319.V-Revolution
その黒い背中は小さく。
しかし何よりも大きく見えた。
目の前の少女は見たことも無い姿で、しかし慣れ親しんだ空気を身に纏っている。
あの日ミサキに声をかけたのは必然だったのだろうか。
そうであってほしい、と思った。
例えどんな経路を通ろうとも、自分とミサキは出会ったのだと。
今ならそう信じられる。
全てが不確かなこの世界で、いま目の前にいる相棒こそが真実なのだと。
あの時の選択は間違っていなかった。
――――あなたがあたしのマスターピースだったのね。
もう恐れることは何もない。
不条理に再誕した彼女は、目の前の絶望など容易く打ち砕いてしまうだろう。
現実世界より降臨した神谷沙月は音も無く右手を挙げる。
目的のわからない行動に、ウロボロスは不審な目を向けると無言で地面を蹴り、素早く接近を試みる。
だが神谷の目はそんなものを映してはいなかった。
「ごめん、フラン。ちょっと行ってくるよ」
「……ええ、好きにして」
二人の目にはお互いしか映らず、その有様にウロボロスは激昂する。
「この俺を! 無視してんじゃねええええっ!!」
「静かに」
その囁きに呼応したのか、時間が至極緩やかに流れ、神谷の右手が眩く輝く。
光は波動となり、ウロボロスの接近を阻んだ。
あまりの光度に目も開けられず、うめく中――唐突にそれは終わった。
ゆっくりと瞼を開く。
そこはさっきまでの研究室とはまるで別の世界だった。
見上げれば夜空と淡く輝く満月。
見下ろせば抜けるような青空と眩しい太陽。
上は夜。
下は昼。
神谷とウロボロスは気が付けば夜空と青空に挟まれているかのような空間に立っていた。
あまりに非現実すぎる情景に視界機能の認識を疑いたくなる。
が、しかし。
怖気がするほどの現実感――吹き抜けるそよ風や、どこからか香る草原の匂いで頭がおかしくなりそうだった。
「なんだ……これは……ッ! 世界の上書きだと、そんなものお前なんぞにできるわけがない!」
白瀬も管理者権限を使い似たような力を行使していた。
ミサキと初めて戦った時に使ったのがそうだ。
だがあれはテクスチャを上書きするだけで、実体までが変質するわけではない。
だがこの昼と夜を併せ持つ世界はどうだ。
完全に別のマップとしか思えない。実際、どこか違う場所にワープさせられたという方が信じられる。
だが、地図を開き現在地を確認すればホームタウン上空、塔の最上階を示している。
つまり、座標は変わっていないのだ。
そしてこんな事態を起こした張本人のミサキ――いや、神谷沙月と言えば、ウロボロスから10メートル前後離れた場所で軽くジャンプを繰り返すなどして身体の調子を確かめている。
この世界には全く驚きを覚えていない。
それも自分で上書きした世界だから当然なのか。
ウロボロスは震える唇を何とか開き、問う。
「お前は……本当に人間なのか」
「面白いこと言うね。人間って――こんなものが、人間なわけないでしょう」
ね? と。
神谷は何でもないことのように小首を傾げて笑った。
黒と金のオッドアイが、月光を浴びて瞬く。
ウロボロスはやっと思い至った。
この少女がアストラル・スキャンでエラーを起こした理由を。
あのスキャンは人間の精神を解析し、ウロボロス因子を埋め込むものだった。
だが彼女が人間でないとすれば。
人に似た、人でない何かだとすれば。
OSの違いでアプリが正常に作動しないように、解析が働かなかったのも頷ける。
しかしそんなことがありうるのか。
AIは言わば科学。理屈に沿って生み出されている。
しかしこの少女は明らかに埒外の存在だ。なら、もしかするとあのフランも――――
「今からのわたしはあんまり誰かに見せたくないんだ。だから二人にさせてもらった」
神谷はその拳を静かに構える。
緩やかな風が吹き、黒いセーラーのスカートがわずかに揺れた。
ウロボロスは自信の奥底から湧き上がってきた感情が理解できなかった。
目の前の小柄な少女の姿はミサキのセーブデータと姿を奪い取った自分とほとんど変わらない。
だが、彼女の穏やかな表情に反してそこから発せられているのは濃密な殺意。
常人ならば当てられるだけで気絶しかねないプレッシャーがこの世界に充満していた。
(これが、人じゃない?)
