第一話 訪れし者
初投稿です。色々不慣れですがよろしくお願いします。
エイディの朝は早い。
部屋に差し込む陽の光で目覚め、藁布団とシーツを整える。石畳の床をざりざりと移動し、物置きの一角から箒と塵取りを取ってきて、部屋中を掃いていく。寝床、厨房、師匠の研究室と、順番に埃を叩きごみを集め、師匠の研究室にある隔離陣の結界を一部解いて、窓からゴミを捨てる。
親指の爪ほど集まった塵たちは乾いた風に煽られ、目の前に広がる砂漠に消えていった。
太陽の光を集めたような黄金色のエイディの短髪が、結界から吹いた風に揺られ輝く。褐色の肌に浮かぶそばかすは、砂漠の波にきらめく陽の光を思わせた。
勝気そうなサンストーンの瞳が広大な砂漠の海を見つめる。
エイディはこの斜塔から出たことがない。
物心ついたときから師匠である魔導師パルヴァネルの元で学び、時に喧嘩をし、こき使われながら十一年間生きてきた。
この砂漠の向こうにはどんな景色が広がっているのだろう。
遠く砂の海を超えた先の世界をエイディは想像する。空を駆ける竜、虹の先に浮く空島、森の奥に聳える千年樹 ...
未知の世界を旅する自分を夢見た。
塔には、師匠が世界中から集めた書物が納められている。エイディは塔外の知識を、専らそれらの書物から得ていた。たまに師匠の記憶も覗かせてもらうのがエイディの楽しみの一つだ。
塔外の世界はエイディにとって、恐ろしくも憧れの存在なのだった。
「エイディが十二歳の誕生日を迎えたら、塔の外へ連れてってやるよ。」
これは師匠の口癖だ。エイディが塔外へ興味を示すと、必ずといって良いほどそう言い聞かせた。そういう契約なのだと。
明日、エイディは十二歳の誕生日を迎える。
師匠はまだ帰って来ない。
エイディの寝起きする生活階層は瞬く間に塵ひとつなく綺麗になった。
(一人ぼっちの石造りのこの巨大な斜塔に、毎日、これほどの入念な掃除が必要なのだろうか)
そんな疑問がごく稀にエイディの頭を過る。
しかしこれは、彼女が師匠から課せられた日々の義務なのだった。
「師匠...ちゃんとご飯食べてんのかな」
師匠は八歳にも満たない幼女のような姿形をしている。
童話に出てくる妖精のように美しい彼女の容貌は、エイディが出会った時から変わらない。
ものぐさなくせに弟子には厳しく、でもたまにまつ毛の先ほどは優しい師匠。ふらりと帰ってきたと思ったら、何日も研究室に篭って、何やら大掛かりな術式の設計をしていたり、かと思えば斜塔の石版の解読に勤しんだり。
そしてほんの気まぐれに、エイディの世話を焼いてくれる。
放蕩な彼女が今どこにいるのか、何をしているのか、エイディには分からない。
研究室にある暦帳によれば、一年前の今ごろからずっと帰っていないようだ。
暦帳の日付に丸を記し、溜息をついた。
先程開いた隔離陣の結界を閉じて、掃除道具も片付ける。
階層をいくつか降りて、滑車を動かした。
砂漠に埋もれたこの斜塔だが、塔の構築結界が崩壊時に機能していたようで、塔の真下にある地下水路までの螺旋階段は何とか使える状態だった。
水を汲むたびに、地下まで何重もある螺旋階段を行き来しなければならない重労働をお師匠が行うはずも無く、地下への入り口に滑車が取り付けられた。
桶いっぱいに水を汲み、厨房の壁に固定する。床が斜めなのでそのまま置くと溢れてしまうのだ。
濡れ布巾で顔を拭き、朝食のカチカチなパンを取ろうと魔法棚に手を伸ばしたところで、塔の結界が開かれたのを感じた。
「...誰?」
馴染みの無い気配に体が僅かに強張る。
いや、結界を開いたのは間違いなく師匠の魔力だ。しかし、もう一人、全く覚えのない魔力の波動がある。
師匠が他人をこの塔に引き入れたことは無かった。
少なくとも、エイディが彼女と出会った、十一年前から今までは。
出入り口のある階層へ向かうと、そこにはローブを目深に被った見知らぬ人影があった。
腕には大きな荷物を抱えている。
いや、あれは荷物ではない。何か大きな─────
エイディが状況を理解する間もなく、ローブの人物が口を開いた。
「ああ、君がエイディか。急な訪問になった。
私はサンドリア大陸魔術協会の第一級魔導士、カームザールだ。神聖アルハミア帝国とセレスティアード海洋国との謀略に巻き込まれ、君の師匠───大魔導師パルヴァネルが斃れた。」
ローブの奥から聞こえてきたのは、よく響く玲瓏とした男の声だった。鐘の音のような明朗な響きだ。しかしエイディは、その美しい声を全くもって理解することができなかった。
男が顔を上げる。真っ直ぐに通る鼻筋に乗った金縁の片眼鏡が、昇ってきた太陽をきらりと反射した。
花の蜜をたっぷりと煮立てたような艶やかな琥珀の瞳が、エイディを射抜いた。
「現在、彼女の死を知るものは私と君だけだ。
しかし、事が公になるのも時間の問題だろう。
だが、この時期にパルヴァネル様の死が大陸に広まるのは非常にまずい。
彼女は王国の軍事兵器として非常に抑止力があった。
このままではせっかく平定路線にあったセレスティアード海洋国の革命派が活気付いてしまう。
そこでだ。」
エイディが放心している間も、彼は祝詞のように言葉を吐き続ける。
「君には、これから大魔導師パルヴァネルに成り変わり、サンドリア大陸の平和のために尽力してもらう」
カームザールと名乗った目の前の人間の言う事が、ぐわんぐわんとエイディの脳を揺らす。
魔術協会?
