リコリスを贈る
* ガイドラインに准じ、作品の中で使用している言葉からR15とさせていただきました。
性的、または暴力的な文章表現はありませんが、気になる方は閲覧を避けて下さるようお願いいたします。
「結婚しないの?」「誰か良い人いないの?」
職場の休憩中であったり、身内の集まりであったり、あるいは久しぶりに会う人達から、いつまでも独身でいる私に投げかけられる、お決まりの台詞。他に話題は無いのかと言いたくなるくらい、毎回ウンザリとした気分にさせられる。それに加えて言ってくる人は大抵、既婚者か年長者と相場が決まっているから、そういう内容の質問をすることに躊躇いがない。話題にしたくないのだと察して欲しいとも思うけれど、私の事情を話してもいないのに分かってくれというのは、過度な期待というものだろう。
付き合っている人なんていないし、結婚も考えていない。そうきっぱりと言えればいいのだけれど、相手が厚意で言ってくれているのも分かるから、当たり障りなく「ご縁があれば」と返すしかなくて、同じ話題が時間を置いて繰り返される。その度に「面倒くさい、放っておいてよ」と思うけれど、本音は隠しておくのが人付き合いに必要な建前というもの。それに、私が結婚しないことについて深く話さないのは、その理由を誰にも言いたくないし、言う気がないから有耶無耶に誤魔化しているという私側の都合があるから、仕方ないと諦めてもいる。
この手の話題を振られて苦手に思うのは、何も私に限った話ではないだろう。ある程度の年齢で独身の人にとっては付いて回る問題なのではないだろうか。結婚は相手が必要なこと。出会いが無いとか、交際相手によっては結婚を考えるのが難しい場合もあるだろう。金銭的な問題で結婚を諦めていたり、本人を取り巻く状況が許さなかったり、答えに窮する事情が人それぞれにあるだろうことも想像に難くない。そういう私にも、答えに困る以上に本音を言えない事情があった。
私はおそらく女性だ。
性自認という言葉が世間一般に広まり共通認識されるようになって、自分の性別を正しく表現する言葉が様々になり、アイデンティティを示す一つの手段が「性別」になっている時代。LGBTQは今や何を示す頭文字かも知られているくらい、常識の範囲内にある言葉ではないだろうか。そういった人たちの存在が広く認知され、世に受け入れられ始めているように思う。私も言葉の意味を知るようになって、どんな状態が性的マイノリティにあたるのかを多少は分かるようになったが、その中においても私は自分の性別を、確信を持って言うことが出来ないでいる。
アンケートや書類に記載する性別の欄に、男性・女性を選ぶ項目がある。最近は「答えない」といった第三の選択肢が日本でも見られるようになったけれど、性的マイノリティでなければ悩む必要のない選択肢なのだろう。私はいつも「女性」に丸を付けるけれど、記入する前のほんの一瞬、未だに毎回自問してしまう。本当に私の性別は女性でいいのか、と。
たぶん私は男性が恋愛対象だ。断言できないのは、誰とも付き合ったことがないから。でも、好きだと思う相手は男性だし、女性にはそのような感情を抱いたことがないから、マセクシャルと言っていいだろう。外見上の肉体的特徴は女性だし、戸籍の上でも社会的にも女性と認められている。その上で異性である男性を好きだと言うならば、何も問題なんてないでしょう、と思われるかもしれない。
それは表面的なことで、私には決して誰にも、───特に、両親には言えない身体的な特徴がある。
───膣と陰茎、その両方を持っているという事。
私が書類上「女性」に丸をしても問題なく受け入れられ、周りからも女性だと認識されているのは、外見からは奇形があることが分からないから。生まれた時も、公衆浴場で女湯に入る時も、私が抱える問題に気が付いた人は今までに誰一人いない。私自身でさえ、気付いたのは思春期に入ってからだった。
きっかけは中学生の時、自分の膣の中につるつるとした丸みのある2、3㎝大の突起があり、それが自分の指に触れたこと。
