしまったんだ。
《模範破壊者》――それがカリーナ・ノワールの“役割”であり、この学園の秩序を保つ象徴だった。
その日の昼休み。中央広場では、恋愛の気配を察知した監査官が一人の生徒を呼び出していた。罰則対象となった男子生徒は、カリーナの前で“感情審査”を受ける。
「あなたが彼女を想った証拠はここにあります」
監査官が差し出した“感情石”が淡く赤く光る。これは、恋の気配が濃くなるほど輝きを増す魔道具だ。彼は顔を青ざめさせた。
カリーナが前へ出る。今日の彼女は、深紅のリボンを髪に添えていた。
「禁忌に触れた者は、ここにふさわしくないわ」
その声は冷たく、感情がまるでこもっていない。彼女はその場で感情石を破壊し、男子生徒に退学処分を命じた。
――けれど、俺は見逃さなかった。
破壊の瞬間、カリーナの手がわずかに震えた。それは恐れでも怒りでもない、何か別の……後悔にも似た色に見えた。
「……どうして、そんな顔をするんだ?」
彼女は誰のことも愛していない。そう言われてきた。けれど、あの目は、誰かに裏切られた人のようだった。
その夜、俺は夢を見た。
崩れ落ちる感情石の破片の中、泣いているカリーナがいた。俺にすがるように、何度も名前を呼んでいた。
――でも俺は、その名前を思い出せない。
図書館の奥にある、誰も使わない古い閲覧室。窓際の机の引き出しに、偶然それは入っていた。
一通の手紙。色あせた封筒には、震えた字で“カリーナへ”と書かれていた。
――それだけなら、ただの過去の残骸だ。けれど、差出人の欄にあった名前が、俺の胸を刺した。
“俺の名前”。
記憶にない。けれど間違いなく、そこに書かれていたのは俺の筆跡だった。
震える指先で、封を開けた。中に入っていた短い手紙は、切なさと懐かしさで満ちていた。
> 「また、君の笑顔が見られる世界を探すよ。たとえ名前を忘れても、気持ちまで消えるわけじゃない。だから――もう一度、俺を見つけてくれますか?」
思わず言葉を失った。その文章の一つ一つが、胸の奥に染み込んでくる。
それはまるで、俺が――俺たちが、一度失った恋を取り戻そうとしていた証のようだった。
その日の帰り道、校庭の片隅でカリーナの姿を見つけた。誰もいないベンチに座り、風に髪を揺らしながら空を見ていた。
俺はそっと近づき、声をかける。
「昔、誰かに手紙を書いたこと、ある?」
彼女はゆっくり振り向き、少しだけ目を細める。そして静かに言った。
「もし書いたとしても、誰かに届いたのなら……その人は、もう、いないでしょうね」
それは否定じゃなかった。まるで“俺”に向けた答えのようだった。
けれどその意味を確かめるには、記憶という名の霧を、もっと深く掻き分ける必要があった。
あの日の手紙は、何度も俺の胸を揺らした。通学路の途中、授業の合間、夜の静寂。ふとした拍子に、文面が脳裏に浮かぶ。
「もう一度、俺を見つけてくれますか?」
そんな願いのような言葉を、俺は書いたはずだった。そして、それはカリーナに渡ったはずだった。
なのに、彼女の態度は変わらない。冷徹で完璧。誰も寄せ付けず、誰にも寄りかからない。
でも――その仮面は、ほんの少しだけひび割れていた。
昼下がり、共同作業の授業でペアを組むことになった。教師が言った。
「ノワール嬢と、君。運命の組み合わせになるといいな」
――運命。この学園で禁忌に等しい言葉を、軽く口にするなんて。
カリーナは表情ひとつ変えずに言った。
「私に運命を語る資格はありません」
その瞬間だけ、彼女の瞳が遠くを見ていた。過去を――あるいは、消された記憶を。
作業中、俺が道具を落とした拍子に、カリーナがそれを拾ってくれた。指がふれる。一瞬だけ視線が交差する。
そして、彼女は――笑った。
微かに、ほんの少し、唇の端だけが上がった。
それは、誰にも見せたことのない“人間らしい表情”だった。俺は言葉を失い、何も返せなかった。
「……失礼。風が目に染みただけです」
彼女はそう言って視線を外したが、嘘だとわかった。
その笑みが、なぜ俺に向けられたのか。なぜその笑みが、どこか懐かしかったのか。
俺は知らなかった。いや、忘れていたのかもしれない。
魔法学園では、定期的に“記憶監査”が行われる。恋や感情が暴走すれば魔法の制御が難しくなる――その名目で、生徒の心の奥まで“整理”されるのだ。
その日、図書館の自習室に呼び出された俺は、監査官の前に立っていた。長衣を纏った白髪の男。記憶魔法の専門家であり、学園の秩序を維持する者だ。
「君の記憶に、ある令嬢との接触履歴が増えている」
そう告げられ、目の前に現れた魔導の水鏡には、俺とカリーナが並ぶ場面が何度も映っていた。
カリーナが微笑む瞬間。彼女が俺の名を呼びかけそうになる瞬間。俺の胸が高鳴る場面――全部が、記録されていた。
「君は、その令嬢に恋しているのか?」
心臓が跳ねた。質問には答えなかった。いや、答えたくなかった。
監査官は黙って魔導鏡を消した。そして、机の上に一冊の古い“記憶書”を置いた。
「君とノワール嬢には、かつて接点があったようだ」
――接点?
