59.発熱空中コンボ
次の日。
電脳の世界を目いっぱい駆け回るミサキは、現実では神谷沙月という名の一介の高校生である。
今日は平日。よって当然のごとく学校である。
寮の自室に鳴り響く甲高い電子音はスマホのアラーム。
普段はそれが騒ぎ出す前に起床する神谷にとっては、アラームは念のため設定しているものでしかない。
だが今日は違った。
「ん、ぅ…………」
鉛のような意識を無理矢理持ち上げるような覚醒。
少しずつ目蓋が開き、視界が確保される。日が昇り始めたばかりの外から、薄青くも見える明かりがカーテン越しにしみ込んでくるようだった。
横になったまま手探りでスマホを探す。たん、たん、と二度ベッドの表面を叩き、三度目でやっとスマホを見つける。普段より熱く感じる指先でアラームを止め、力尽きてぐったりと横たわる。
「なんだこれぇ…………」
頭がぐらぐらする。
吐く息が熱い。
ぐっと身体に力を入れてなんとか起き上がってみるが、普段の何倍も労力を使い、どっと疲れた様な気分になる。
おそらく疲れているのだろう、と結論付け、いつもよりゆっくり制服に着替えた後部屋を出た。
おぼつかない足取りで何とか階段を降りて一階にたどり着くと、目の前を見覚えのある人物が横切った。
「おお神谷か。今日はいつもより遅かったな」
「北条、さん」
北条優莉。
この寮の長をしている女性だ。
美人なのに高校時代から着古しているジャージを雑に着て、その上適当に結っただけの黒髪を、寮生はみんなもったいないと思っている。
現在身寄りのない神谷の、実質的な親でもある人物だ。
今の神谷は北条がいないと生きていけない。
「おはよ……ざいあす……」
回らない口で挨拶をし、ふらふらと食堂へと足を向ける。
みんなの朝食を作らなければ。
「ちょっと待て」
背を向けた神谷の手を北条が掴み軽く引く。
それだけで小さな身体は簡単に傾いだ。
バランスを崩し、そのまま倒れ――る前に北条が抱き留めた。
「あつ……! お前熱あるだろ!」
「あーうー……えへ、ありませんよお……あるとしたらゲームへの情熱だけですからぁ」
「よーしだいぶキてるな。……今日は学校休め。担任には私が言っておく」
「すいません…………」
朦朧とする意識では誤魔化しきれない。
諦めて今日は言う通りにすることにした。
「……北条さーん」
「ん?」
熱に浮かされた頬。
とろけるような眼差し。
熱からか流れた汗が頬を伝う。
「ふふ、ありがと」
ごくりと生唾を飲みこむ音がした。
「っ…………ああ。私は寮長だからな」
そう言った後、深く息を吐いた北条は神谷を抱き上げ二階への階段を昇った。
制服を脱がせてもらって、汗を拭いてもらって、ベッドに寝かせてもらって、そして今。
園田と光空は名残惜しそうにしていたが、登校していった。
昼食は北条にチャットを送れば用意してくれるらしい。
ありがたいことだ。
なにやら疲弊した様子で「お前あんまり無闇やたらと甘えるのやめとけな……」と零していたがどういう意味だろうか。 やはり自分の存在は少なからず負担になっているのかも、と薄暗い気持ちになってしまう。
当の北条としては全くそんなことは思っていないのだが。
普段の神谷ならこのような考えをすることはないのだが、こうして体調を崩し、気持ちが落ち込んでいると悪い方に思考が引っ張られてしまう。
先ほど友人のアカネが様子を見に来てこんなことを言っていた。
『あんたメンタル崩すと決まって体調も悪くするわよね。前にもこんなことなかった?』
『…………あったね』
『ま、なんかあったら相談しなさいよね。そろそろ限界まで抱え込む癖、治してもいい頃でしょ』
今頃は自室で筋トレでもしているだろうか。
自惚れかも知れないが、自分がこうして伏せている間は彼女が外出することはないだろう。
そういう子だから。
やはり体調を崩しているからそれに伴ってメンタルも弱っているというのは逆だろう。
心が消耗しているから熱が出たのだ。
以前からそうだ。神谷の身体はそういう風にできている。身体的な要因で風邪をひいたりすることはないが、代わりに心の影響をもろに受ける。
やはり、あの『外装』が原因だろうか。
「だとしたら、困る…………」
マリスと戦うたびにこんなことになってしまうなら、正直言ってやっていられない。
どうにかならないだろうか――頭に金髪錬金術士の顔を思い浮かべていると、いつの間にか睡魔が意識を奪っていた。