初めからそれが陰茎だと分かったわけではない。直接見たわけではないし、どんな形状が正常な性器なのかなんて知りようが無かったから。他の女性の膣には無い物なのか、あるのが異常なことなのか、当時は誰かと比べることも出来なかったし知識も無かった。
それが確信に変わったのは、高校で生物の教師から「両性具有」という言葉を聞いた時だった。それに対して色めき立つ生徒相手に「隣にいる人がそれで悩んでたら、どうするの」と諌めていたことも覚えている。その言葉を聞いて、何が繋がったのかは自分でもよく分からないけれど、自身の体にあった「あの部分」が頭に浮かんだ。そしてそれが、私はその「悩める隣の人間」だと気付いた瞬間だった。
それからは確認作業のように自分の体を観察した。
膣の中を探った時に触れるつるつるとした丸い突起は、形状からして亀頭に違いない。尿道口のような穴も存在する。その奥に陰茎が数㎝続いていて、膣の壁から生えてきているような状態になっている。性的に興奮すると、下腹部の内部に外から触って分かる程に固くなる部位があって、それは膣の中の陰茎の反応とも連動している。要するに男性器の反応と同じだ。でも、見た目に睾丸があるわけではないから、射精のような現象はない。
昔からあまり自分の体を対して気に掛けていなかったから、大きな問題とも思っていなかったけれど、……というよりは、そこまで深く考えていなかっただけで、周期が分からず突然始まる生理に困ってはいたのだけれど、影響を与えるような極端な痩せ型でもないのに生理の周期が不順なのは、私が一般的な女性ではない証拠のように思えた。
私の状態を言葉で表現するなら、大きな括りではインターセックスという分類に入るのだと思う。診断名が無いから確実ではないが。LGBTQが一般的な言葉になったとはいえ、そこに続く言葉を知っている人がどれほどいるだろうか。Qの後にはいくつかの頭文字が続き、その中の「I」が「インターセックス」にあたる。専門家ではないし、診断を受けていない私が詳しい解説をするつもりはないが、「身体的な性別が一般的な男性・女性の中間、もしくはどちらとも一致しない状態」をインターセックスと言う。それを両性具有や半陰陽、医学的に性分化疾患、DSDと言うこともあるが、詳細で専門的なことを知りたいならば、自分で調べることをお勧めする。とはいえ、今はたくさんの言葉があって、自分の性別が何に該当するのか調べることさえも簡便なようで面倒。たくさんありすぎて、もはや分類する必要があるのかさえも疑問に思うところだ。でも、自分が何者か分からない状態は不安でストレスだし、帰属意識が働いてどこかに属していることで安心したいと思うならば、言葉による定義は必要なのだろう。
それぞれの人がそれぞれの人生を生きているのだから、まったく同じ言葉で分類しても同じ人間にはなり得ない。そう知っていても、自分が何者なのかを表す記号が必要な時もある。アイデンティティなんて、考えれば考えるほど「自分」を定義することが難しいと気付くだけだ。定義しようなんて思わなければ、自分は自分だと簡単に割り切れるのに。私は私、と割り切ることも、それなりに難しい事なのかもしれないけれど。
ともかく、インターセックス───性分化疾患であると確定するための検査や医師の診察を、私は自分の判断で受けていない。私にとって自分の性腺や染色体が何であるか調べたり、診断名を確定させたりすることに意味を見出せなかったから。医師とはいえ、知らない誰かに自分の体を調べられるのも、私自身を「珍しい症例」にされるのも嫌だったし、人に見せること自体がただ怖かったようにも思う。別に生活することに支障はなかったから、治療が必要なものではないだろうと自分を納得させていた部分もある。
もちろん、もしかしたら私の体は普通じゃないかもしれないと気付いた時はショックを受けたし、異常はないと確かめて安心したいと思ったこともある。このおかしな部分を切除してしまうことが出来れば、問題そのものが消えて無くなるのかもしれないと、そう考えなかったわけじゃない。
でも結局、体がどうであれ、それも含めて私は私でしかないという考えに行き付いた。
