前編
簡素な廊下の壁に掛けられた時計は、毎日毎日、寸分の狂いもなく時を刻んでいる。
16時ぴったり。ガララと音を立てながらドアを開く。部屋にあるのは小さなテレビと鉄製のベッド。それと、そこに横たわる一人の青年。
「お兄ちゃん。具合はどう?」
いつものように、ゆっくり問いかける。
青年はのそりと顔を向けた。目尻が少し垂れていて、いつ見ても優しそうな顔つきだ。
「ん、今日も来てくれたのか。ありがとう。ナルミのおかげで段々と良くなってるよ」
ここは市内でも一際大きい病院の一室。都心から少し離れた位置にあり、窓からはたくさんの木々が生い茂っているのが見える。七階ということもあって、景色はそれなりに良い。
「そりゃあ、今日で三年だからね。はやく完治してもらわなきゃ私が困るわよ」
今からちょうど三年前、この病院の近くで事故が起きた。軽自動車とトラックの衝突だ。
今晩は焼肉でも食べに行こう、父の発案だった。母と兄は大賛成。二人とも牛タンが大好きで、テーブルの半分はそれで埋め尽くされることを私は知っていた。
大してお金もないくせに、と思ったが、部活で疲れ果てた私の身体はエネルギーを求めて右往左往していたので、素直に従うことにした。
父が所有する黄色の軽に乗り込み、身を揺らすこと数分、大きな交差点へと差し掛かった。
信号が青色を示しているのを確認すると、父はアクセルをぐんと踏んだ。
突然、車が白い光に包まれる。それが猛スピードで走ってきたトラックのヘッドライトだと気がついた時には、もう2mほど宙に浮いていたと思う。
父と母は肺が圧迫されて即死。兄は首の神経を傷つけて、足をうまく動かせなくなっていた。
「なあ、今日も聞かせてくれよ。ナルミの話」
兄はうっすらと微笑みながら言った。
「もちろん! そのためにここに来てるようなもんだよ」
病院で退屈している兄のために、一日の出来事を話す。今日の体育はソフトボールで、産まれて初めてホームランを打ったこと。国語の時間、久しぶりに居眠りして、先生に叱られたこと。廊下を走っていた男子が盛大にコケる所を目撃したこと。
中でも、兄の最近のお気に入り話は、クラスのアイドル、ヒロモトさんの恋愛事情である。
レパートリーは決して多くないし、些細な出来事ばかりだが、兄は熱心に耳を傾けてくれるので、話す側にも力が入る。この三年でだいぶ会話力がついたのはこれのおかげに違いない。
ゴーン、ゴーンと18時を知らせる鐘が鳴る。窓の外は薄暗くなり、小さな街灯がチカチカと活動を始めていた。
「もうこんな時間。そろそろ私、帰るね」
兄と話す時間はあっという間に過ぎる。
「今日も楽しい話をありがとう。また、必ず来てくれよ」
バイバイ、と小さく手を振る兄は少し寂しそうな顔をしていた。
廊下の時計は、今日も休まず働いている。
16時ぴったり。いつものように、ガララと音を立てながらドアを開く。部屋には小さなテレビと鉄製のベッド。それと、そこに横たわる一人の青年が─
いない。
私が来ると嬉しそうに目を細めていた青年が、
優しくて、とっても大好きなあの青年が、
いない。
彼のベッドは綺麗に整頓されていて、シワの一つもなかった。まるで、今日はまだ使っていないみたいに。
兄は一人で動けるはずがない。病状が回復傾向だといっても、移動にはまだ車椅子と補助が必要だし、その車椅子だって窓際に……
ふと窓に目をやると、そこにガラスの隔たりがないことに気がついた。
窓が開いている。そばには綺麗に揃えられた兄の靴。
飛び降りた……?
まさか、そんな、まさかね、
ありえない、頭ではそう分かっているが、なぜかその可能性を捨てきれない。
汗が滲んで、服がピッタリと肌につく。
この前だって、楽しくおしゃべりしてたじゃないか。また来てねって、言ってたじゃないか。
ゆっくり、ゆっくりと窓に近づく。窓縁に手をかけて恐る恐る顔を覗かせる。
階下には兄の変わり果てた姿が─
なかった。どこを見ても、不自然なところは見当たらない。いつものように、木々がゆらゆらと揺れていた。
─ああ、よかった。やっぱり杞憂だった。そうだよ、あの兄が飛び降りなんてするはずがない。
油汗に風が吹いて冷たい。
そうして、窓縁から手を離そうとした瞬間、私の身体がぐいと突然持ち上がる。
なんだっ!? ああっ! 外にっ! 外にっ!
放り投げられる!
誰だっ! 私を持ち上げているのはっ!
どうにか、上半身をひねる。背後を睨みつける。
私の身体を持ち上げているのは、少々背の高い男。黒髪で、目尻の少し垂れた、優しそうな顔の─
お兄……ちゃん……?
体の力が抜けて、私はもう、窓の内側へと戻ることはなかった。