「ただし、君の記憶は処置済みだ。そのため、詳細は記録に残っていない」
俺は手が震えた。やはり過去に、カリーナと何かあったのだ。そしてそれは、意図的に“消された”。
帰り道、石畳を歩いていた俺は、ふと立ち止まる。
思い出せない感情が、胸を締めつける。
好きだった記憶がなくても。愛した証が消えていても――俺は、彼女を見るたびに、確かに何かを思い出している。
それは、記録になくても。証明されなくても。
この胸が、覚えている。
予知魔法の授業では、生徒たちが「星の水面」を用いて自らの未来を視る。多くは曖昧で、断片的な映像しか映らない。けれどその日、俺が星に問いかけた瞬間――異常なほど明瞭な未来が浮かび上がった。
それは、俺が誰かに告白している場面だった。
場所は中央庭園。花が咲き乱れ、夕焼けが差し込む頃。俺の声は震えていた。
「君のことが、ずっと前から…好きだった」
その台詞が水面に映ると、教室がざわついた。教師も驚いていた。ここまで明確な未来視は滅多にない。
だが、俺が告げた相手の姿――それだけが、水面から滲んで消えた。
誰だったのか、顔も名前も視えない。けれど、目の形、佇まい、そして髪の揺れ方。
それは、どうしても、カリーナに似ていた。
授業後、俺は彼女を探した。けれど、なぜか姿が見えなかった。校内をいくら歩いても、いつもどこかにいるはずの“彼女”は影も見せず、気配だけが残っていた。
そして夕方。
中庭の外れにある古い噴水の前で、ようやく彼女の姿を見つけた。
夕陽に照らされた横顔は、少し悲しげだった。声をかけようとした瞬間、彼女がぼそりと呟いた。
「星は、恋を予言してはいけないのよ」
俺は立ち止まる。
彼女は俺の予言を知っていたのか?それとも、自分にも視えていたのか――?