そこに至るまでには、たくさんの時間がかかった、……と思う。今ではよく覚えていない。問題の解決の仕方が分からなかったから、深く考えることも、誰かに相談するという事も後回しにしているうちに時間が経って、ただ受け入れることにしたような気もする。はっきりと、いつの時点で受け入れたというよりは、徐々に徐々に、自分を納得させていったような気もする。
そもそも、「受け入れた」「納得させた」というのは振り返っている今だから言える言葉で、当時は自分に「折り合いを付ける」ということばかり考えていた。他人に気取られず迷惑を掛けないように、この体で平穏に生きていくにはどうすればいいのか。奇形を持つこの体で生きていくことの問題、この先私以外の誰かと共有するつもりのない秘密を抱えて生きること、おそらく誰とも深く関わることのない人生について。社会的にも性自認においても女性だけど、身体的に女性だとはっきり言えないという事そのものについて。全てに対して「折り合いを付けなきゃ」と、そう考えていたことを思い出す。
諦める、という言葉とは違って、折り合いを付けるというのはもう少し前向きな意味だと考えている。自分の現状を受け止めたうえで、何が出来て何が出来ないかを冷静に考え、自分という存在はそういうものだと割り切る。生きること全てに何かしら制限を受けるわけでもないのだから、自分一人の秘密として持ち続けるだけなら何の障害にもならない。それが私にとって「折り合いを付ける」ということだった。
経緯はいずれにしろ、今でも「私は私」というその考えは変わらない。一生涯、誰かと付き合ったり結婚したり、子どもを産むということはないと思うが、別にそれはこの体でなくても起こりうることだろうし、そうしたことに悩むのは世の常と知っている。だから、私が悩む必要のない事なんじゃないかと開き直って、脇に避けて生きている。それも折り合いを付けたことの内だ。子どもを産むのに適した年齢を過ぎれば、周りからはいずれ言われることもなくなるだろう。
ただ、ずっと独りであることを両親が心配していることも知っている。私自身は覚悟していることだから大きな問題だと思っていないが、特に二人に対しては理由を言えない私にとって、心配させていること自体が辛い所だった。安心してもらえる言い訳は、今のところない。そもそも誰かと交際していたことを話したことが無いから、私に対してどんな風に思っているのかも分からない。普段の会話から、LGBTQに対する偏見は無いようだが、そもそも私の抱える問題とは主軸が異なるから、そこに対する理解があったところで解決することではない。私から自分の恋愛や結婚観について話題を振ることは絶対にないから、二人から何か言われない限りはこのまま口を噤んでいるしかないだろう。とはいえ、私が自分の状態や境遇を悲観していないから、無用な心配はさせていないはず、……と思いたい。結婚して孫の顔を見せるのが親孝行と言う人もいるが、その役割は兄弟が担ってくれているし、私は私なりに孝行しているつもりだ。こなせない役割を背負うことは出来ない。それもまた、私が折り合いを付けたことで、両親には諦めてもらう他ない仕方のない事だろう。
私が誰とも付き合ったことが無いのは、早い段階で自分で自身の奇形に気付き、両性具有だと知ったからこそ。誰かと交際することは相手に知られることだと分かっていたし、相手が誰であれ知られたくないと思ったからだ。もちろん、人並みに告白されたことはある。でも高校の時に同級生の男の子に「好きです、付き合って下さい」と言われてまず初めに考えたのは、「嬉しい」とか「ドキドキする」とかではなくて、「どうやって断ろう」ということだった。だって付き合うということは、その人と私の秘密を共有することと同義。誰とも共有するつもりがない、共有しないと決めた私にとっては、誰かと付き合うなんて有り得ないこと。人に好かれて嬉しい気持ちはもちろんあるけれど、それ以上に自分の秘密を守ることの方が私にとっては重要だった。
