#2 一〇三号室
レイは目の前に差し出された手を、少し驚いた様子で少しの間眺めていたが、それからすぐに目を逸らした。
「やっぱり君のことは信用できない。私一人で行く」
そう言ったレイは立ち上がってゆっくりと歩き始めた。
「ちょ……ちょっと! 待ってくださいよ。行く宛はあるんですか?」
美波は慌ててレイについて行った。
「少し行って見たいところがあるから、もうついて来なくていいよ」
目も合わせないで真っ直ぐにすたすたと歩いていくレイに、美波は説得するように話しかけた。
「行って見たいところってカフェ陰陽ですか? あそこなら今はもう誰もいませんよ。店主の春明は警察に捕まりました。まだ出所もしていないはずです。もしかしたらまだGHが近くをパトロールしているかもしれません。行くのは危険です」
「…………」
レイは何も答えずに歩き続けて廃墟から出た。美波はめげずに説得を続ける。
「どうしても行くって言うのなら私もついて行きます。一人で行くより幾分かはマシでしょう」
「君、うるさいよ。私一人で行くって言ってるでしょ。……しつこいと投げ飛ばすよ」
レイはむすっとした表情で足を速めた。
「私はあなたのことを心配して! ……第一、あなたはGHにカフェ陰陽を襲撃されてからの半年間、どこで何をしていたんですか」
レイは美波の言葉を聞いてピタリと足を止めた。そして美波の方へ顔を向けて問いかける。
「半年って言った?」
「……ええ、半年です」
「そっか、あれからもうそんなにも経ってたんだ。……私、どうしてあんなところにいたのかな」
レイが悔しそうな顔をして呟いた。
「私はこの半年の間、GHから逃げるように隠れながら生活していました。全く、達海のおかげで……あなたたちのおかげで私の人生めちゃくちゃです」
「勝手に私たちのせいにしないでよ。GHが達海を捕まえたりしなければこんなことにはならなかった」
「それはそうですけど! それでも、身を投げ出してやったことを全部無駄にしたくはないんです。無駄だったと思いたくはないんです。…………ごめんなさい、今のは私のわがままです」
美波は顔を俯かせた。自分は何を言っているのだろうと。
達海に牢屋の鍵を渡さなくても彼は殺されていたかもしれない。けれど、彼が脱獄していなければ、レイはGHによって狩られていたかもしれない。しかし、これらの事象はもしもの話でしかない。鍵を渡さなかったら達海も生きていたかもしれないし、自分がこんな苦しい生活をする必要もなかった可能性だってある。
結局、私は自分を正当化したいだけなのだと、美波は自分のことを酷く醜く感じた。それでも目の前にいる幽霊の少女を消失させるわけにはいかない。自分の思いを、そして何より、達海の思いを無駄にするわけにはいかないのだ。
レイは美波が何か葛藤している様子を見てため息を吐いた。
「はあ、仕方ないからGHに達海を助けに行った後、私が何をしていたのかだけ教えてあげる」
美波が少し嬉しそうにレイの方を見た。そんな美波を見てレイは再び小さくため息を吐く。そして、真顔で美波に向かって答えた。
「達海のことを殺したかもしれないやつを殺そうと思ったんだ」
「え……」
美波の顔は強張った。レイの手足には黒いモヤがまとわり続けている。
「達海が死んでから、自分の未練にしっかり向き合おうとも思ったんだ。でも、全然そんな気分にはなれなかった。日に日にGHのことが憎くなっていったよ。そんな時にさ、また私の前にGHが現れたんだ。……オクシラリーとか呼ばれてる部隊だっけ、前髪で目を隠した男が率いてた。あの日、達海を助けに行った時にも居た奴だった。コイツが達海を殺したかもしれない。その時思っちゃったんだ。『殺してしまおうか』って」
そう話すレイの顔は美波の目にとても不気味に映った。レイの言う、前髪で目を隠した男、きっと裕樹さんのことだろう。
「それで……どうしたんですか」
美波が恐る恐るレイに聞いた。
「それからよく覚えていないんだ。憎しみに飲み込まれる感覚っていうのかな。彼を殺すことしか考えられなくなってた。目の前が真っ暗になって。でも気がついたら君が目の前にいた。さっきの廃墟にいたんだよ」
そう言うとレイは再び歩き始めた。美波は一瞬立ち竦んだが、慌ててレイの後を追った。
美波は内心どうすれば良いのか、わからなくなっていた。まず、裕樹さんは無事なのだろうか。そして、レイはもはや悪霊なのではないか。このまま彼女を見過ごしていいのか、と。
「だから、そんな怯えながらついてこなくてもいいよ。君が私に付き合う必要なんてない」
「そ……それでも、私はあなたに!……」
「君、本当にしつこ……痛っ」
ドン、とレイに何かがぶつかった。
レイと美波がそのぶつかった何かに目を向けると、それは中学生くらいの男の子だった。
「痛てて……ごめんなさい。ぼうっとしていて」
男の子はそう言ってレイに向かってお辞儀をすると、スウっと歩き始めた。