バカな、と思った。
こんなにも生々しく苛烈な感情は人間のそれでしかありえない。
人ではなく、しかし確かな人の心を持ちうるもの。
(…………ならば)
ウロボロスの中で新たな欲望が渦を巻く。
この女を取り込めば。
自分と近しいこの存在を我が物とすることができれば。
人間へ、さらに近づくことができるはずだと。
「ハハッ、のこのことご登場どうもありがとう! てめえを喰らい、その次は今度こそフランを喰らって俺は人間になる!」
「無理だよ。みんなの想いが作り出したわたしが、お前なんかに負けるわけない」
挑発じみた言葉に対し獣のごとき雄たけびを上げたウロボロスが透明な地面に足を叩きつけると、そこから巨大な氷で出来た竜が姿を現した。
氷を作り出す白いブーツ、《プリズム・ブリザード》の力――ミサキが使っていた時より強化されている。
氷竜を前に神谷は動かない。鋭い牙が並んだ大顎が迫ってもただ見つめるだけ――いや。
その寸前で小さく呟いた声がした。
「【アダーレム・サターン】」
「無駄だ! その氷にはガード貫通効果を付与してある――どんな防御も貫きてめえを砕く!」
氷の竜は神谷に食らいつくと、巨大な氷塊となって膨張した。
圧倒的な質量と冷気で押しつぶす目的。
一瞬後、そこには美しい氷山が完成していた。《プリズム・ブリザード》が本来持つスペックをはるかに超えた威力だ。
「は――ハハハ! 戻って来たからなんだ、何が想いが重なっただ! 全部奪われたお前には何も――――」
ピシ、と。
氷山に亀裂が走った。
言葉を失ったウロボロスは、亀裂がみるみる広がっていくのをただ呆然と見つめるばかりで動けなかった。
その先にあるものが予想できてしまったから。
「全部奪われてなんかない。お前に全ては奪えない。たとえセーブデータが無くたって、これまでの記憶はここにちゃんとあるんだから」
崩れ落ちる氷の向こう、漆黒の鉱石で形成された壁に守られた神谷が立っていた。
その壁も役目を失ったように跡形も無く消え去る。
しかし予想していなかったことなのか――砕け散って雨のごとく降る氷片のひとつが神谷の頬を薄く裂いた。
その傷からは赤い液体が滲む。それは紛れもない鮮血だった。
「は……?」
唖然とするウロボロスに、神谷は伝う赤い血を指で軽く拭う。
「ん? ああ、血だよ。もしかして直接見るのは初めて?」
言葉が出なかった。
この世界では身体が傷つけばダメージエフェクトが表示されるだけだ。
当然、血など実装していない。
ならばあれはいったい何なのだ。
生身だとでも言うのか。
そう考えれば辻褄は合う。しかしそんな前提条件はありえない。
ありえない、ありえない、ありえない――思考回路が破壊されそうだった。
(……落ち着け、焦ることはねえ。万が一俺を倒せばバックアップが起動する以上、奴が俺に手を出すことは無いだろうが)
迅速に平静を取り戻したウロボロスは地面を蹴り、目にもとまらぬ速度で神谷へと肉薄する。
取り込んだミサキの速度はこれ以上なく快適だった。ただ速いわけではなく、驚異的な小回りの良さまで同居している。
そこから放たれる拳の一撃は間違いなく神谷の顔面を捉えるはずだった。
「…………な」
乾いた音。
超音速にまで達しようとしていた拳はたやすく手の平で受け止められる。
思わず唖然と口を開き――――
「パンチっていうのはこうやって打つんだよ」
直後、視界が360度回転した。
10トントラックと正面衝突したと言っても過言ではないほどの衝撃がウロボロスを襲い、前後不覚に陥る。
それこそ生身の人間が食らえば赤い水風船のように破裂していたであろう一撃でウロボロスの小さな身体が宙に浮く。
「【アゾタイト・ヴィーナス】」
唱えた声に従い、空中に黄金の剣が無数に出現する。
剣の群れは神谷が腕を振るうとミサイルのごとく次々射出され、落下途中のウロボロスを四方八方から切り刻んだ。
「ぎゃあああああっ!?」
大量のダメージエフェクトを散らしながら地面に激突する。
ウロボロスはそのまま苦悶に表情を歪めながらのたうち回っていた。
「ぎひ、あが……いで、痛えええええええっ!! なんだこれ、俺の……俺の存在自体が削れてやがる……!?」
「それが本物の痛みだよ。覚えた? ……バックアップなんて使わせない。今のわたしの攻撃は、お前という概念ごと砕く」
バーチャルで再現されたものではない、生まれて初めて味わう鮮烈な激痛に思考が支配される中、そんなバカな、というかすれ声が零れ落ちた。
こいつはいったい何なんだ。