性的な好奇心は、家でたまたま見てしまったアダルトビデオの影響で小学生の頃からあった。それに関しては、おそらく、というより間違いなく家族の持ち物だったから、子どもが見るかもしれない場所に置いたままにした大人に責任があると言いたい。もちろん、大切な場所はモザイクで隠されていたから映像として性器の正確な形を見ることは無かったし、それがセックスであり、どんな行為なのかということを具体的に知ることも無かったけれど。ただ、映像の中の「気持ちいい」という言葉に興味を引かれて、自分の体で確かめたいと考えたのは覚えている。実際に気持ちいいと感じることは無かったし、膣の存在を知らなかったから、そこに穴が開いていること自体を知らないままに終わった興味。それが知識を伴ったのは中学生の時に保健体育の授業を受けてからだった。そこに膣という器官があると知り、自分の指を入れて確かめてみたことで奇形に気付くことに繋がった。
私が思春期にこの体について自分自身で気付いたことは、ある意味で幸運だったと思っている。場所が場所だけに、自身ではなく交際相手が見つける可能性だってあったはずだ。好きになった人が本人である私よりも先に、最初に知ることになる状況なんて、想像するだけでも怖い。私自身の選択と相手の同意が無い状態で、知る必要のない秘密を背負わせるのは、好きな人であればなおのこと深く大きな罪悪感に苛まれるはずだ。そうならなくて良かったと思うと同時に、もしそうなっていたら私はどうしただろうと考える。そして───、そんな状況を経験した人が、もしかしたら居るのかもしれない。……そう想像せずにいられない。
もしかしたら、長い人生の中でいずれは打ち明けても良いと思える存在と出会うことがあるかもしれない。いつか私にも秘密を共有する人が現れる可能性はゼロではないだろう。そんな存在が現れることを望んでいるというわけでもないが、インターセックスの中には打ち明けられるパートナーが居る人も間違いなく存在するだろう。それはそれぞれの境遇や経験や考え、パートナーとの関係性を含めて判断されることで、インターセックスだからと言って私のような生き方が全てではない。どちらが幸せでどちらが不幸ということもないし、何ならそれを決めるのは自分自身で、インターセックスであるかどうかは関係のない事だ。私の場合で考えれば、衣食住に過不足はないし、自分が不幸だと思うような要素は思いつく限り何もない。小さな不満や不安を感じることはあっても、不幸だと思い詰めるほどの現実はない。打ち明けられる存在がいないことを悲観することはないし、自分だけの秘密にすると決めたことを、今の時点では最良だと思っている。身体的な奇形は私の全てではなく、私を構成する要素のほんの一部に過ぎない事を知っている。幸不幸の基準も、どんな選択をして生きるのかも、人それぞれであって当然だ。
私が自分の体の奇形を開き直って受け入れられたのは、自分の境遇にも理由があるように思う。
私が生まれる前に、母親の胎内で死んだ兄がいた。綺麗な死に顔だったと、まるで仏様のようだったと、祖母がよく話してくれたけれど、死産だった兄は私の体の一部になって産まれたのだと、奇形を持つ私の体について納得させてくれる存在でもあった。
私は、死んだ兄の魂と一緒に生きている。いつも何となく幸運なのも、大きな怪我や病気をすることなく過ごせているのも、魂二つ分を持って生きているからだと思っている。本気でそう信じ込んでいるわけでもないが、心の中で兄に願ったり感謝したりする習慣が子どもの頃はあったから、小さい頃の方が今よりもその存在を身近に感じていたことは確かだ。
体にある奇形も兄との繋がりの一つだと考えているところがあって、割と嫌悪なく受け入れられているのはそれが理由の一つに違いない。誰かに言えば笑われるか心配されると分かるくらいには現実的に捉えている部分と、馬鹿みたいなことを真剣に信じる自分がいて、そうした微妙なバランスで「私」は成り立っている。そういう意味では、兄の存在だけでなく、この楽観的な性格が開き直って今を生きていられる要因に違いない。
楽観的な性格の良い所は、悩みが無い事ではなく、悩むことを無駄だと切り替えられるところにあると思っている。悩んでも解決しないことに対しては、意識しなくても、寝て起きたら忘れるようにしている。解決すべきことを放置したりはしないが、たまに面倒だと思うと後回しにすることがある。いずれ優先順位が上がって面と向かわなければならなくなって、それでも解決できない、悩むだけ無駄だと判断したことは忘れるに限る。
