46.化け物のエゴイズム
最初は小さな違和感だった。
少しずつ、少しずつ、忍び寄ってきていた悪い予感を、当時の神谷は気付いていたのかどうか。
バスケ部に誘ってくれた友人は少しずつよそよそしくなった。
話していても何かと理由をつけて席を外したり。
別のクラスメイトや部活仲間とこちらを見ながらこそこそと話をしていたり。
すれ違っても無視されることも多くなった。
もしかしたらとは思っていた。
思ってはいて、それでもと祈り続けた。
きっと何か理由があるはずだと。
自分は嫌われてなんかいないと。
だって自分は何も悪いことなんてしていないのだから、と。
あんな優しくて人当たりのいい子がまさか、と。
だが、その時の神谷はわかっていなかった。
他人に優しくしている人が優しい性格をしているわけではないし、人当たりのいい子は”いい子”というわけではないのだと。
そして。
そんな人間に、学校という社会の中で嫌われることがどういう影響を生むのかも――わかっていなかった。
バスケ部の顧問やコーチからはいつも褒められていた。
初心者とは思えない、これならスタメン入りもすぐだ、なんて言葉をよくかけられていた。
正直言って、冗談だと思っていた。おだててモチベーションを保たせようという意図のもと投げかけられた、おためごかしだと。
他の部員は、先輩はもちろん同級生も神谷を除けばみんな経験者で、そんな彼女らより自分が上手いなどとは到底思えなかった。長く続けている方が絶対に練度は高くて、後から追いかけ始めた自分との差はどうやっても埋まらないのだと。
しかし違った。
走る速度は人それぞれ違って、後から始めても追いつくことだってできる。
スタメン入りもすぐだ、という言葉に偽りはなく、あっという間に彼女は部内でもトップクラスの実力を備えるようになっていた。
そんなことも神谷にはわからず、それだけ周りが見えていなかったのだ。
不運だったのは彼女が自惚れない性格だったことだ。自分は出遅れているんだから、できる限り頑張らないと――そんなひたむきな心で、ストイックに練習を続けた結果、スポンジのように周囲から技術を吸収し、彼女は上り詰めた。
決定的だったのは、三年の先輩からスタメンを奪った時だった。
三年たちは嫉妬心を押し殺し、何も言わなかった。
二年たちからは避難囂々だった。三年の先輩にとっては最後の大会だ。その晴れ舞台を後輩に奪われるということを良しとしない者は何人もいた。
一年は何も言えなかった。あとから始めたくせに自分たちを追い抜いてしまった神谷にいい感情を抱いているものはいなかったし、先輩から顰蹙を浴びるのも避けたかった。
この部活は実力主義だと入部時に聞かされた。
実際部員たちもわかっていたし、それを受け入れているつもりだった。
ただ、今までは偶然にも上手さが綺麗に年齢順になっていただけだったのだ。三年より上手い二年はおらず、二年より上手い一年ももちろんおらず――そんな状況を、神谷が全て打ち砕いてしまった。
上手い奴がスタメンを取るべきだ、ということを頭では、理屈ではわかっていても、感情を従えることはできなかった。
それからは部活ぐるみで神谷に対し凄惨ないじめが――ということは、しかしない。
ただ孤立しただけだ。無視されているわけではない、話しかければ大抵は答えてくれる。しかしその際神谷に向けられる冷ややかな視線と声色は、彼女を委縮させるに余りあるものだった。
自分を含めた”わたしたち”という集団は消し去られ、バスケ部は”みんなとわたし”に変貌した。
神谷をバスケ部に誘ってくれた友人は、いつの間にか退部していた。
その頃にはもう話しかけることすらできなかった。
本当に、全てが『いつのまにか』だった。
そんな中迎えた夏の地区大会。
唯一の一年として出場した神谷は誰も追随できないほどの活躍を見せた。
自分で相手からボールを奪い、自分でゴールまで運び、自分でシュートを決める。
そんなことをひたすらに繰り返していった。
神谷は仲間を信用していなかったわけではない。
その瞬間ごとにどうするのが最善かを考え続けていただけだ。
しかし、何が最善かを考えた結果、ほぼ全ての場合で自分がボールに絡むべきだと判断しただけだった。
そして、それを自覚してもいなかった。神谷はただ必死だった。勝つために、そして楽しむためにがむしゃらにボールを追いかけていた。
その甲斐あってか勝ち進めはした。
だが――楽しいのは神谷一人だけだったのだ。
迎えた地区大会の決勝。
至極当然のことではあるのだが、神谷はマークされた。
こいつだけは何としても止めなければ――そんな強い意志を感じた。
目の前に立ちはだかる長身のディフェンスが三枚。どうやっても突破できそうにない。
ここは仲間にパスして切り抜けようとあたりを見回すと、そこで気づいた。
チームメイトは、ただ立ち尽くしていた。自陣で固まり、ただこちらを睨みつけていた。
事実上のボイコット。
そこで神谷は、今まで自分がしでかしていたことにようやく気付いた。
自分が奪っていたのはボールではなく――仲間のバスケットボールそのものだったのだと。
そこからは記憶が定かではない。
試合に負けたことだけを覚えている。
その後、神谷はバスケ部を退部した。
入部してから半年もたっていなかった。
謝ることもできず、逃げ出すようにバスケを捨てた。
それと共に、神谷は教室でもひとりになった。
友人が悪意でもって悪評を流布したからだ。彼女の交友範囲が広かったこともあり、神谷の悪印象は爆発的に広がった。
そうして。
中学に入学してからわずか四か月で――神谷沙月は独りきりになってしまったのだった。
心無い言葉をたくさん聞いた。
誰もが自分の陰口を叩いているのだってわかっていた。
今でも時々思うのだ。
心無いのはいったいどちらの方だったのかと。
自分が楽しむために無自覚に他人を踏みにじった自分こそが悪なのではないかと。
そんな神谷でも、幸運なことに新しい友人はできたし、振り返ってみれば楽しい中学生活を送ることはできた。
ただ、それでも自分のしたことはなかったことにはならない。
その事実からはどうやっても逃げられない。
少なくとも、自分がそれを悔やんでいる限りは。




