表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第2章:出発

第2章:出発



---


夕日が地平線に沈みかけ、空は淡いオレンジと薄紫に染まっていた。

時は刻々と迫り――あまりにも早すぎる夕暮れ。


アガスタの部屋では、時間の流れがどこか歪んで感じられた。

唯一響く音は、時計の「カチッ、カチッ」という秒針の音だけ。


彼女はベッドの上に静かに座り、まるで時間に取り残されたかのように動かなかった。

部屋の右側にベッド。左側には本棚がそびえ、溢れんばかりの小説や教科書、日記が並んでいる。隣にはクローゼット。

ナイトスタンドの上には電気スタンド――今は消えて、影の中に沈んでいた。


アガスタは、そっとランプの横に置かれた写真立てに手を伸ばした。


まるで壊れ物を扱うように優しく、それを手に取る。


それは――写真だった。


二人の少女が写る、一瞬の輝き。

カーヴィアとアガスタ。大学の卒業式で撮った思い出の一枚。

あの日は晴天だった。二人の未来も、同じように輝いていた。


アガスタの目に涙が浮かび、写真立てのガラスに静かに落ちる。

涙は写真をぼやかしたが、記憶は今も鮮明だった。


「カーヴィア、もっと笑って~アガスタみたいに!」

――カメラの後ろから、そんな声が聞こえていたっけ。


カーヴィアは少し戸惑ったように腕を組み、アガスタに目を向けて小さく微笑んだ。

シャッター音が鳴る。


それはただの写真ではなく、二人の絆を切り取った瞬間だった。


アガスタは袖でガラスを拭ったが、手は震えていた。


「どうして行っちゃうの……?」

声が掠れ、呟きが漏れる。


夕日はさらに沈み、彼女の心と同じように落ちていく。



---


胸がざわつき始め、アガスタは携帯を手に取った。

すぐにカーヴィアの番号を押す。


……圏外。

電源が切られている。


――そうだ。もう彼女は、ここにはいない。


苛立ちに満ちた声が喉から漏れ、アガスタは携帯をベッドの端に放り投げた。

落ちそうで落ちない、その不安定さが今の彼女そのものだった。


アガスタは立ち上がり、拳を握りしめる。


「……くそっ……」


その一言に、どうしようもない怒りと寂しさが込められていた。



---


一方その頃――


メインラボのドアが鋭い音とともに開いた。


ハリッシュ・ソーニ教授が姿を現す。

ミッションの重みを全身で背負うように、静かだが確かな足取り。


科学者たちとの最終ブリーフィングを終え、彼はカーヴィア・チャンダンの元へ向かった。


彼女は端末のそばに座っていた。ヘルメットは机の上に置かれている。


教授は彼女の前で立ち止まり、やや手を上げる。


「時間が迫っている。これからは常に待機体制だ。」


カーヴィアは静かに頷いた。言葉はなかった。


だが、視線が一瞬だけ横へと逸れる――

そこに不安の色が滲んでいた。


その変化を、教授は見逃さなかった。


「……何か気になることがあるのか?」


カーヴィアはすっと立ち上がる。肩に緊張が走っている。


「教授……携帯を一度だけ、取りに行ってもいいですか?

始まる前に、最後に一度だけ……」


教授は目を細めたが、すぐに頷いた。


「構わん。だが、時間をかけすぎるな。」


「ありがとうございます。」


カーヴィアはすぐに踵を返し、部屋を飛び出す。

自動ドアが音を立てて開き、白いタイルの床に彼女の足音が響く。


速い。まるで、携帯が消えてしまうかのように――



---


私室の前に到着し、ドアが静かに開く。


中は無人。

左側のテーブルに、携帯が置かれていた。


彼女はすぐさま手に取り、電源ボタンを連打する。


画面が点灯。

ロゴが現れ、起動開始。


――長い。

40秒ほどのブート時間が、永遠にも感じられた。


ロック画面が表示され、即座に解除。

迷わず、アガスタの名前をタップ。


コール中……

コール中……

――応答なし。


もう一度。

……留守番電話。


さらにもう一度。

……ダメだった。


鼻から強く息を吐き、悔しさが瞳に滲む。


「なんで出ないの……?

いつもはすぐ出るのに……夜中でも、2回、3回のコールで出るのに……」


携帯を握りしめ、もう片方の手がヘルメットに触れる。


――今じゃなきゃダメなんだ。

今日じゃなきゃ、意味がないんだ。


もう一度電話をかけようとした手を止め、留守電アイコンに指を滑らせる。


大きく息を吸う。

録音ボタンをタップ。



---


*「急にこんなことになって、ごめん。

でも、本当に伝えたいことがあるの。

たくさんあるのに、結局言えなかったことばかり。


私がなぜこんなミッションを選んだのか。

なぜ志願したのか。

なぜ……ちゃんとあなたに伝えなかったのか。


私には誰もいないわけじゃない。

あなたがいる。

……アガスタ、あなたがいれば十分だったはずなのに。


でもね、たまに感じてしまうの。

あなたがそばにいても、心が孤独でいっぱいで……

すごく、苦しかった。


誰にも言えなかったけど……

時々、思うの。

“私、なんで生きてるんだろう”って。

大切な人たちは、みんなもういないのに、

どうして、私だけが残されてるの?


