第1章:ブラックホール
初めましての方も、お久しぶりの方も、こんにちは!作者のWhoismeです。
今回はいよいよ、カヴィヤの過酷な任務が始まります。彼女の勇気を見届けてください…!
第1章:ブラックホール
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「……緊張しているのかも。いや、もしかすると……少しだけ、怖いのかも。」
宇宙へ行くのは、初めてじゃない。
でも――このミッションだけは、違った。
これは……ほとんど自殺行為に等しい。
人類の誰も踏み込んだことのない“未知”への飛躍。
世界中の宇宙飛行士が、その危険を理由に断った。
――彼女を除いては。
なぜ、彼女だけがその一歩を踏み出せたのか?
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名前: カーヴィア・チャンダン
国籍: インド
年齢: 24歳
両親: 死亡
兄弟姉妹: なし
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「こちらに、彼女の詳細がすべて載っています。」
ファイルが、深い茶色の目をした老科学者の手に渡される。彼は書類を目で追いながら、静かにページをめくっていった。
白衣の下には黒のストライプ柄シャツと、グレーのスラックス。目つきは鋭く、判断は常に迅速。
「……よし、確認した。」
ファイルをパタンと閉じた彼は、静かな声で言った。
「カーヴィアに準備を伝えろ。今日の夕方に発射だ。もし直前で辞退するようなら――ミッションは中止だ。」
彼はファイルを、隣に立つ若い女性研究員に返す。
彼女も白衣をまとい、ピンクのシャツとブルージーンズがその下に見えていた。カジュアルだが、気の抜けた様子はなかった。
「かしこまりました。」
彼女は小さく頭を下げ、踵を返して歩き出す。
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メインラボを出ると、そこには教授やエンジニア、科学者たちのざわめきが広がっていた。中央には巨大な球体型インターフェースが輝き、それを囲むように複数の端末と作業チームが配置されている。
周囲には小型の個室も並び、各チームがリアルタイムでデータを確認していた。声は小さく、しかし緊迫感は確かにあった。
このミッションは、すべてだった。
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自動ドアが静かな音を立てて開き、そしてまた閉じる。
彼女の足音だけが、長く白い廊下に響く。
壁も床も天井も、すべてが冷たく、無機質な白で統一されていた。その廊下は、現実と非現実を繋ぐトンネルのようだった。
やがて彼女は、"LEVEL 1-A // PRIVATE ACCESS ONLY" の表示がある高セキュリティドアの前に立つ。チャイムが鳴ると、ドアが音もなく開いた。
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中は、ほとんど何もないミニマルな部屋。
数脚の黒い回転椅子が置かれ、心理面談や個別ブリーフィング用であることが伺えた。
その椅子の一つに、ひとりの女性が座っていた。
カーヴィア・チャンダン。
静かに、だが確かに自分の中に何かを抱えるように座っている。
彼女の目線は床へ向けられ、深い沈思の中にいた。
暗い照明が彼女の顔に柔らかく影を落とし、漆黒の髪と対照的に輝く青い瞳が、現実離れしたほどに美しく見えた。
彼女はすでに宇宙服を身につけていた。
もう、決意は固まっている。
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女性研究員が、彼女の前の椅子に座り、柔らかく微笑んだ。
「カーヴィア、承認が下りました。準備はいい?」
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『後悔はない。
死ぬなら、それも運命。
家族はいない。待っている人もいない。
……アガスタを除いては。』
『彼女はただの友達じゃない。もっと大切な存在。
きっと泣く。私を恨む。でも、彼女は生きていける。』
そんな想いが、彼女の胸に静かに渦巻いていた。
表情は変わらない。だがその奥には、無数の感情があった。
やがて彼女は顔を上げ、微笑みを返した。
「大丈夫です。準備はできています。」
女性研究員も安心したように微笑む。
「では、少し休んでください。準備が整ったら、私が迎えに来ます。」
カーヴィアはゆっくりと頷き、目を閉じた。
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部屋を出ようとした研究員は、ふと振り返る。
カーヴィアは、また静かに俯いていた。
恐怖か、思い出か――
沈黙の中、彼女はただ静かにそこにいた。
ドアが閉まり、無音が戻った。
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突如、メインラボに声が響いた。
「見つけたぞ!! 本当に……ブラックホールだ!!」
全員の手が止まり、視線が一斉に集まる。
教授、ハリッシュ・ソーニが駆け寄り、モニターに目を凝らす。
「これが……本物か。」
彼は片手を顎に当て、深く考え込んでいた。
画面の先にいるのは――彼女だ。
カーヴィア。
表情は引き締まり、視線は一点を見つめる。
「データをすべて取れ。最大限だ。」
「了解です!!」
科学者たちが騒然とする中、彼はただ一人、沈黙していた。
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遠く離れた街、公園のベンチで、ある男が空を見上げて呟いた。
「……政府は本当に誰かを送り出すのか? 自殺行為にしか見えないが……」
近くでは子供たちが遊び、通りには市場の喧騒が響く。
「志願者がいたらしい。しかも、自ら申し出たそうだ。」
「女の子なのか?」
「らしいな。二十四歳。家族はいない。……覚悟の人だ。」
「……無事に戻ってくるといいがな。」
その頃、大きな公共スクリーンの前には人だかりができていた。
MISSION BLACK HOLE INITIATED
「史上初、ブラックホールへの有人接近。宇宙飛行士:カーヴィア・チャンダン」
レポーターの声が響き、映像には研究所、シミュレーション、そして彼女の写真が映し出される。
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一人の少女がベッドに膝を抱え、泣いていた。
髪は乱れ、黒い瞳には涙が溢れている。怒りと悲しみが入り混じった顔。
「……どうして行くの……? 私がいるのに……」
声は震え、涙は止まらない。
「止めたじゃない……あんなに止めたのに……っ!」
誰も聞いていない部屋の中で、彼女は叫ぶ。
「バカ! カーヴィアのバカ!」
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その頃、別のフロア。スーツを着たカーヴィアが、大きなくしゃみをした。
「へくしっ!」
鼻を擦りながら、彼女は微笑む。
「誰かが私の噂してる……ふふ、アガスタね。怒ってるだろうな。」
そっと呟いた。
「今、彼女の前に現れたら……ブラックホールより先に殺されるかも。」
そして天井を見上げる。
「ごめん、アガスタ。でも、ここまで来たら……もう戻れない。」
目には――別れの決意が宿っていた。
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シュウ……と音を立てて、ドアが開く。
女性研究員が現れ、静かに告げる。
「カーヴィア、時間です。行きましょう。」
カーヴィアは深く息を吐き、椅子から立ち上がった。
「はい。準備はできています。」
ドアが閉まり、ふたりは並んで歩き出す。
白く静かな廊下に、足音だけが響いた。
ミッションは、もう現実だった。
しばらく歩いた後、研究員が小さく口を開く。
「……あなた、本当にすごいわね。私だったら……怖くて無理。」
カーヴィアは笑顔を見せた。
「大丈夫です。」
それだけ言って、ふたりはまた歩き出した。
研究所へ。
ロケットへ。
――そして、ブラックホールへ。
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