5.蝋燭の灯り
溶けた蝋が燭台に滑り落ち、室内を照らす灯りを揺らした。
クリスティアナは無言になっていた。
ジリアンもしばらくのあいだ沈黙して見守っていたが、クリスティアナが何も言わなくなったのを認めると、立ち上がって背を向けかけた。
「お着替えをお持ちいたします。明日は長距離の移動となりますので、少しでもお休みになりますように」
疲れきった気分の中で、クリスティアナはふと疑問を抱いた。
「ジリアン、……あなたも一緒に行くの?」
「そう申し上げましたが」
「あなたは……反対しなかったの? いくらお義母さまのご命令だとしても……」
自分の見る限り、義母がもっとも信頼しているのがジリアンだ。こんな無謀な計画の実行を任せていることからもわかる。
常に冷静で目端も利き、女官仲間はもちろん、王であるジェロームからも一目を置かれていた。義母がこの企てを思いついた時、ジリアンは諫めようとしなかったのだろうか。
「――わたしは、王妃陛下がこちらに嫁いでいらした時から、お仕えして参りました」
ジリアンは立ち去りかけた姿勢のまま、目線だけクリスティアナに戻して答えた。
クリスティアナもそれは聞いている。
王妃イザドラが隣国の王家から嫁いできた際、付き従ってきた女官の頭がジリアンだったと。
「イザドラさまが王妃になられた時、宮廷ではまだ、ヘンリエッタ・アリソン嬢の評判で持ちきりでした」
ヘンリエッタ・アリソン。母の名前だ。
宮廷女官だったクリスティアナの母は、現国王ジェロームが王妃を迎える前に子を宿し、産後すぐに命を落としたと聞いた。断絶した貴族の係累で、身よりはないが出自は決して低くなく、ジェロームが王位につく以前からすでに、たぐいまれな美貌と教養で人の噂に上っていたという。
「異国から嫁いでこられたばかりの、心細い日々の中、イザドラさまはご夫君と別の貴婦人との恋愛譚ばかりを聞かされてお過ごしになったのです」
見知らぬ土地に嫁いでいく心もとなさは、今のクリスティアナには身に沁みてわかる。そんな中で、夫の心が別の女性のほうを向いており、その女性が自分より先に子を産んでいたら。
「……そのことは、わたしもお気の毒だと思っているわ」
「クリスティアナさまがご同情なさる必要はございません」
心から伝えたが、ジリアンは素っ気なく返した。
「イザドラさまのお仕打ちをお許しになる必要もございません。ただ、わたしの考えをお伝えしておこうと思ったのみです」
ずっと、ジリアンは主人と同じく、自分を疎んでいるのだと思っていた。そうでもなかったらしい。
自分が投げた問いの答えにはなっていないが、はじめて彼女の本心からの言葉を聞いた気がして、クリスティアナは目を瞪った。
「王妃陛下のご命令である以上、この婚姻は必ず成功させなければなりません。今日よりわたしはその心づもりでクリスティアナさまにお仕えいたしますので、お知りおきください」
「……ええ。お願い、ジリアン」
ジリアンはクリスティアナに向き直って膝を折ると、今度こそ踵を返して狭い部屋から出ていった。
残されたクリスティアナは、円卓に置かれた燭台をぼんやりと見つめた。一人になると、火の明るさよりも照らされていない場所の暗さが目につく。手にしていた布を燭台の隣に置き、素手で自分の頬に触ってみる。義母に叩かれた痛みはもうほとんど引いていた。
痛くはないのに、涙が勝手に溢れて、両側の頬を伝い落ちてくる。
結局、自分は家族のうちの一人になれなかった。最後まで。
義母に好かれないのは仕方がないと思って受け入れていた。でも、血の繋がった人たちでさえ、クリスティアナを家族として扱ってくれなかった。妹のキャロラインも、弟たちも、父も。
義母は父がクリスティアナを偏愛していると思っている。ジェロームがクリスティアナを手もとに置くことこだわったこと、王城から外に出すことも執拗に禁じていることでそう見えるのだろう。また、クリスティアナという名はジェローム自身の亡き母の名で、名づけたのはジェロームだ。
しかし、クリスティアナは父に愛されていると感じたことは一度もなかった。
幼いころさえ抱き上げられたことも、頭を撫でられたこともなく、必要のない限り言葉もかけてもらえなかった。義母が些細な場面でクリスティアナを邪険に扱っても、父は気がつかなかったか、気がついても無視していた。
ときどき、ふとした拍子に目があうことはあったが、父の顔から愛情や関心は読み取れず、すぐに背を向けられるのが常だった。
母は魅力的な女性だったのかもしれないが、父が愛したのはその母だけで、娘のことはどうでも良かったのだろう。
涙が次々と流れてきて、クリスティアナはジリアンに渡された布で顎を拭った。