317.OVER THE GAME
目の前でミサキがいなくなったという現実にへたり込んだフランはひたすら呆然としていた。
こんな結末があっていいのか。
こんなにもあっけなく、道は閉ざされてしまうのか。
「ふう、やっと邪魔な石ころがいなくなったぜ」
ウロボロスは……ミサキの姿と力を奪い取った元凶は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
一仕事終えたような――彼にとってはその通りだろう――すっきりとした表情だ。
すたすたという足音はミサキそのもので、しかしわずかなテンポの違いが不快感を煽る。
目の前にいるのは、確かにミサキと同じ姿。しかし明確に違う何かが中に入っている。
中身が違うだけでこんなにも吐き気を催すのか。
「おい、餌。改めてお前を解析し、取り込むぞ。言い残すことがあれば聞いてやるぜ――『わたしは優しいからね』」
差し伸べられた小さな手。
フランはその手を、乾いた音を立てて払った。
「…………その顔で。その声で。あの子を騙らないで」
肩を震わせるフランはすでに虫の息だ。
彼女自身でさえ、もう動けないと思っていた。
しかし、ゆっくりと、ふらつきながらも立ち上がる。
棒のようになった足を必死に立てて、錬金剣を握りしめる。
「虫唾が走る……!」
「あー……やっぱもう一度痛めつけねえとダメか。身体も、心も」
面倒そうな口調に反して、ウロボロスの口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。
捕食者が草食動物をいたぶって遊ぶ。そんな嗜虐がありありと滲む笑顔だった。
塔の外。
ホームタウン『アニミ・ラティオ』。
マリスが根絶されたはずの街には、突如として巨人型のマリスが出現していた。
「攻撃来ます!」
「俺が入る!」
振り下ろされる隕石のごとき拳に、くまは構えた盾でもって対抗する。
だが、サイズが違いすぎる。数秒持ちこたえた後吹き飛ばされ、屋根の上を転がった。
「があああああっ!!」
「くまさんっ!」
全身に走る痛みに、くまは思わず叫ぶ。
そんな様子を見下ろすのっぺりとした埴輪にも見える巨人は、現実なら全長が数十メートルにも上ろうかという巨体だ。
本当に前触れなく出現した巨人のマリスは、無感情な動作でひたすらに街を破壊し続けていた。
「そろそろ倒れなさいよデカブツ!」
悪態を叫びながら、カーマは双剣で振り下ろされた黒い長腕を転がるようにして切り刻む。
手応えはある。ダメージは与えているはずだ。
しかしあまりにも無感情、無反応。
いつになったら倒れるのか想像もつかない。
くまが攻撃を受け止め、翡翠とカーマが攻撃する。
なんとか成立している戦法ではあるが、少しずつ体力が削られ、そして街への被害も避けられてはいない。
このままではすり潰されるように敗北する可能性も充分にありうる。
そんな状況に憔悴する中、翡翠がぴくりと肩を揺らし、虚空に視線を投げた。
何かを探し出すかのように。
「翡翠、呆けてたら死ぬわよ!」
「――――ミサキさんがいません」
「はあ!? ログアウトできないのにそんなわけ……くっ!」
落下してきた拳をかわしつつ、カーマは翡翠の言葉について考える。
”あいつ”のことについて翡翠が嘘をつくことは無い。
ならばもしかして。
屋根の上を駆けて的を絞らせないようにしつつ、フレンドリストを開く。
果たしてそこには、やはりと言うべきか。
オフライン表示のミサキの名前があった。
「…………なにが起きてるわけ……?」
目蓋を開いた瞬間、どこにいるのかわからなかった。
”神谷沙月”は――今、現実世界で目を覚ました。
「……………………」
ピピー、ピピー、とけたたましい警告音が顔に引っかかったゴーグルから鳴り響く。
震える手でゴーグルを外し、あたりを見回して、この場所が寮の自室であることを確認した。
ログアウトされた。強制的に。
目を逸らしたくても逸らせない、それが現実。
そして強制ログアウトされた際は12時間再ログインが不可能になる。
いや、そもそも例のイベントが開始してからあのゲームはネットワークからほぼ切り離されている。
つまり、もうあの世界には戻れない。
怖気がするほど静かな部屋に煩わしい警告音が鳴り響き、鳴り響き、鳴り響いて――――
「うわあああああああっ!!」
止まった。
がむしゃらに放り投げたゴーグルが壁にぶつかり、床に落ちたことで。
嘘だ、嘘だとそればかりが薄く開いた唇から漏れる。
あの世界にはもうログインできない。
何か奇跡が起こって戻れたとして、レベルは1。
あの世界で培った全てをあのウロボロスというAIに奪われてしまった。
運営本社に行く?