風がそっと吹き、カリーナの髪が俺の方へ流れる。
そして、その視線がわずかに、俺に向いた。
「……でも、もし星が嘘をついたとしたら、それは過去の記憶が未来に逆らおうとしている証なのかも」
その言葉の意味は、すぐには分からなかった。でも、心だけが、やけに強く反応した。
――星が予言した未来は、消された過去の残響なのかもしれない。
夜の庭園は昼の喧騒とはまるで別の世界だった。月光に照らされた花々は静かに揺れ、風が石畳をなぞっていた。
俺は、ひとりの姿を見た。
カリーナ・ノワール。あの“悪役令嬢”が、灯の消えたベンチに腰掛けていた。誰にも見られない夜の場所で、沈黙のなかに息を潜めていた。
――その横顔を見た瞬間、俺は動けなくなった。
彼女は、泣いていた。
顔を伏せていたが、月光に濡れた頬の跡がゆっくり流れていた。涙は静かに滴り、草の上へ落ちて消える。
この学園で誰も知らない姿。冷酷な断罪者ではなく、感情を抑えて生きるひとりの少女。
「……忘れようとしても、どうして…」
彼女は誰に向けて話しているのかわからなかった。独り言か、それとも記憶の中の誰かか。
俺は一歩踏み出しかけて、止まった。
声をかけてはいけない気がした。
その涙は、誰にも見られないはずのものだった。記憶を消されても、恋を断罪しても、それでもこぼれ落ちるもの。
彼女が何を想って泣いているのかは、まだ俺には分からない。
けれど、それでも確信した。
俺が彼女を――過去に愛していた。
そして、彼女も俺を――一度、愛してくれた。
忘れていたとしても、失われたとしても。
涙は、嘘をつけない。
カリーナの涙を見てから、俺の中で何かが変わった。
忘れていた記憶が、心の奥底で声を上げている気がした。目に映る彼女の仕草も、言葉も、そのどれもがかつての何かと結びつこうとしている。
それを確かめたくて、俺は“禁書庫”へ向かった。
夜の図書塔。その最上階にある扉には、通常の魔鍵では開かない特殊な封印が施されている。けれど、昔から使われていない物置の裏に、一つだけ開くための“感情鍵”が隠されていた。
“恋をしたことのある者だけが開ける鍵”。
震える指で鍵を差し込み、扉がゆっくりと開いた。冷たい空気が頬を撫で、沈黙の書棚が広がっていた。
探したのは、《記憶再構築魔法》。かつて禁止された魔法であり、“失われた感情の断片”を結び直す呪文だ。
埃にまみれた本を一冊ずつめくる中、1冊だけ表紙が光を帯びていた。
《ノワール式記憶の縫合術》――著者、カリーナ・ノワールの祖母。
その瞬間、胸が強く脈打った。運命が指し示しているとしか思えなかった。
中には、記憶を糸のように繋ぐ魔法式と、その副作用の記録が綴られていた。
> 「記憶を縫合するたびに、本来の“今”が歪む。けれど、それでも“想い”は真実を探し続ける」
その一文に、俺は目を閉じた。
――歪んだっていい。今が狂ったっていい。
彼女との記憶を、取り戻すことができるなら。
その夜、俺は本を抱えたまま、月の光の中で誓った。
カリーナの“過去”を取り戻す。
俺たちが確かに好きだったという証を、もう一度刻むために。
決意がつもりすぎて、言葉にしないと崩れてしまいそうだった。
昼下がりの温室。花々が魔力に揺れて、淡い色を放つ静寂の場所。誰もいないと確認して、俺はカリーナに声をかけた。
「ノワール嬢――いや、カリーナ」
彼女は振り向く。その瞳は変わらず冷たい。けれど、名を呼ばれた瞬間だけ、目元がわずかに揺れた。
「俺は、君のことが気になっている。ずっと、前から」
言い切った。自分でも驚くほど、はっきりと。
しばらく、沈黙が落ちた。カリーナは花の香りに包まれながら、ゆっくりと口を開いた。
「くだらないわ。恋なんて所詮、感情の暴走。魔力の崩壊装置でしかない」
言葉は鋭く、刃のようだった。心が切り裂かれる音がした。
でも――それは、心からの拒絶ではなかった。
彼女の視線は一瞬だけ宙を彷徨い、唇が何かを言いかけて止まった。
俺は静かに言った。
「それでも、君の涙を見た。…夜の庭で」
カリーナがはっとした。目の奥に色が差した。けれどすぐに背を向け、立ち去ろうとする。
「それ以上、踏み込まないで。記憶を探るのも、私の心に触れるのも、命取りになるわ」
