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後編

日常とは、幸せとは何か。



限られた、たった2時間だけの生活に意味はあるのか。


江島ユウトは考える。



僕の妹は、脳に重大な障害を負っている。


彼女は3年前の事故で脳を損傷。その後は昏睡状態に陥った。僕自身はほぼ無傷で救助されたが、両親は即死したため、残された希望は彼女だけとなった。


意識が戻らないまま1ヶ月が経過した。医師が異常に気がついたのは丁度その頃。


16時から2時間のみ、脳が異様に活性化しているのだ。彼女の小さい頭に取り付けられた十数のコードはその反応を伝えていた。


日が経つにつれ活性反応は増大していき、3ヶ月が過ぎる頃には覚醒状態と変わらない程になった。



ある日突然、彼女は目を覚ます。それはもう奇跡としか言いようがなかった。


1日の中で、たった2時間の覚醒。それでも僕は嬉しくて、嬉しくて、仔犬の様に飛び回った。


問題が発覚したのはその後。彼女は周りの人や物に一切の反応を示さないのだ。真っ黒な瞳はどこに焦点を合わせる訳でもなく、ただ視線を彷徨わせるだけである。その代わり、彼女はしきりに立ち上がりどこかへ向かおうとしていた。



こんな状態が続くので、向かう先を見てみよう、との判断が下された。前例のない症状に日本中の医師が注目する。僕は親族として、兄として、これに同行させてもらう許可を得た。


数日前まで昏睡状態(今も1日の大半は意識がないのだが)だったとは思えない程、しっかりとした足取りで向かったのは702号室。長期入院者のための1人部屋だ。


彼女はガララと音を立てて扉を開ける。

辺りをぐるりと見回して、背後にいた僕を見つける。

すると─


「お兄ちゃん、無事だったのね!」


その声、仕草、爛漫な笑顔はまごう事なき僕の妹─江島ナルミであった。


帰ってきた、帰ってきた!あの頃の日常が!

大好きな、本当に大好きでたまらない妹が、帰ってきた!!!






症状について、分かったことがいくつかある。

彼女は16時から2時間のみ覚醒し、303号室から歩いて702号室までやってくる。正確には16時ぴったりに702 号室の扉を開き、18時の鐘と共に部屋を後にする。


部屋の移動中はどんな声、出来事にも反応しない。唯一、702号室内で、それも僕にのみ反応を示した。


僕は毎日702号室で待機し、彼女の話から脳内状況を読み取るように医師からお願いされた。断る理由など微塵もない。



彼女の脳内では、僕が事故でひどい怪我を負っていて、そのお見舞いをしに来た、という認識が多かった。多かった、というのは、彼女の脳内設定は日によって様々だったからだ。




たった2時間、僕と彼女は言葉を交わす。そのどれもが他愛無い話題だが、全てが僕の光り輝く宝物だ。






こんな生活が2年ほど続いた。

彼女の言動が徐々に奇妙になったのはこの時期からだ。


まず、僕を兄と認識しないことが増えた。僕に反応し、話しかけはするのだが、その扱いは親戚だったり、友達だったり、初めて会った他人だったりした。


そのうえ、彼女自身も自己の認識が揺らぐようになる。別の名前を名乗ったり、口調が違ったり、果ては性別すらも変わってしまうことがあった。


当初から、脳に負担をかけないように、と彼女に現状と事故当日のことを改めて話すのは禁じられていた。しかし、ある日僕は尋ねてしまったのだ。



「なあ、お前はナルミなんだよな…記憶はあるんだよな…?」



唾を飲む。



「あの日、事故にあって、お前は助かったけど昏睡して…」



それから─




そう続けようとした瞬間


「ぁああぁああぁあああぁ─」


声にならないうめき声が彼女の口から漏れる。

華奢な両手で頭を抱え込み、俯きながらその場に倒れ込む。

段々と大きくなるその声は、どす黒い狂気を含んでいて、まさに発狂、そう言わざるを得なかった。


その日を境に、彼女が自己を正しく認識することは激減した。もう彼女は彼女でなくなってしまったのだ。


僕が彼女と長時間話せる日は、彼女がナルミという名に反応したとき、もしくは僕をお兄ちゃんと呼んだときのみになった。自己認識の異常は、彼女を完全に別人へと作り替えてしまう恐れがあるからだ。


今となっては、「ナルミ」が来るのは月に1度あるかどうか。その他は猟奇的な性格であることが多くなった。血走った目と飢えたような口をした、彼女でない彼女と会うのは苦痛に感じていった。



果たして、彼女は僕の妹と呼べるのか?

ナルミがナルミでなくなってしまうのなら、もういっそのこと─


疑問は解決することなく、時間だけが過ぎていく。小さな紙魚がゆっくりと、それでいて着実に僕の心を蝕んでいった。







今日は風が強い。木々はざわめき、役目を終えた葉が空を舞う。



簡素な廊下の壁に掛けられた時計は、今日も寸分の狂いもなく時を刻んでいる。



時刻は16時を少し過ぎたころ。




なんて、なんてことをしてしまったのだ、僕は。



手に生暖かい感触が残る。取り返しなどつくはずもない。




僕はただ、いつものように言葉を交わしたかっただけなのに。



僕はただ、ナルミに会いたかっただけなのに。



僕はただ─







階下には2つの肉塊。


それらはついさっきまで、兄妹として活動を続けていたらしい。


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