いや、ここからでは電車を使って二時間はかかる。
それに……この身体では。
「はあっ、はあ……はあ……」
明らかに発熱している。
意識は朦朧として、身体にろくな力が入らない。
過剰にマリスの力を使った影響だろう。
自分で使った力とは言え、ここでもあのAIに阻まれるのかと怒りが湧き上がる。
しかし感情だけでは身体は動かない。
ベッドから転がり落ちる。そうしなければ降りることすらできなかった。
したたかに足を打ち付けたが、痛いなどと言っていられなかった。
這いずってでも何か行動を起こそうとしたところで、勢いよく部屋の扉が開いた。
「神谷! 何かすごい音がしたが……おい、どうした!」
入ってきたのが神谷よりも一回り以上年上の女性――寮長の北条だということにも一瞬気づかなかった。
それほどに神谷は弱り切っていた。
それでも止まるわけにはいかなかった。
「おい……やめろ、止まれ! どこに行くつもりなんだ!」
四つん這いになっていたところを抱き留められて動けなくなる。
その温かさに全てを委ねてしまいたくなるが、それでも神谷はもぞもぞと弱々しくもがき続ける。
「行かなきゃ……わたしが……行かないと、みんなが……」
「そんな身体で何ができるんだ!」
ぼた、と胸元に何か温かいものが落ちた。
ゆっくりと見下ろすと、シャツの胸元が赤く染まっている。
着ていたのは白いシャツのはず――そこまで考えてやっと気づく。
これは鼻血だ。ぼたぼたと垂れ続け、シャツを染めているのだ。
北条の目を見れば、そこに映る自分の目が血走っていることもわかる。
明らかに正常ではない。しかし神谷は、まだ自分に力が残っているようで嬉しかった。
自分はまだ戦える。
「何があったのかは知らない。だけどもう休め。休んでくれ。じゃないと私はお前の母親に顔向けできない……!」
「……ごめん、なさい。だけど……今だけは許してください。わたしが行かなきゃダメなんです。助けたい人がたくさんいるんです……!」
もはや死に体でありながら、強い意志を秘めた瞳。
こんな目を、北条は以前も見た気がした。
しかし。
「それはできない。私は大人だ。大人は子どもを守るためにいるんだ。待ってろ、救急車を呼んでくる。絶対に動くなよ」
小さな神谷を軽々と横抱きにしてベッドに横たえると、北条は急いで部屋を後にした。
ああ、あの人は……絶対に口にしないだろうが、今の自分にとっての親なのだなと思った。
それだけの温かさを受け取った。
(ありがとう。だけど……ごめんね)
心配をかけた分はあとで死ぬほど謝る。
説教だっていくらでも受ける。
だから今だけは。
もう一度、残された力を振り絞ってベッドから起き上がる。
そこで――聞こえるはずの無い声を聴いた。
――――――――ミサキ。
「…………え?」
それはフランの声だった。
そしてそれだけではない。
翡翠、カーマ、それにスズリやカンナギにくま、ルキにフェリ、リコリス……だけでなくウロボロスに取り込まれたラブリカやライラックやエルダまで。
神谷の仲間たちの声が聞こえる。
幻聴だろうか。
極限まで追い詰められた神谷の精神がありもしない声を再現しているのか。
「……違う。絶対に違う!」
例えこれが誰にも聞こえない声であっても関係ない。
今、神谷には聞こえている。ならば絶対に、そこに在るのだ。
ベッドから降りる。不思議と身体に力が戻っていた。
壁にぶつかって床に落ちたVRゴーグルを見下ろす。
そこに手を伸ばし、伸ばし、そして。
 