私は大抵、自分の中で完結させてしまうことが多いから、誰かに相談する習慣がない。抱えた問題を、解決できることか、悩むだけ無駄なことかのどちらかに仕分けてしまうから。奇形については、そもそも相談するつもりのない折り合いを付けた事だから、別問題ではあるけれど。
思えば、昔から友人の悩みを聞きはしても、自分の悩みを相談したことはない。小学生の頃まで振り返っても、そうした記憶には行きつかなかった。そういう役回りだったこともあるのだろうけど、全てのことで大して悩んでいなかったのが一番の理由だと思う。誰かに自分のことを話す習慣がないのは、幼い頃からの積み重ねに違いなかった。そう考えると、私という人間が周囲の人にはとても秘密主義な人間に見えていたことだろう。実際のところはただ中身のない、底の浅い経験しかしてこなかっただけで、悩む必要も無いような人生だっただけとも言える。協調性が無いと指摘された事は無いから、人間関係に問題を生じるようなほどではないと思うが、もしかしたら私は、少しだけ社会性に難があるかもしれない。
そういう自分の特徴に向き合わなければならない瞬間があったことを、今でもよく覚えている。社会人になってすぐの頃、報連相を教え込まれた時。ある程度職場の一日の流れが分かってくると、自分に課された業務をこなす為に効率の良い動線、順序を考えて実践するようになった。自分ではそのつもりで、他の人の負担にならないように動いていたけれど、上司から「いつもどこにいるか分からない。自分の居場所を報告して」と指摘されたことがあった。チームワークが基本の仕事だから、そう言われることは当然なのだけど、当時の私はちょっとした衝撃を受けた。効率的に自分の判断で動くのが当然で、報連相が不足していたなんて思っていなかったから。
もしかしたら私の考え方は独りよがりで、社会性に乏しいのではないか。そう考えるようになったのは、このことがきっかけだった。それでも、ここでのやり方をこれから学べばいいのだと直ぐに切り替えていたし、衝撃は受けたものの大きな悩みには繋がらなかった。周りの人の立ち回り方をよく観察するようになったのも、この時からだ。相談とも言えない小さなことでも周りの同僚に話して、そのやり方でいいか確認を取る。席を離れて人のいない場所に行くときは、予め誰かに言い残していく。自分の中で不要と思ってきた事も、それが会社に求められているコミュニケーションだと考えを改めて、実践するようになった。
私が周囲の人に対してオープンに何でも話すようになったのは、そうした経験を経てから。それでもインターセックスについての話題は別問題だし、業務上の相談はしても個人的な相談をすることは無い。どんなに親しくなって相手の悩みを聞くようになっても、そこだけは変わらなかった。つまり私は秘密主義のままだったし、相談するほどの悩みを抱える経験をすることが無いままだった。そこで気付いたことがある。一つは、誰にも深く関わることのない人生は、悩みを抱える必要も無い人生だということ。そしてもう一つは、私が大して悩みが無い、もしくは寝て忘れる程度の悩みしか無いのは、インターセックスだと気付く前、───他人と深く関わらないと決める前からのことで、元々の私の性格ゆえだったということ。インターセックスであることが私の人生に与える影響は、ごく一部に過ぎない問題で、やっぱり「私は私」だった。
社会人になってから知ったことの中には、性器に関することも含まれる。おそらく私は、普通に生活する人よりも多くの他人の性器を見る機会があった。教科書的には正常で一般的な性器の形というものが描かれているが、人の外見が異なるように、性器の形も千差万別。もしかしたら本人が知らないだけで、調べれば医学的に「異常」と診断される人が中にはいるのかもしれない。それくらい、人の性器の形に正解は無いように見えた。そうすると、私の奇形でさえその千差万別の中に含まれるもので、別に特別なものでもないのかもしれない。知ることで気が楽になったのは、この奇形に関しては初めてだったと思う。
