43.ああ青春の日々よ
神谷沙月は天涯孤独だ。
それはもう完膚無きまでに。
掛け値無しに、誰一人として血縁が存在しない。
とは言え、それには『現在は』という枕詞がつくのだが。
ようするに以前はいたのだ。
唯一の家族が。カガミという名の母親が。
「まあ、当時は母親だとは知らなかったんですけどね」
「それはどうして?」
白瀬は怪訝そうな様子で聞いた。
唯一の家族である母親を、そうと認識していなかったというのはどういうことなのか、と。
「母は――カガミさんは、自分が母親だと知られたくなかったみたいです。理由は……そうですね、あの人は、いわゆる”悪い人”だったので。そんな人間が親だとはどうしても言えなかったみたいです」
「…………そうか。続けて」
口を挟むことはできない。
何も言えない。
神谷の境遇は、白瀬の想像力の外にあった。
「とは言えわたしにとっては理想的な親でした。強くて、優しくて、とても綺麗なひと。多くのことをわたしに教えてくれて……わたしはあの人のことが大好きでした。あの人さえいればいいって、けっこう本気で思うくらいには」
強く優しく美しく――そんな使い古された美辞麗句が似合いすぎるほどに似合っていた、そんな人物だった。
神谷の理想であり目標だったのだ。
「でも、カガミさんはいなくなりました」
「いなくなった……?」
「高校の入学式の朝、あの人は失踪したんです」
神谷は静かに瞑目する。
今でも鮮明に思い出せる、あの日の情景。
耳が痛くなるほどに静まり返った家の中。
テーブルにぽつんと残された置き土産。
泣きたくなるほどに降りしきる雨。
滝みたいに降りしきる雨の中、まっさらな新品のセーラーのまま探しに走った。
どこまでも走って、走って、走って、走って。
あてどなく探し続けて、それでも見つからなかった。彼女の痕跡は全て家の中に残っていたのに、煙みたいに消えてしまっていた。
「カガミさんがいなくなって絶望してたあの時のわたしは本当にひどかったです。誰もかれもを遠ざけて、生きてる理由なんかわからなくて、なのに死ぬ理由もどこにもなくて、そんな状態が一年ほど続きました」
「……………………」
「そんなある日のことでした。詳しい説明はできませんが、わたしは母親に再会するチャンスを得ました。平坦な道のりではなかったけど、結果カガミさんにまた会うことができました」
「それは……よかったじゃないか」
「ええ。自分は捨てられたんだとばかり思っていたので、彼女の真意を確かめることができて良かったと思います。わたしは疎まれてなんかいなかった、ちゃんと愛されていたんだってわかったんです――ただ」
そこで、神谷は俯いた。
まだ痛む古傷を隠すかのように、胸を手で覆った。
「再会してすぐ……母は……わたしの、目の前で……」
「……そうか」
重い重い息をひとつ。白瀬は聞いたことを後悔した。
神谷を軽んじていたわけではない。むしろ最大限身構えてもいた。
それだけの境遇が彼女にはあるのだろう、と。
しかしここまでだとは思わなかった。
彼女はどれだけ悲しい思いをしただろう。どれだけ辛い時間を送ったのだろう。
想像することも共感することもできるが、理解は一生及ばない。それを知るのは本人だけだからだ。
そしてそれだけのことがあってなお、こうしてまっすぐ立っている彼女がなにより輝いて見えた。
「悪かったね、そんな辛いことを話させてしまって」
「いえいえこちらこそです。あとバイトの話は受けさせてもらいますね」
「……! 本当かい?」
こくりと頷く。
『どうしてあのゲームを作ったのか』――その質問に答えてくれればという条件は、すでに果たされている。
白瀬という男は死んだ幼馴染の意志を継いであのゲームを作った。それが知れただけで充分だ。
だから境遇が似ているこの男に協力するのも悪くないだろうと思ったのだ。
母がいなくなった一年の間、神谷を支えたのは幼馴染の光空陽菜と、ゲームだった。
『アストラル・アリーナ』は面白いゲームだと思う。だからあの世界を守るために戦うのも、悪くは無いかなと神谷は思った。
がたんごとん、と電車が揺れる。
車両内は閑散としている。休日なのに珍しいな、と神谷は思った。静かな方が好きではあるのだが。
白瀬との話は終わり、オフィスを出て、また二人は電車に乗った。これから寮に帰るのだ。
「あの執事服の奴、いたじゃない」
「うん。ええと……哀神さんだっけ。あの人がどうしたの?」
「なんか気に入らないのよね。信用ならないっていうか……あんたもまた会うことがあれば気を付けなさいよ」
「えー、そうかな。まあアカネが言うならそうするけどさ」
なにが信用ならないのかはわからないが、アカネが間違ったことを言った時は一度として無い。
彼女はいつだって正しいから。
アカネには事情は全て話している。
アルバイトをすることになったのも、白瀬に自らの境遇を話したことも、全部。
「……ねえ」
「ん?」
「傷はもう塞がった?」
「…………かさぶたって感じかな」
「そ。はがれないように気を付けなさいよ」
「ありがと」
神谷に母親がいないことについては、アカネも良く知っている。
その”事件”の関係者でもある彼女は神谷の想いを痛いほどわかっていて、だからこそ無為に言葉を重ねなかった。
母親がいなくなってから約半年。未だ疼く傷は、治りかけの証だった。




