#51 死ぬな
洋二には、女の子のことを沖の方へと引っ張る、黒い存在が見えていた。
涼夜は、ジャケットをその場で脱ぎ捨てると海に飛び込んだ。
早く、早く女の子の元に行かなければ流されてしまう。がむしゃらに女の子に向かって泳いでいく。緩やかではあるが確実に進路を妨害してくる波にも屈しずに。
そして、彼はやっとの思いで女の子の元へと辿り着いた。
「もう大丈夫だよ。今から戻るからね」
涼夜は、泣き叫ぶ女の子に優しく微笑みかけると、浮き輪をしっかりと掴んで浜辺に向かって泳ぎ始めた。
浜辺に向かって泳ぎ始めて少し経った頃、涼夜は足に違和感を覚えた。疲労感や負傷したというものではなく、何かに掴まれて引っ張られているような不思議な感覚。どんどん足が重くなっていく。体が海に沈む……顔が水面に……
「がはっ」
涼夜は海水を大量に飲み込んでしまった。気管支に海水が流れ込んでくる。視界が不安定になっていく。
もうすぐ……もうすぐ浜辺に戻れるというのに。
涼夜の意識はだんだんと遠のいていった。
「にいちゃん、大丈夫か!! 早く救急車を」
涼夜と女の子の元に助けが来たのは、涼夜が意識を失ってからすぐのことであった。涼夜が海に飛び込んで少ししてから、彼のことを追うように助けに向かった大人たちによって、沈みかけていた涼夜は引き上げられたのだ。彼らによって女の子は無事に救出された。
すぐに駆けつけた洋二は、浜辺に寝かせられた涼夜に向かって心肺蘇生を試みる。
「おい! 戻ってこい!」
洋二は心臓マッサージを続けながら叫んだ。
「母ちゃんにかっこいい姿見せるんだろ! 有名雑誌に載ったって。母ちゃん待ってるんだろ! こんなところで死ぬな!!」
洋二は涼夜に口付けし、人工呼吸をすると、再度心臓マッサージを再開する。
「息吹き返してくれ! 頼む! 頼むよ……」
洋二は必死に涼夜の胸を押し込み続けた。彼の肺に向かって酸素を送り続けた。何度も、何度も、何度も、何度も……。
それでも、彼が呼吸をすることは二度となかった。
数分後到着した救急車によって、涼夜は近くの市民病院へと運ばれた。しかし、十分な治療を施す間もなく、涼夜は帰らぬ人となってしまった。
“MOON”の撮影予定の三日前の出来事であった。
「あれから俺、なんだか無気力になっちまって、すぐにモデルも辞めたんだぜ」
「何を言ってるんだ? ……まさか、俺の生前の知り合いか?」
GHの男——洋二に向かって、アクタは目を見開いた。
「わかんねーか。わかんねーよな。二十六年も経って、俺ももうすっかりおっさんになっちまったよ。まあ、やるしかねーよな。会っちまったんだから」
虚な目の洋二はそう言うと、左手で持っていたモーニングスターの鎖部分を手放した。鎖に繋がれた鉄球が自由落下し、鈍い音を立てて地面に衝突する。その刹那、洋二はアクタの顔へギロリと視線を合わせた。
「いくぞ、涼夜」
洋二が右手を振り上げて、鎖づたいに鉄球を浮き上がらせると、アクタとマッチョに向かって鉄球を振り下ろした。アクタ、マッチョはそれぞれ左右に飛んで、それを躱す。鉄球は地面へと叩きつけられ、“ドゴン”という低い破裂音と共にコンクリートを少し抉った。
「避けるなよ。できれば、すぱっと終わらせたい。もうここは、お前の居るべき場所じゃない。今すぐに送ってやる」
洋二が鎖を引っ張って再度鉄球を振り上げると、今度は鎖を横に振ってアクタ目掛けて鉄球を叩きつけようとした。アクタがそれを斜めにしゃがんで躱す。鉄球はそのまま弧を描きながら洋二の元へと戻っていった。
「間合に入るのが難しい。あの鉄球の武器、厄介だな」
「それなら、二人で別方向から攻めよう。俺が囮になるから、マッチョはその隙に彼を叩いてくれ」
「了解した!」
マッチョはアクタからの指示を聞き入れると、震える女性を道脇に座らせた。「動けるか?」というマッチョの問いに、女性は首を横に振った。どうやら腰が抜けてしまっているようだ。
「ここでもう少し大人しくしていてくれ!! すぐに安全を確保しよう」
マッチョとアクタが洋二に向かって拳を構える。
「君、俺の生前を知っているなら、教えてくれないかい?」
「あー、やっぱりお前も生前の記憶がないのか。幽霊って結構そういうやつ多いよな。ただ、教えちまうとさ、俺がやりづらくなっちまうからさ。知らないままでいてくれよ!」
洋二は鎖を振るって、再びアクタに鉄球を叩きつけようとした。アクタはそれをギリギリのところで躱していく。
鎖は伸び切ったところで、マッチョは洋二の元へと走り込み、拳を振り翳した。
「うおおおおおおお!」
マッチョの拳が洋二に届く直前、彼は神器の持ち手部分でマッチョの拳をガードした。神器に触れたマッチョの拳から、煙のようなものが上がる。
「ぐおおおおおおおおおおお」
マッチョは地面に伏して苦しみの声を上げた。そんな彼のことを洋二は冷めた目で見下ろす。
「痛いよな。苦しいよな。だからさ、早く逝っちまえよ。生殺しじゃ辛いだろ」
「マッチョ!!」
アクタがマッチョの元へと駆け寄ろうとした。しかし、それは目の前に叩きつけられた鉄球により遮られてしまった。
「お前もだぞ。これ以上苦しむ必要はない。さっさと楽になれよ」
「いや、俺はまだ消える訳にはいかない。俺にはやらなければいけないことがあるんだ。だから、君のことはここで倒させておらうよ」
アクタは洋二に向かって指を指しながら言った。その勇ましい姿を見て、洋二は軽く笑う。
「ははっ、いいぜ。やれるものならやってみろ、涼夜」
アクタが洋二目掛けて走り込んでくる。洋二は、自分の横で縁を描くように鎖を振り回して、アクタに狙いを定める。
「そらよ!」
洋二から放られた鉄球を、アクタは空中に飛び、体を捻らせるようにして躱した。
「ちょこまかちょこまかと……」
そのまま着地して走ってくるアクタに、洋二は鎖を波打たせながら鉄球を引き戻して、彼の進路を妨害しようとした。それでも、アクタは軽やかにステップを踏んで鎖を避けながら、洋二の元へと走り込んでくる。そして、アクタはとうとう洋二の目の前までやってきた。
アクタが苦渋の表情をする洋二の目をまっすぐに見て拳を構えた。
「…………老けたな。洋二」
「お前……思いだ……」
アクタの拳は、目を見開いた洋二の頬に重く打ち込まれた。一瞬の衝撃を受け、洋二の首は横に九十度捻られた。
「そうか……だけどな……」
痛がる素振りも見せず、洋二はゆっくりと首を回して、アクタの方へ顔を向ける。その表情は全ての感情を押し殺したような真顔だった。
「向こうがガラ空きになってるぜ」
洋二の視線はアクタではなく、道路脇で座り込む女性の方にあった。それに気がついたアクタは急いで女性の方に向かって走り出す。
洋二は鎖を大きく振り翳した。




