第2章:出発
第2章:出発
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夕日が地平線に沈みかけ、空は淡いオレンジと薄紫に染まっていた。
時は刻々と迫り――あまりにも早すぎる夕暮れ。
アガスタの部屋では、時間の流れがどこか歪んで感じられた。
唯一響く音は、時計の「カチッ、カチッ」という秒針の音だけ。
彼女はベッドの上に静かに座り、まるで時間に取り残されたかのように動かなかった。
部屋の右側にベッド。左側には本棚がそびえ、溢れんばかりの小説や教科書、日記が並んでいる。隣にはクローゼット。
ナイトスタンドの上には電気スタンド――今は消えて、影の中に沈んでいた。
アガスタは、そっとランプの横に置かれた写真立てに手を伸ばした。
まるで壊れ物を扱うように優しく、それを手に取る。
それは――写真だった。
二人の少女が写る、一瞬の輝き。
カーヴィアとアガスタ。大学の卒業式で撮った思い出の一枚。
あの日は晴天だった。二人の未来も、同じように輝いていた。
アガスタの目に涙が浮かび、写真立てのガラスに静かに落ちる。
涙は写真をぼやかしたが、記憶は今も鮮明だった。
「カーヴィア、もっと笑って~アガスタみたいに!」
――カメラの後ろから、そんな声が聞こえていたっけ。
カーヴィアは少し戸惑ったように腕を組み、アガスタに目を向けて小さく微笑んだ。
シャッター音が鳴る。
それはただの写真ではなく、二人の絆を切り取った瞬間だった。
アガスタは袖でガラスを拭ったが、手は震えていた。
「どうして行っちゃうの……?」
声が掠れ、呟きが漏れる。
夕日はさらに沈み、彼女の心と同じように落ちていく。
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胸がざわつき始め、アガスタは携帯を手に取った。
すぐにカーヴィアの番号を押す。
……圏外。
電源が切られている。
――そうだ。もう彼女は、ここにはいない。
苛立ちに満ちた声が喉から漏れ、アガスタは携帯をベッドの端に放り投げた。
落ちそうで落ちない、その不安定さが今の彼女そのものだった。
アガスタは立ち上がり、拳を握りしめる。
「……くそっ……」
その一言に、どうしようもない怒りと寂しさが込められていた。
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一方その頃――
メインラボのドアが鋭い音とともに開いた。
ハリッシュ・ソーニ教授が姿を現す。
ミッションの重みを全身で背負うように、静かだが確かな足取り。
科学者たちとの最終ブリーフィングを終え、彼はカーヴィア・チャンダンの元へ向かった。
彼女は端末のそばに座っていた。ヘルメットは机の上に置かれている。
教授は彼女の前で立ち止まり、やや手を上げる。
「時間が迫っている。これからは常に待機体制だ。」
カーヴィアは静かに頷いた。言葉はなかった。
だが、視線が一瞬だけ横へと逸れる――
そこに不安の色が滲んでいた。
その変化を、教授は見逃さなかった。
「……何か気になることがあるのか?」
カーヴィアはすっと立ち上がる。肩に緊張が走っている。
「教授……携帯を一度だけ、取りに行ってもいいですか?
始まる前に、最後に一度だけ……」
教授は目を細めたが、すぐに頷いた。
「構わん。だが、時間をかけすぎるな。」
「ありがとうございます。」
カーヴィアはすぐに踵を返し、部屋を飛び出す。
自動ドアが音を立てて開き、白いタイルの床に彼女の足音が響く。
速い。まるで、携帯が消えてしまうかのように――
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私室の前に到着し、ドアが静かに開く。
中は無人。
左側のテーブルに、携帯が置かれていた。
彼女はすぐさま手に取り、電源ボタンを連打する。
画面が点灯。
ロゴが現れ、起動開始。
――長い。
40秒ほどのブート時間が、永遠にも感じられた。
ロック画面が表示され、即座に解除。
迷わず、アガスタの名前をタップ。
コール中……
コール中……
――応答なし。
もう一度。
……留守番電話。
さらにもう一度。
……ダメだった。
鼻から強く息を吐き、悔しさが瞳に滲む。
「なんで出ないの……?
いつもはすぐ出るのに……夜中でも、2回、3回のコールで出るのに……」
携帯を握りしめ、もう片方の手がヘルメットに触れる。
――今じゃなきゃダメなんだ。
今日じゃなきゃ、意味がないんだ。
もう一度電話をかけようとした手を止め、留守電アイコンに指を滑らせる。
大きく息を吸う。
録音ボタンをタップ。
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*「急にこんなことになって、ごめん。
でも、本当に伝えたいことがあるの。
たくさんあるのに、結局言えなかったことばかり。
私がなぜこんなミッションを選んだのか。
なぜ志願したのか。
なぜ……ちゃんとあなたに伝えなかったのか。
私には誰もいないわけじゃない。
あなたがいる。
……アガスタ、あなたがいれば十分だったはずなのに。
でもね、たまに感じてしまうの。
あなたがそばにいても、心が孤独でいっぱいで……
すごく、苦しかった。
誰にも言えなかったけど……
時々、思うの。
“私、なんで生きてるんだろう”って。
大切な人たちは、みんなもういないのに、
どうして、私だけが残されてるの?