その背に、俺は言葉を投げた。
「君の好きになった人が俺じゃなかったら、こんなに苦しまないよな」
足が止まった。ほんの一瞬。けれど、それだけで、胸が鳴った。
振り向かないまま、彼女は言った。
「…もし、あなただったとしたら。私はもう、自分を保てないかもしれないわ」
その言葉だけが、確かに本音だった。
翌日。俺は学園長室に呼び出された。冷たい扉をくぐると、重厚な空気と魔導結界が張り巡らされた空間に迎えられた。
「君が《ノワール嬢》に接近している件について、話す必要がある」
学園長の声は静かだったが、その内側には警戒が滲んでいた。
机の上に置かれた一冊の分厚い記録書。古びた魔導ページには、生徒の過去の交流履歴が綴られていた。
そこに、確かに俺の名前と――“カリーナ・ノワール”との記録があった。
「君たちはかつて、特別な許可を得て《感情共有実験》に参加していた。だが、結果は……恋情の発生」
俺は息を呑んだ。
「その影響で、二人の記憶は制御不能となり、感情暴走の危険があると判断された。よって、両者の記憶は抹消処理された」
その一言で、頭が真っ白になった。
記憶が消された理由。それは、恋だった。
だから、彼女は俺を覚えていない。俺も、彼女を忘れていた。
けれど――心だけは、ずっと反応していた。
学園長は言った。
「再び関わることは、感情魔法の禁忌に触れる。恋を再び生むことは、君自身の破滅に繋がるだろう」
俺は静かに答えた。
「それでも、俺は彼女を……忘れたくないんです」
その言葉がすべてだった。
カリーナとの記憶が消えても、魂の奥に残っている感情は、きっと嘘じゃない。
俺は立ち上がり、記録書を背に言い放った。
「俺たちの過去を消したのはあなたたちだ。なら、俺は――それを、取り戻します」
桜の庭園――学園の外れにある、誰も近づかない小さな場所。
古い魔力障壁で覆われたそこは、管理も手入れもされていないはずだった。けれど、その日、満開の桜が咲いていた。
俺は驚いた。こんな場所があったことすら、覚えていない。なのに、足が勝手にそこへ向かっていた。
そして――彼女が、そこにいた。
カリーナ・ノワール。制服の袖に桜の花びらを抱えて、石畳に立ち尽くしていた。
俺はそっと声をかけた。
「ここ、来たことあるの?」
彼女は静かに首を振った。けれど、目元がふるえていた。
「いいえ…知らないはずの場所。でも、なぜか落ち着く。息ができるの」
その言葉は、まるで記憶の底から漏れ出したつぶやきのようだった。
俺は歩み寄り、言葉を重ねた。
「ここ、昔ふたりで植えた桜なんだ。そう…書いてあった。禁書庫の“感情栞”に」
カリーナが瞳を見開いた。
「…感情栞?」
俺は頷いた。
「記憶がなくても、気持ちは残るらしい。この場所、俺もなぜか懐かしい。きっと、君も」
カリーナはしばらく沈黙し、そしてそっと桜の木に手を触れた。
「もし本当にそうなら…私は、何を忘れて、何を抱えたまま生きているんでしょう」
その声は、とても弱かった。
そして――一筋の涙が、また彼女の頬を伝った。
俺はそっとその横に立ち、彼女の指先と、桜の幹を一緒に包んだ。
記憶はなくても、ふたりの“想い出”は、ここに咲いていた。
学園祭。それは《アヴェリシア》で唯一、感情の演技が許される日。
恋愛演劇、模擬婚約、魔法舞踏会――そのすべてが、“演技”の名のもとで行われる。恋の言葉も、恋の仕草も、今日だけは規則違反ではない。
けれど、それが“本物”に触れようとした瞬間――全てが揺れる。
カリーナ・ノワールは、貴族男子セディルと“仮装カップル”としてペアを組んでいた。舞踏の舞台で、優雅に腕を取る仕草は完璧だった。誰もが羨み、誰もが美しいと讃えた。
だけど――俺にはわかる。
彼女は、どこかを探していた。視線は常に群衆の向こう。“誰か”を求めるように。
それが俺だと確信したわけじゃない。でも、それでも、体が動いた。
「俺と、踊ってください」
舞踏広場に降り立った俺は、儀礼を無視してカリーナの手を取った。
周囲がざわめき、セディルが一瞬顔を歪めた。けれど、カリーナは何も言わずに俺を見て――手を離さなかった。
音楽が流れる。
足が動くたびに、胸が鳴る。
カリーナが見せた、ほんの微笑。