微かな物音と――おぼろげな夢の中で視界を横切ったピンク色の影を追うように意識が浮上する。
燃えているみたいだった身体は少しだけいつもの温度を取り戻し、全身のだるさもいくらか抜けている。頭はいまだ重かったが。
時間の感覚があやふやだ。
遮光カーテンを閉めているのであまり光は入っておらず部屋は薄暗い。
「ん…………いま、なんじ…………」
「4時前ですね」
聞こえるはずのない声に、薄くしか開かなかった目蓋を勢いよくかっぴらく。
神谷の横たわるベッドの傍らで、ツインテールの少女が顔を覗き込んできていることを認識した。
「あれ……ラブリカ? 身体は大丈夫なの?」
「はい? なに言ってるんですかせんぱい。熱でもあるんですか……って、あるんでしたね」
「あ、ああ……うん、ごめん姫野さん」
少し寝ぼけていた。
目の前にいるのは姫野桃香。神谷の学校での下級生で、『アストラル・アリーナ』ではラブリカというプレイヤー名でプレイしている少女だ。
…………今のやりとりでわかったが、やはりマリスになっていた時の記憶はないらしい。
「ていうか何でここにいるの?」
「先輩を探してたんですよ。そこらじゅう歩き回ってみても一向に会えないし、上級生の教室がある階で先生捕まえて聞いてみたら病欠だって……というか先輩ここの寮生だったんですね。やばー」
「何がやばいの……ってなんでわたしを探してたの? 何か用でもあった……?」
「えと、なんでかはわかんないんですけど、先輩と話さないといけないような気がして……あとお見舞いです」
そう言って自販機で買ったらしいスポーツドリンクを手渡してくる。喉が渇いていたからありがたい。
白く透き通る飲料水をごくごくと喉に流し込みながら、姫野の言ったことについて考える。
たしか、姫野が変化したマリスと戦った時、神谷は『話そう』と訴えかけた。記憶が無くても何となく言葉は届いていて、意識を揺り戻すまではいかなくとも少しは影響を残すことができたらしい。
…………しかし、逆に。
必死に訴えかけようがその程度しか残らないとも言えるのだが。
「…………あの。もしかしてこれって私のせいだったりするんでしょうか」
「ん?」
「実は昨日ログインしてからの記憶がごっそり抜け落ちてるんです。一緒に入ったはずのおに……兄に聞いてみても大丈夫だからの1点張りで…………」
「…………」
「詳しく話さないってことは絶対何かあったんじゃないですか。それで悶々としてたら昨日の今日で先輩は病欠だし……そんなはずない、関係なんてないって言い聞かせても、どうしても…………」
――――本当は。
マリスについていろいろと聞きたいことはあった。
誰かから怪しいものは渡されなかったかだとか、だとしたらそれはいつのことだとか、いろいろ。
でも彼女の浮かべている沈痛な表情を見ていると、とても聞けなかった。
(……………………隠そう)
言うべきじゃない。
本当のことを教えてあげるのが優しさなのかもしれないが、神谷にはどうしてもできなかった。
だから自分は優しくなんてないのだ、と内心自嘲する。
「……前に変なモンスターが出たって話があったでしょ? ラブリカはあれに襲われたんだって。あいつに殺されると、しばらくログアウトできなくなって前後の記憶も消えるみたいだから姫野さんは覚えてなかったんだね。とろさーもんさんが何も言わないのは君のことが心配だったんじゃないかな……」
よくもまあこんなにすらすらと口から出まかせが出るものだ。
嘘をついてしまったらもう突き通すしかない。周囲の人にも口裏を合わせてもらって――ひとつの嘘が次の嘘を呼び、他の人にもそれを強要することにもなる。
隠し事なんてするものじゃないなと思う。
「そうですか……」
「わたしがこうなってるのはただの偶然だから気にしないで」
努めて優しい声色を出してみるも、姫野はこくりと頷きそれきり黙ってしまった。
もしかしたら無意識下で自分のしたことを感じているのかもしれない。
何も覚えていないのに、罪の意識だけがこびりついて……彼女を苛んでいる。
(やだな、そういうの)
暗い顔は好きじゃない。
「ねえ姫野さん。せっかく来てくれたんだし、姫野さんの言う通りお話しよっか」
「え?」
なんだかこのまま帰すのは忍びない。
先輩として、できることはしなければと思った。