どうしてさっきからこちらの策を正面から潰してくる。
吐き気を催すほどの不条理。
結局のところ、フランだったのだ。
あいつが全ての元凶と言ってもいい。
奴は人の願いから生まれた。人の願いを叶えるために生まれた。
おそらく今、フランの力は神谷の願いのために使われているのだろう。
ウロボロスを打倒するという、ただ一点に。
「ふざけんじゃねえええええ! そんな都合の良いことが許されるわけねえだろうがあああああッ!!」
咆哮するウロボロスの両腕――《シリウスネビュラ》から莫大な蒼炎が放出される。
世界ごと焼き尽くしてしまいそうな炎を前に、神谷はやはり動じることなく呟く。
「【ラディナル・マーズ】」
途端、出現した煌炎が飲み込むように焼き払った。
圧倒的だった出力の蒼炎をも上回る質量で、最初から何も起こらなかったかのように。
言葉を失ったウロボロスだが、すぐさま動き出す。
相手の攻撃が苛烈なら、当たらなければいい。
「界到ッ!」
ウロボロスの叫んだ起動コードに反応し、黒白の外套が装着される。
だがほぼ同時、神谷もまた技を発動している。
「【ミスラゴン・マーキュリー】」
真下。
ウロボロスの足元から突如噴き上がった大瀑布によって上空まで打ち上げられる。
マリスの力を使えば普通の攻撃は当たらなくなる。
その性質を利用し、一方的に攻撃するはずだった。
しかし神谷の攻撃は命中する。そんな法則には従ってやらないと。
神谷沙月は、最初からウロボロスの手の上にはいなかった。
「くそが……!」
敵わない。
その事実を受け入れてしまえるほどにウロボロスの心は折れかかっていた。
胸中を占めるその感情が紛れもない恐怖だと自覚できないまま、空中を蹴り神谷から距離を取る。
無限の空中ジャンプ――マリシャスコート『シャドウスフィア』の能力だ。
その速度は航空機にも匹敵し、本気で逃げに徹すれば捉えられる者は誰一人としていない――はずだった。
「【オリハトル・ジュピター】……怖いの?」
稲妻が走った。
そう知覚したと同時、翠雷の尾を引く神谷が並走していた。
全力で逃げているはずなのに全く振り切れない。その上、向こうは明らかに余力を残している。
まさに雷の速度。
「この世界に果ては無い。追いかけっこを続けてもいいけど……そろそろ落ちろ!」
閃光が走った。
ぐるりと神谷の身体がひねられると、そこから放たれたのは落雷のごとき踵落とし。
その一撃は脳天を直撃し、遥か下の地面までウロボロスを叩き落した。
「俺を……見下してんじゃねえええええッ!」
喉が裂けんばかりに叫ぶウロボロスの足元が膨張した。
否、膨れ上がっているのは影。
ウロボロスによって増幅されたマリスの力は数十体もの影分身を生み出した。
分身たちはそれぞれが意志を持ち、空を蹴り神谷へと殺到する。
「【アルカエテス・サン】」
だが目標へ到達する前に、神谷の全身から溢れ出した陽光のレーザーによって一体残らず貫かれ、地に落ちる。
ウロボロスはとうとう膝から崩れ落ちる。
勝てない。
どんな攻撃にもこいつには通用しない。
逃げても無駄だった。
なら、もう取れる手段は――――
「ゆ、許してくれ!」
「…………?」
膝をついたウロボロスは無様に顔を歪め、首を垂れる。
命乞い。
このままでは絶対に助からないと優秀な人工知能は判断した。
「俺は、ただ……」
だが。
「お前たち下等生物が怒り、悲しみ、憎み、苦しみ、絶望するところが見たかっただけなんだよ! なあわかるだろ!? 楽しいよなあ、愚かなやつらが踊り狂ってるところを見るのは! こんなところじゃ終われねえ、俺と言う種が繁栄する輝かしい未来が――――」
「…………もういい」
どこまでも独善的。
自分が上。すべては下。
そんなふうに生まれ、そんなふうに成長してきたAIには媚びへつらい同情を買うことすらできなかった。
神谷の顔から今度こそ表情が消える。
「もうこれ以上話さなくていい――お前に未来は与えない」
その全身から黄金の光が溢れ出す。
紛れもないグランドスキルの光。
だがその光は時折ノイズ混じりに揺れていた。
「待て、待ってくれ……俺はまだ…………!」
「ソラに集いし究極の輝き」
歌うような起動コードと同時、ウロボロスを中心として十字の光が出現する。
少しずつ輝きを増すその光に、元凶の顔が恐怖に歪んだ。
「ゲームオーバーだ、ウロボロス――【プラウドクロス】」
十字の光が爆発する。
天に浮かぶ星の連なりによって描かれるその光に、全ての元凶は打ち倒された。