帝国と海洋国の謀略?
軍事兵器?
「師匠が...死んだ?」
「ああ。その通りだ。お前は私の腕にあるものが見えていないのか?」
凍りついたように彼女の腕を見た。カームザールが抱えていた荷物とは、つまり───
「師匠!?」
エイディの言葉には応えず、カームザールはその骸を静かに横たえた。
巨大な布の塊に見えたそれは、少女を包むローブだった。
青白く痩けたその幼い顔は、師匠のものとよく似ていた。
しかし、目の前のその光景が現実のものとは、エイディには到底思えなかった。
「時間が無い。彼女の遺言書によれば、死後半日以内に全ての契約を譲渡し、魔呪具の権限を移さねばならない。
彼女の第十三番弟子である、エイディ・ラーズィン。お前にだ。」
そう言うと、カームザールはおもむろに銀のナイフを師匠の胸に突き立てようとした。
「何するんだ!?」
咄嗟に師匠の身体に防御陣を展開する。
ナイフの切先と防御陣が拮抗し、魔力が大きく爆ぜた。
「師匠が!殺されて!?私が師匠の代わりになれだって!?冗談じゃない!」
カームザールが大きく吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。
目深に被っていたローブがバサリと落ち、月の無い闇夜の如く黒髪があらわになった。
「...クソガキ」
ボソリと吐き捨てた男と目が合う。エイディはそこで初めて、彼の琥珀の目に深い怒りが宿っていることに気が付いた。
「いいか、これは決定事項だ。偉大なる大魔導師の後任として、お前のようなどこの馬の骨とも分からない、ションベン垂れ流しのクソガキが選ばれたんだ。
数多の優秀な魔導士を、第二番弟子のこの私を差し置いてな!」
そう言うと、男は目にも止まらぬ速さでナイフをエイディに向け、唱えた。
「"捕えよ"!」
気がつけば、エイディは拘束魔術で雁字搦めにされ、師匠の横に転がされた。
「手の掛かる...」
男は再び師匠に向き直り、今度こそ鈍色に光るナイフを彼女の胸に突き立てた。
師匠の身体を切り開いたように見えたそれは、微かに揺らめいて彼女の肉体に溶け込んだ。
刹那、彼女の中心から眩い光と共に魔法陣が展開された。
限りなく白に近い、銀砂をまいたような輝かしい光...
師匠の魔色だ。エイディも見たことの無い、複雑で入り組んだ美しい陣だった。
凄まじい魔力だ。塔が彼女の魔力に呼応し、びりびりと振動している。
「師匠から、手をっ...」
離せ、と叫ぼうとした瞬間、エイディの頭に割れるような痛みが走った。何かとてつもなく強大で、膨大な力が頭の中に流れ込んでくる。
キィン...と耳の奥で不愉快な音が鳴った。
エイディは必死になって意識を繋ぎ止める。男は師匠の身体から放たれる尋常ではない魔力に抗い、その胸にナイフを留めていた。
拘束を解き、師匠を助けなければ。
巨大な鉄の球に脳天を押し潰される痛みに耐えながら、エイディは師匠に向かって手を伸ばそうと足掻いた。
その時、一際眩い光が、彼女の身体を越え塔全体を明るく包み込んだ。