それは、“演技”ではなかった。
俺たちは踊った。仮の恋人として、偽物の関係として。
でもその時間だけは、過去も規則もすべて消えていた。
踊りの終わり、彼女がそっと言った。
「演技が終われば、罰則が来るわ」
俺は頷いた。
「でも今だけ、偽物の恋人じゃなくて――ほんの少し、本物になれた気がする」
彼女の瞳が揺れた。言葉は返ってこなかった。
けれどその沈黙だけで、胸の奥に、“懐かしさ”が芽生えた気がした。
学園祭の翌日、感情の揺らぎのせいか、俺の魔力制御が不安定だった。
魔導演習中、ほんの少し指先が震えただけで、炎球が予期せぬ軌道で飛び、標的を逸れた。
「集中しなさい」
教師の声に頷いたが、胸の奥では別の震えが広がっていた。
昼休み、桜の庭園で再びカリーナに会った。彼女も何かを探すように、無言で桜の枝を見つめていた。
俺は、そっと言った。
「…俺、君と過去に何かあったって、もう確信してる」
カリーナは視線を外さなかった。だが、声は冷静だった。
「過去を確かめたところで、今を壊すだけよ」
俺は答えた。
「今の俺は、君の記憶がなくても――君を好きになった」
その言葉が、空気を揺らした。
カリーナの瞳が見開かれる。そして、視線が俺の手へ。
ふたりの距離は、わずかに縮まっていた。俺は手を伸ばした。
ふれる。彼女の指先に。
その瞬間だった。
光が、ふたりを包んだ。
周囲の魔力がざわつき、空間が震える。桜の木が揺れ、花びらが舞い上がった。
記憶のフラッシュ。
俺の脳裏に、断片が流れた。
桜の庭で笑い合うふたり。カリーナが俺の名前を何度も呼ぶ。手紙を書く夜の姿。感情栞に残された約束。
――これは、本物だ。
俺は叫んだ。
「君は、俺のことを……好きだった」
光が収まり、静寂が訪れる。カリーナは膝をつき、目を伏せた。
「…そんな記憶、知らない。私は、忘れたはずなのに」
俺は彼女の肩にそっと手を置いた。
「でも、君の心は――まだ覚えてた」
それは、恋でも魔法でもなく。“真実”だった。
記憶のフラッシュ以来、俺とカリーナのあいだには奇妙な沈黙が続いていた。
目が合えば言葉にならない感情がぶつかる。
手を伸ばせば、過去の残響が心を揺らす。
そんなある日。旧校舎の階段で、ふと彼女とすれ違った。
夕陽が差し込む石の階段。すれ違いざま、俺は立ち止まる。
「…カリーナ」
彼女も足を止めた。そして、静かに振り向く。
「……あ、」
その声は微かに震えていた。
「あなたの……」
言いかけた瞬間、魔力が弾けた。
目に見えない力が空気を裂き、彼女の声を奪った。
息を飲む。
カリーナは口元を押さえ、言葉を詰まらせたままうつむいた。
「ごめんなさい……名前が、言えないの」
涙ではない。でも、それに似た苦しみが瞳ににじんでいた。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「魔法の抑制……記憶操作の副作用だ。君の心が覚えていても、口がそれを拒む」
カリーナはそっと言った。
「でもね……言えない名前を、心で呼んでるの。何度も、何度も。ずっと、胸の中で」
それは、言葉にならない告白だった。
彼女の声は届かない。でも、その“思い”だけは、確かに俺に響いていた。
俺は、そっと彼女の手に触れた。
そして、微笑んだ。
「君が俺を呼べなくても――俺は君を、何度でも名前で呼ぶよ」
名前が言えないこと。それは記憶魔法による制約であり、ふたりを隔てる見えない檻だった。
でも、それでも、俺は彼女の瞳に確かな感情を見た。
迷いじゃない。悲しみでもない。微かな“願い”だった。
その夜、禁書庫に残された“感情栞”の魔導式を再確認した。
「再会を誓った者同士は、失った記憶に代わり、未来の約束を通じて心が繋がる」
そう書かれていた。
そして最後に、走り書きのような手書きの文。
> 「――次に会ったら、君の本当の名前で呼ぶよ。君も、俺の名前を忘れてしまっても、心で覚えていてくれますか?」
その文面を見た瞬間、胸が音を立てた。
あの手紙。あの涙。そして“言いかけた名前”。
全部、繋がっていた。
次の日。中庭に彼女を見つけた。
「カリーナ。…もし、また俺と出会ったら、何て呼ぶって約束してた?」
彼女は静かに目を伏せた。風が髪を揺らす。