「性別はグラデーション」
私が好きで見ているテレビ番組で言われていた言葉だ。自分の経験に照らしてもそれが真実だと知っているし、辿り着いた答えとも合致していて心から納得できた。改めて自分の体について認めることが出来た学者の知見。この人生を生きていくのは、他でもない私自身なのだから、誰かに認めてもらう事よりも自分自身が認めることの方が大切だ。その為の知識と経験は必要だと思う。
私が自身を幸運だと思うのは、こうした自分にとって必要な経験を得るための道に、周りの人の助力で導かれていると感じることが多々あるからだ。職業の選択も、その先の知識を得る術も、私一人だけで決めてきたわけではない。将来の夢なんて、園児の時にお花屋さんと書いていたのが最後で、学生の頃は具体的な将来像も無かった。とりあえず進学すればいい、と決めることを先延ばしにしていた。その先で今の職に就いたのは、半分以上は周囲の人から助言を受け、勧められたことが一番の理由だった。導かれていると言えば聞こえは良いが、流されて生きているとも言える。それが別に悪い事ではないと思うし、結果、今のところ良い人生を送れているのだから、進んだ先でどう生きるかの方が重要ということなのだろう。それもまた、大きな意味では私の選択に違いない。
「私は私」という考え方は、体に奇形があろうと、どんな選択をして生きようと、変わらない軸となっている。一方でそれは、私の中にしかない「私」だということも知っている。昔、「私」には何人かの「私」がいる事を学んだ記憶がある。私が思う私、鏡で見る私、家族のような親しい人が知る私、他人が見る私、社会的な私……もっといた様な気もするけれど、ともかく、「私」は思い浮かべる人によって様々に存在するということ。どれも私であって、同じ私ではない。おそらく、今こうして振り返っている私は当時の私と違うし、何なら、文章にしている時点で、思考や感情の全てを表現できていないと分かっているから、別の私に違いない。
さて、ここで読者に問いたいことがある。
「私」は、実在するのか否か。
この話がフィクションなのかノンフィクションであるのか、あえて定義していない。
例えばノンフィクションであったとして。これがきまぐれ猫という筆者個人の自伝、もしくは誰かの半生を描いたものだとしても、「きまぐれ猫」というフィルターを通して表現されたこの物語は、すでにフィクションになっているのではないかと思う。「私」が「きまぐれ猫」であって、過去の経験を書いていたとしても、その詳細を正確には覚えていないし、起きたことを表現する言葉は全て、きまぐれ猫の知り得る言葉でしか表せない。言葉の意味は辞書で定義されているかもしれないけれど、読んで得た文章に対するイメージは、それぞれの読者の経験にも左右されているはずだ。つまり、読んでいる人の数だけこの物語はフィクション化され、ノンフィクションにはなり得ない。そう思う。
私に起きたこと、ここに書かれた全ては、きまぐれ猫が書いた以上のことを誰も知りようがない。それでも、読んだ人それぞれの中に人物像が出来ていることだろう。きまぐれ猫にも分からない、読者だけの「私」が。
だからこそ考えて欲しい。
誰もが自分の隣にいる人、更には自分自身のことでさえ、本当のことは知らないという事を。私は少しだけ、他人が知らない私のことを知っている。そして隣にいる人にもそうした秘密があるかもしれないことを知っている。それをすべて暴くことに意味はない。だって、自分でも気付いていないかもしれないのだから。
だから想像して欲しい。
皆それぞれの人生を生きていて、その違いを尊重するという事の意味を。私が誰にも言わないと決めた秘密をここで書いた意味は、そこに集約されている。
考えて欲しい。
誰もが誰かと人生を取り換えて別の人生を生きることは出来ない。私が奇形を抱え、折り合いを付けて生きているように、苦しい現実から逃げることも出来ずに生きている人、本当の自分を隠していくことを選ばざるを得ない人のことを。
誰か一人でも、その意味を考えて、想像することをしてくれたならば、この物語が生まれてきた意味が出来る、そう思うのだ。