なんか進捗が変なんですけど
「うーん。なんか一人、異常に飲み込みがいいやつがいるな。」
「おっどうしました?岩田先生?」
「あ、太田先生。新一年生のオンライン受講記録をチェックしていたんですが…。」
私の名前は岩田巌棋。呉西商業高等学校の教師で、担当は簿記・会計。毎年恒例となった、6月の日商簿記検定3級受験のための、オンライン学習の進捗度を管理していたところだ。当学校では、4月と5月は探索者課程と商業課程の基礎…特に簿記の履修が最優先される。そのために行われるのが、オンライン学習・7限の補習・土曜授業の毎年度恒例となった、過密スケジュールである。そして、その分教師の負担も増える。ということは残業も増える。そして、間に合わなかったものが出た場合は、追加の補習である。つまりは、6月の追加残業発生につながる。
故に、この時期は少しピリつく。なんとしても生徒を6月の簿記検定に間に合わせるために、多少は普通科が後回しになってもこちらを優先する。7限の補習は日替わりで簿記と探索者基礎が、土曜授業はその両方が、そしてオンライン学習では録画講義の配信と、課題のオンライン提出が必要となる。そのため、教師の方も簿記に関しては、岩田、太田、黒澤の三名が、新一年生80名の指導にあたる。…できればもう一人担当が欲しいというのが本音だ。
学校では簿記の教科書を使い、オンラインでは録画を、補習では電卓の使い方や個別の指導、土曜授業では模擬テストを…。と、ここでオンライン講義をチェックしていたところ、一人だけやけに進捗が早い生徒がいることに気がついた訳だ。
「ほー、会計学科ではなくてビジネスマネジメント科のやつか…」
太田先生が興味深く画面を覗く。
「えぇそうなんです。珍しいんですが、またこれが異常なんです。」
「ん?どれだけ進んでるんだ?」
「すでに3級の必要範囲は完了してます。」
「馬鹿な、まだ1週間だぞ。」
「間違いありません、課題も全部提出されてます。」
そう、あり得ないのである。確かに、簿記3級を学ぶだけなら1週間あれば事足りる。だが、それは「他に何もなければ」が前提である。他の課目の宿題に、探索者課程の宿題や、普通科の詰め込みも考えれば到底不可能というか、そもそも、入学してまだ1週間だ。つまり、触りの授業ぐらいしかやっていないわけで、ここでもう課題提出まで終わっているということは、ほぼ独学でこなしてしまったという事を意味する。
簿記を学ぶにあたって多くの人がつまずくポイントがある。借方貸方(=複式簿記という概念の理解)、商品と仕入・売上の違い(=資産・負債・純資産・費用・収益の区別)、決算周りの精算表などの記入方法など、多くの落とし穴がある。この生徒はそれらを、なんの不都合もなくすべて独学で学習したというのか?一応ありえない話ではないが、集団探索を前にこれだけの成績を見せる生徒は貴重だ。
進捗度テストもすべて満点で合格。これなら今日にでも日商簿記3級を合格できる。
「ほしいな。うちの部に。」
「そうですね欲しいですね。」
太田と岩田は部活「経理部」の顧問と副顧問でもある。日商・全商が主催する簿記検定の上位級の取得だけではなく、日商・全商が主催する競技会や、各都道府県の商業高等学校が主催する大会での優勝も狙っている。その中で、これだけ簿記に対して飲み込みが早い生徒は、是が非でも確保したい稀有な人材である。今は探索者課程が優先の時期で、新入生はまだ部活に所属していないが、これは早めにでもアプローチをかけたい。
「太田先生、今年のビジネスマネジメント科の担任は?」
「上埜先生ですね。相談しておきます。」
よし、上埜先生なら、たぶん聴いてくれるだろう。彼はビジネスマネジメント系の授業の他にも、原価計算の担当もしているから、うちの部とも関係がある。これは僥倖だ。
「なんかちょっとずるい気もしますけどね。」
「そうだな。これだけ優秀な生徒ならたぶん他からも引っ張りだこになるだろうからな。先んじて押さえておきたい。」
―人知れないところで黒川理恵の今後の予定が埋められていく。
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「簿記楽しいなー…やけに課題多いけど、入学前に4月と5月は簿記を徹底的にやるって説明されてたし、どんどんやらないと…」
私は「自由時間をつくるため」「現実逃避をするため」に、帰宅後は簿記のオンライン学習にとりくんでいた。探索者基礎の学習を並行しつつ、少しでも簿記の方を早くおわらせて、浮きの時間を作りたいのである。よって、このオンライン講義と課題のリストを手当たり次第に消化していっている。問題は、それでも全体の半分にも達成していないことか。
「しかし、簿記やっぱ面白いな。普通科には飽き飽きしてたからなぁ。」
だが、理恵は勘違いしていた。このズラッとならんだオンライン講義と課題のリストは、1年次のものだけではなく、2年次・3年次に加えてさらに高度な内容も含むということを。更に言えば、太田と岩田の両名がその筋では有名な簿記の教師であるということも。
本来ならもっと早めの段階でつまずき、それを補習や土曜授業で補うのだが、理恵は気づいていなかった。というよりも、自覚をしていなかったというべきだろうか。自分の高いINT値が、高校生の平均なんかぶっちぎっているということは、その分頭がよくなってなければおかしいのだ。
いや、これは一周回ってむしろ鈍いのか?
ともかく無自覚のうちに、ステータスのゴリ押しにより、どんどんと理恵はオンライン講義を受講して、課題を片付けていく。これが後に呉西高等学校の各部活動間に発生する、黒川理恵獲得戦争の引き金になることをまだ誰も知らない。…いや、太田と岩田の二名だけが予感している。