「…わからない。でも、心が、そう言いたがってる」
俺は一歩近づいた。
「俺の名前、呼ばなくていい。君が“心で思う名前”だけで、充分伝わる」
彼女が、ぽつりと呟いた。
「…君を見つけたら、私が私でいる意味を思い出せる気がする」
それは、“約束”の回復だった。
記憶のないふたりが、それでも交わした“想いの継ぎ目”。
そして、俺は確信した。
――彼女が好きになった人は、やっぱり“俺”だった。
記憶監査が再び行われるという噂が、学園内に漂い始めていた。
恋をした者は、魔法が歪む可能性がある。
だから、その感情は“規則違反”になる。
でも、俺はもう、隠し通せないと思った。
カリーナの涙。彼女が言いかけた名前。
桜の庭で過ごした時間――全部が、俺の中では“確かな恋”だった。
学園長室。監査官たちの前で、俺は立った。
「俺は、カリーナ・ノワールに恋をしています」
室内が静まり返った。魔導鏡が淡く光り、俺の魔力の波が記録されていく。
「記憶抹消処置を受けたにも関わらず、君の感情が再び芽生えたと? 自覚して告白するのは、前例がない」
そう言われても、俺は引かなかった。
「記憶は消せても、気持ちは消えません。俺は、彼女を知っている。忘れたはずの彼女を、もう一度好きになったんです」
その言葉は、魔法障壁を震わせた。
監査官はしばらく沈黙したのち、静かに告げた。
「ならば、君の記憶は――完全に抹消される」
俺は、笑った。
「それでも構いません。俺がカリーナを好きだったという事実は、もう心に刻まれてる。
記憶が消えても、好きになる。そういう気持ちを、彼女と共有できたならそれだけでいい」
その瞬間、記録台の水鏡に、微かな“未来像”が映った。
――カリーナが、俺の名前を呼ぶ場面。
声にならないはずの名前が、かすかに揺れていた。
それは、心の叫びが魔法さえも超えようとする兆しだった。
告白の代償は、想像より重かった。
監査官の処置が決まり、俺の記憶は48時間後に“完全抹消”されることになった。
それは、カリーナと過ごした断片までも、すべてを消すという宣告だった。
その夜、誰にも告げずに彼女を探した。
学園の廊下、庭園、温室――どこにもいない。けれど、足が自然と導かれた場所がひとつだけあった。
桜の庭。
そこに彼女はいた。制服のまま、月明かりに包まれて桜の下に立っていた。
「…来たのね」
彼女は俺に背を向けたまま言った。
「君がここへ来るって、なぜか確信してた。記憶じゃなくて、感覚が、ね」
俺は頷いた。
「逃げよう。一緒に。ここから、全部を失う前に」
彼女は振り向いた。目の奥には恐れと決意が混じっていた。
「記憶を守るためだけじゃない。…私は、君と“今”を守りたい」
ふたりは手を取り合い、学園の外縁にある転移装置へ向かった。
風の魔法で結界をすり抜け、月光に導かれながら、重なる足音は静かに夜を裂いた。
そして、再び桜の庭へ――記憶再構築魔法の儀式を、始める。
禁書庫から持ち出した魔導書を開き、ふたりの手を重ねる。
「あなたの記憶を、私の魔力で縫い合わせる。代償は、私自身の記憶が薄れる可能性」
俺は言った。
「それでも、君と過ごした時間が残るなら――それでいい」
魔法陣が展開し、桜の花びらが空へ舞い上がる。
光が満ちて、ふたりの記憶の断片が重なりはじめる。
桜を植えた日。
初めて名前を呼び合った瞬間。
涙を流した夜。
好きだと、言えなかった言葉。
カリーナが、俺の目を見つめて、囁いた。
「…今度こそ、ちゃんと呼ぶね。――真也」
その声が、過去と現在と未来を、静かに結んだ。
桜の庭での記憶再構築から数日。カリーナは変わった。
彼女の瞳は、もう怯えていなかった。微かな色が戻り、視線の先にはいつも“俺”がいた。
その日の午後、図書館の裏庭でふたりきりになった。
風が静かに吹いていた。薄紅の花びらが、ふたりのあいだを舞った。
カリーナは、ゆっくりと口を開く。
「…ねえ、あなたは憶えてる? あの日の約束」
俺は頷いた。
「忘れたふりしてたけど。…心だけはずっと知ってた」
彼女はそっと笑った。
「私ね、あなたに手紙を書いたの。『もう一度、私を見つけてください』って…」
その言葉は、まさに俺が拾った手紙と重なっていた。
