62.がんばってたよ
姫野が話し終え、神谷の自室には沈黙が降りていた。
誰も何も言葉を発しなかった。時折すんすんと洟を啜る音だけが聞こえるだけだった。
「え、と」
絞り出すような神谷の二文字。
それきりまた黙り込む。とりあえず何か言わねばと思って口を開いてみたものの、
(どうしたらいいんだろ…………)
途方に暮れてしまう。
目の前でべそをかいている後輩をどうしたものか。
正直言って、気にしてはいないのだ。
おそらく姫野は嘘をついていたことを謝りたいのだと思うのだが、神谷はそんなことで怒ったりしないし、そもそも本当は謝るようなことでもない。迷惑を掛けられたとも思わない。
(――――ああ、そっか)
それを言えばいいのだと気付く。
想いは言葉にしなければ伝わらない――いや、違う。
伝えたい想いは言葉にするべき、だ。
「姫野さん」
「…………」
「ひーめーのーさん」
「…………すん」
「桃香」
「…………!?」
俯いていた顔をようやく上げる姫野。
泣きじゃくったせいか背筋が時折震え、目のふちが真っ赤になっている。早く冷やさないと腫れるよ、と言いたいところだがそれは後にする。
「桃香はさ、バスケ嫌いになっちゃった?」
「え…………」
「すごく辛そうだよ。もうボールだって見たくないって感じかな」
「それ、は」
俯く姫野。
神谷はためらうように口を閉じ、もう一度開く。
「もうやめてもいいんじゃない? だって部活なんて……言っちゃえば無駄なことだしさ」
「…………っ」
「学校っていう限られた時間で、卒業後も続けるかどうかもわかんなくて、ましてやプロを目指すわけでもない、そんなのに打ち込む意味ってある?」
嘲る口調に、弾かれたように姫野は立ち上がる。
そんなことを言ってほしくなかった。そんなことを聞きたくは無かった。
他ならぬ神谷の口から――――自分と同じくバスケに打ち込み、半ばで折れざるを得なかった者として、共感じみた想いさえ持っていたから。
「そんなことは、」
喉が詰まる。
否定できない。ある意味で神谷の言うことは正しいかもしれないと思ってしまった。
自分だって中学の時は明確な未来を描いていたわけではない。ひたむきにボールを追いかけ続け、そんな日々がずっと続いていくのではないかとすら思っていた。
実際にはそんなことはない。一秒、一分、一時間、一日――時間は刻一刻と過ぎていくし、それに伴って状況も変わっていく。
進級する。後輩もできる。そのうち引退だってする。
時の流れには逆らえなくて、いつか部活にも終わりが来る。
でも。
「そんなことは……ない、です。だって、だって――私はあの時のことを――」
流しつくしたと思っていた涙がぼろぼろ溢れる。
毎日のようにボールを追いかけていたあの日々のことを走馬灯のように思い出した。
確かに嫌なことはいっぱいあった。放課後遊びに行くクラスメイト達を羨ましく思ったことだって、実は一度や二度じゃない。
でも辞めなかった。
それは楽しかったからだ。
バスケが好きだったからだ。
終わりは絶望にまみれていたけど、あの日々を思い出しても暗い気持ちにはならなかった。
それは当時の自分が必死に頑張っていたことを、他ならぬ自分自身がよく知っているからだ。
きっとあの日々は姫野にとって青春だった。
いまでもそれは変わっていない。
そのことに、姫野は今この瞬間気づくことができた。
「否定したくない。だって私はすっごく頑張ってたから。楽しかったから。……無駄じゃないです。この思い出は間違いなく私の宝物なんです」
「……………………うん」
懺悔ではなく、告解でもない姫野の独白を聞いた神谷は、細めていた相貌を緩める。
神谷の様子が変わったことに困惑する姫野はごしごしと目元を擦った。
「いじわる言ってごめんね」
「え?」
「何かに夢中になることの意味なんて自分で見つけるものだよね。少なくともわたしはそう思ってる」
部活も。今神谷がハマっているゲームだって。
何の役に立つのかはわからないものだ。
何の役にも立たないかもしれない。いや、大抵のことはそうだろう。
だからこそ、その意味は自分の中にだけ存在する。
「桃香の本音を聞きたかったんだ。煽るようなこと言ってほんとごめん」
「せんぱい……」
「まだ好きなんだよね、バスケ」
「…………はい」
素直に頷く。
「そうじゃなきゃ高校に来てもバスケ部に入ったりしないし、部活に行けなくなっても体育館に毎日行こうとはしないもんね」
「ほんと…………そうですね」
励む先輩たちを見ていて苦しかったのは間違いなく本当だ。
しかし、それでも関わりたかったのもまた本当なのだ。
「だからあと必要なのは、最後の一歩を踏み出す勇気かな」
「……でもやっぱり怖いです」
やっぱり行きづらい。
これまでサボり続けてきた日々が、姫野の身体をがんじがらめに縛っている。
部活に参加しなくなってから約半年。『参加していない』という状態が定着してしまっている。
なんとかしたい、と思った。
これから姫野が部活に行くようになるにしても、諦めてしまうにしても、彼女ができる限り後悔の無い道に持っていきたい。
自分でかけたロープで自分を締め上げるような毎日はきっととても苦しいだろうから。
「なら……桃香。明日の放課後をわたしにちょうだい」
「え?」
こんな誘いをわたしがするなんて――と。
神谷は内心で笑った。