「待って」
レイが男の子の腕を掴んだ。
「君、どこから来たか覚えてる?」
「……わからない。気がついたらこの辺りを歩き回っていたんだ。あれ、俺ってなんでこんなところにいるんだっけ? あれ、俺って誰だっけ……」
男の子は生気の無い顔でゆっくりと頭を傾げた。
「彼って……」
「幽霊だよ。しかも最近亡くなったばかりの」
確認を求める美波にレイは答えた。彼の身なりは学生にしては赫赫たるものだった。ブランド物の服装に金のブレスレット、指にはいくつもの指輪を嵌めている。どう見ても一般人ではないだろう。
「幽霊……あれ、俺って死んだのか。あれ……あれ……」
「怖がらなくていいよ。幽霊になると、生前の記憶は無くなってしまうんだ。今はまだ何もわからないかもしれないけれど、ちょっとしたきっかけできっと生前のことを思い出せるから」
レイは男の子に向かって優しく微笑みかけた。美波はその顔を見て、なんて美しく、そしてなんて悲しそうな顔なのだろうかと、そう思った。
レイは男の子に「困ったことがあったらここに来て」と何処かへの道を詳細に教え込んだ。
「それじゃあ、また会えたら」
「ありがとう、それじゃあねお姉ちゃん」
レイが男の子に別れの挨拶をすると、男の子は歩き出して行ってしまった。
「今、彼に教えていた場所って?」
美波がレイに問いかける。
「私の寝床だよ。帰る場所がなくなってからは、しばらくそこで体を休めていたんだ」
レイは静かに答えると再び進み始めた。
「そうなんだ……ねえ、今からそこに行くんですか?」
「違う。ねえ、まだついてくるの? …………だったらちょっと頼まれてくれない?」
レイはいつまでもついてくる美玲に、ジトっとした目を向けながら言った。
「ここって……?」
「達海が住んでいた場所」
レイと美波は、『ハートコア』という二階建てのアパートの前まで来ていた。
「ちょっと、勝手に中に入ろうとしてる?」
そう言って美波が眉を顰める。
「最後に確認したいだけ。人がいなかったら勝手に入ろうと思ってたけど……」
レイが一〇三号室に目を向けると、中は明かりがついているようだった。どうやら誰か人がいるらしい。
「ねえ君、インターホン鳴らしてみてくれない?」
「え? 達海はもうここにはいないんですよ。きっともう別の誰かが住んでるはずです」
「それでもいいから」
「えぇー……」
美波は渋々ドアの前まで行くと、インターホンに手を伸ばした。レイは美波のすぐ後ろで背後霊のように待機している。
ピンポーン
「はーい」
中から若い男の声が聞こえてきた。玄関の扉が開かれる。
ドアの隙間からは金髪で細身な白衣姿の男が現れた。
「どちら様かな?」
白衣の男はおかっぱの髪を揺らしながら、きょとんとした顔で美波を見つめてくる。
「あ、えーと……」
美波は横目でレイを確認すると、彼女は顔を下に向けて突然走り去ってしまった。
「あっ! えっと……すみません! 間違えました!」
美波は白衣の男に慌てふためきながらお辞儀をすると、レイを追いかけた。
「ちょっと! 待ってください、レイ!」
美波がレイに追いつくと彼女は目を擦りながら立ち止まった。
「わかってた! わかってたけど! ……あの部屋はもう達海の部屋じゃなかった! 達海はもういないんだって!!」
「あ……」
レイは泣いていた。実体のない涙がポロポロと落ちては地面に弾けて消えていった。
美波はそんなレイの姿を見て、とても衝撃を受けた。今まで深く考えずに除霊してきた幽霊が、私たちと同じように悲しんでいる。元は生きた人間だから当たり前のことなのだけど、どうしてそんな当たり前のことに気が付かなかったのだろう。美波は胸を締め付けられる様な感覚に襲われた。
「……それで、目的は済みましたか?」
「うん……やっと実感が持てた。これで前に進める」
美波が目を伏せながら問いかけると、レイは涙の止まった目を擦り上げた。どうやら彼女なりに踏ん切りがついたのだろう。
「それで、これからどうするんですか?」
「今日はとりあえず、寝床に帰る。それからは、昔と同じ。他の幽霊と助け合いながら成仏するための手がかりを探そうと思うよ。……あとは、春明たちにも会いたいなぁ」
レイは目を細めながら天を見上げた。澄み渡った空にはオリオン座が美しく光り輝いている。
「私も協力させてもらいますからね。助け合いです!」
「もう……好きにすればいいよ」
星々が輝く空の下、彼女たちは歩き出した。
「……誰か来たんですか?」
ハートコアの一〇三号室にて、白衣の男が同居人に声をかけられる。
「うん? ……ああ、何やら可愛らしいお嬢さん方がいらしたんだけどね。どうやら間違いだったようだ」
白衣の男がしゃがみ込むと、ごそごそとそこに置いてあったカメラなどの機材を準備していく。
「それじゃあ、撮影を始めようか! 相棒」
白衣の男は、気持ちの悪いリアルな魚のお面を片手に、ニヤリとしてみせた。