思い出した。
彼女が俺に笑いかけてくれた日。
ふたりで桜の苗を植えた日。
感情監査を怖れて、恋を封印した夜。
全部が、今、ひとつに戻った。
カリーナが目を潤ませた。言葉にならない感情が、ゆっくりと溢れ出した。
「…好きだったの、あなたが。もうずっと前から。名前も、声も、忘れても……心だけが、消えなかったの」
俺は、彼女の手を握った。
「俺もずっと、同じだった。記憶がなくても、君を探してた」
ふたりの手が重なり、記憶と感情がようやく一致した瞬間。
桜の木が揺れ、光がふたりを優しく包んだ。
それは、“過去”との再会だった。
そして――“これから”の始まりでもあった。
桜の庭での記憶再構築以来、俺たちは変わった。
過去の感情は確かに蘇った。カリーナは笑い、俺の名を口にした。
でも、それと同時に、監査官たちの判断が下された。
「記憶再構築は禁忌。君の記憶も、ノワール嬢の記憶も、不安定で危険と認定する」
ふたりを分離し、再度記憶を“完全消去”する――それが、最後の処理案だった。
俺は拒んだ。
「俺の記憶を差し出す。彼女の記憶だけは、守ってください」
監査官たちは驚いていた。代償の重さは、俺自身にかかる。
記憶を差し出せば、カリーナとの過去だけでなく、この学園で過ごした時間も失われるかもしれない。
でも――それでもよかった。
桜の庭で、カリーナが言った。
「好きになった人が、あなたじゃなかったら、こんなに苦しくなかった。でも、あなたでよかった。
好きになれてよかった。だから、今度は私が――“記憶”になる」
その言葉を聞いて、すべてが決まった。
俺は記憶抹消の儀式に立った。
魔法陣が展開し、光が胸の奥へ侵入する感覚。
思い出がほどけていく。名前、顔、言葉――全てが水に溶けるように流れていく。
でも最後に、たったひとつの感覚だけが残った。
「桜の匂い」と「誰かの声」。
それは、俺の心の奥底で小さく咲き続ける光だった。
春。
桜が、庭に咲いていた。
俺は名も知らぬこの学園に、再び転入していた。何も覚えていない――はずだった。でも、この庭に立つたびに、胸がざわめいた。
図書館で偶然見つけた、一冊の手記。装丁は古く、表紙に小さく名前が記されていた。
「カリーナ・ノワール」
ページをめくると、繊細な文字で綴られた物語が始まっていた。恋と記憶と喪失の記録。読み進めるごとに、胸の奥が熱を帯びていく。
最後の章。そこに、こう記されていた。
>「記憶は消された。名前も、声も、ぬくもりも。
>でも、私の中に残った光が教えてくれた。
>――好きになった人は、あなたでした。
>そして、“俺”でした。」
その文を読んだ瞬間、理由もなく涙が頬を伝った。
知らないはずの名前。会ったことのないはずの彼女。
けれど、その言葉は確かに、俺に向けて綴られていた。
桜の風が、そっと吹いた。
俺は手記を閉じて、庭を見渡す。そして、どこかで聞いたような声が心に響いた。
「次に会ったら、君の本当の名前で呼ぶよ。――私を、また見つけてください」
名もない感情だけが、静かに胸を打っていた。
♢♢♢
春がまた、来ようとしている。
私は桜の庭に佇み、風の匂いを嗅ぐ。誰かの声が聴こえそうで、振り返ってしまう。けれど、そこに“彼”はいない。
彼の記憶は、もうこの世界には残っていない。
私を好きだった“あの人”は、私のことを忘れたまま新しい時を歩いている。
それなのに、どうして私はまだ、こんなにも彼を“知っている”のだろう。
魔導手記の最後のページに、私はこう記した。
> 「好きになった人は、あなたでした。
> たとえ記憶に刻まれていなくても、私の心はずっと、あなたの名を呼び続けていました。」
そして、春風に吹かれて、一通の手紙を彼の机に残した。
もしページをめくることがあったら。もし桜の匂いに立ち止まったら。
彼はきっと、名前を知らないままでも私の“想い”を見つけてくれる。
それだけで、いい。
私はもう追わない。けれど、桜の季節になるたび、“彼を待つ心”は、そっと咲く。
完
最後までご覧いただきありがとうございました。
異世界、恋愛、悪役令嬢で初めて小説を書いてみました。
誤字脱字や感想など、執筆の励みになりますのでご意見等聞かせて頂ければ幸いです。