でも――

そんな闇の中にも、あなただけはいたの。

ずっと、光だった。

私の夜を照らす、月のような存在。


だから……戻ってきたら、

また一緒にコーヒー飲もう。

朝日を見ながら、昔みたいに。


あなたの笑顔が、また見たい。

あなたの笑い声が、また聞きたい。

隣に、ただ座っていたい。


ありがとう、アガスタ。

いてくれて。

私の側に、いてくれて。」*



---


スピーカーが割れるように鳴り、機械音声が全施設に響く。


「ミッション開始まで――Tマイナス30分」


カーヴィアは一瞬だけ目を見開いた。


すぐに顔を拭き、姿勢を整える。

現実に引き戻された瞬間だった。


彼女は踵を返し、素早く部屋を出る。

自動ドアが開く――そして閉じる。


もう、走り出していた。


白い廊下に足音が反響する。

迷いも、ためらいも、もうなかった。


彼女は戻っていた。


ラボへ――

ロケットへ――

そして、運命へ。



---


メインラボのドアが開き、カーヴィアが静かに足を踏み入れる。

その足音だけが、空気を切るように響く。


ドアが後ろで閉まり、教授が近づく。


「準備はいいか?」


彼女はしっかりと頷いた。


「……はい。」


教授は満足げに頷き、手を横に出す。


「今回の同行者を紹介しよう。

ラケッシュ・シャウリヤ氏、そしてアナンヤ・シュクラ博士だ。」


二人の宇宙飛行士が前に出る。すでにスーツ姿だった。


カーヴィアは穏やかに微笑みながら、手を差し出す。


「よろしくお願いします。」


彼らも同時に答える。


「こちらこそ。」



---


その頃――


アガスタの部屋。


ギィ……と木製のドアが開き、静かに閉まる。


アガスタは無言で歩き、ベッドに座る。

まるで糸の切れた人形のように、肩が沈む。


――ピロン。


携帯が点灯する。


画面には――


《不在着信:4件 カーヴィア・チャンダン》

《ボイスメッセージ:1件》


息が詰まる。


「……うそ……」

震える指で携帯を開く。


再生。


――カーヴィアの声が部屋に満ちた。


正直で、脆くて、感情がにじむ声。


アガスタはまばたき一つせず聞き続けた。

一言一言が、胸を切り裂いていく。


再生が終わると、携帯は手から落ち、ベッドに転がった。


彼女はそのまま、ゆっくり横になる。


子どものように、身体を丸めて――

枕に顔を埋めて、泣いた。


部屋には、彼女のすすり泣く音だけが残った。



---


その頃、メインラボ。


中央モニターには、赤く点滅するカウントダウン。


T–10:00


カーヴィアと二人の宇宙飛行士は、すでにロケット内に搭乗済み。


全システム――オールグリーン。

もう、引き返せない。


ロケットの背には、特別設計された大型空間モジュールが装着されていた。


「シンギュラリティ・プローブ」――


彼女だけを、ブラックホールの奥へ送り込むための機体。


技術者たちはそう呼んでいた。

彼女は、これを“最後の旅”と呼んだ。



---


T–00:50


カーヴィアはコクピットで前を見据えていた。


ヘルメットのガラス越しに、静かに呼吸をする。


心拍は落ち着いていた。

だが、思考は――遥か遠くへ飛んでいた。


地球よりも遠く。

恐怖よりも、さらに深い場所へ。



---


T–00:03…


アナンヤ博士が、彼女の膝にそっと手を置く。


言葉はない。

ただ、微笑み。


――それだけで、伝わった。


カーヴィアは一度まばたきし、小さく頷いた。


3…

2…

1…


――発射。


轟音。

閃光。

巨大な研究所の前に、白い霧が爆発のように広がる。


終わった。

もう、戻れない。



---


制御室では、誰もが空を見つめていた。

希望。

祈り。

すべてが、ひとつの命に託されていた。



---


静かな寝室で――


カシャッ。

――ガシャン!


アガスタのナイトスタンドの上から、写真立てが床に落ちた。


ガラスの破片が散る。


アガスタは驚き、急いで拾い上げる。


目に飛び込んできたのは――


笑顔のカーヴィア。

あの日の、二人の写真。


……その顔の上に、ヒビが走っていた。


ガラスの割れ目が、ちょうど彼女の笑顔を貫いていた。


アガスタの手が震える。

目に再び涙が浮かぶ。


眉間にしわが寄る。

胃の奥が締めつけられるような不安。


――何かが、おかしい。


恐ろしく、胸がざわつく。



---

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