でも――
そんな闇の中にも、あなただけはいたの。
ずっと、光だった。
私の夜を照らす、月のような存在。
だから……戻ってきたら、
また一緒にコーヒー飲もう。
朝日を見ながら、昔みたいに。
あなたの笑顔が、また見たい。
あなたの笑い声が、また聞きたい。
隣に、ただ座っていたい。
ありがとう、アガスタ。
いてくれて。
私の側に、いてくれて。」*
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スピーカーが割れるように鳴り、機械音声が全施設に響く。
「ミッション開始まで――Tマイナス30分」
カーヴィアは一瞬だけ目を見開いた。
すぐに顔を拭き、姿勢を整える。
現実に引き戻された瞬間だった。
彼女は踵を返し、素早く部屋を出る。
自動ドアが開く――そして閉じる。
もう、走り出していた。
白い廊下に足音が反響する。
迷いも、ためらいも、もうなかった。
彼女は戻っていた。
ラボへ――
ロケットへ――
そして、運命へ。
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メインラボのドアが開き、カーヴィアが静かに足を踏み入れる。
その足音だけが、空気を切るように響く。
ドアが後ろで閉まり、教授が近づく。
「準備はいいか?」
彼女はしっかりと頷いた。
「……はい。」
教授は満足げに頷き、手を横に出す。
「今回の同行者を紹介しよう。
ラケッシュ・シャウリヤ氏、そしてアナンヤ・シュクラ博士だ。」
二人の宇宙飛行士が前に出る。すでにスーツ姿だった。
カーヴィアは穏やかに微笑みながら、手を差し出す。
「よろしくお願いします。」
彼らも同時に答える。
「こちらこそ。」
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その頃――
アガスタの部屋。
ギィ……と木製のドアが開き、静かに閉まる。
アガスタは無言で歩き、ベッドに座る。
まるで糸の切れた人形のように、肩が沈む。
――ピロン。
携帯が点灯する。
画面には――
《不在着信:4件 カーヴィア・チャンダン》
《ボイスメッセージ:1件》
息が詰まる。
「……うそ……」
震える指で携帯を開く。
再生。
――カーヴィアの声が部屋に満ちた。
正直で、脆くて、感情がにじむ声。
アガスタはまばたき一つせず聞き続けた。
一言一言が、胸を切り裂いていく。
再生が終わると、携帯は手から落ち、ベッドに転がった。
彼女はそのまま、ゆっくり横になる。
子どものように、身体を丸めて――
枕に顔を埋めて、泣いた。
部屋には、彼女のすすり泣く音だけが残った。
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その頃、メインラボ。
中央モニターには、赤く点滅するカウントダウン。
T–10:00
カーヴィアと二人の宇宙飛行士は、すでにロケット内に搭乗済み。
全システム――オールグリーン。
もう、引き返せない。
ロケットの背には、特別設計された大型空間モジュールが装着されていた。
「シンギュラリティ・プローブ」――
彼女だけを、ブラックホールの奥へ送り込むための機体。
技術者たちはそう呼んでいた。
彼女は、これを“最後の旅”と呼んだ。
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T–00:50
カーヴィアはコクピットで前を見据えていた。
ヘルメットのガラス越しに、静かに呼吸をする。
心拍は落ち着いていた。
だが、思考は――遥か遠くへ飛んでいた。
地球よりも遠く。
恐怖よりも、さらに深い場所へ。
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T–00:03…
アナンヤ博士が、彼女の膝にそっと手を置く。
言葉はない。
ただ、微笑み。
――それだけで、伝わった。
カーヴィアは一度まばたきし、小さく頷いた。
3…
2…
1…
――発射。
轟音。
閃光。
巨大な研究所の前に、白い霧が爆発のように広がる。
終わった。
もう、戻れない。
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制御室では、誰もが空を見つめていた。
希望。
祈り。
すべてが、ひとつの命に託されていた。
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静かな寝室で――
カシャッ。
――ガシャン!
アガスタのナイトスタンドの上から、写真立てが床に落ちた。
ガラスの破片が散る。
アガスタは驚き、急いで拾い上げる。
目に飛び込んできたのは――
笑顔のカーヴィア。
あの日の、二人の写真。
……その顔の上に、ヒビが走っていた。
ガラスの割れ目が、ちょうど彼女の笑顔を貫いていた。
アガスタの手が震える。
目に再び涙が浮かぶ。
眉間にしわが寄る。
胃の奥が締めつけられるような不安。
――何かが、おかしい。
恐ろしく、胸がざわつく。
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