316.GAME OVER
纏った悪意がほどけていく。
それに伴い右手の錬金術の剣もまた、空気に溶けるようにして消えていった。
「…………勝っ、た」
完全に捉えた。
そんな手ごたえがあった。
背後を見れば白瀬のアバターが倒れている。そこからは、もうマリスの気配を感じない。
巣食っていたウロボロスは、おそらく消えてしまったのだろう。
(ありがとう、みんな…………)
全部終わった。
ここまで一緒に戦ってくれた仲間たちに感謝を抱きつつ、へたり込んだフランに歩み寄る。
「大丈夫? 立てる?」
「ごめん、ちょっと無理かも」
力無く笑うフランに苦笑を返し、ゆっくりと手を差し伸べ――そこで。
フランの顔色が一変した。
「ミサキ、後ろっ!」
一瞬のことだった。
一瞬のことだったから間に合わなかった。
フランの声に振り返る前に、背中が焼け付くような激痛が走る。
「がっ……は……!」
身体が痺れて一切の身動きが取れない。
全身が空間に縫い留められたかのように指一本として動かせず、しかし何とかわずかな力を振り絞って首を動かし再び背後を見る。
そこには白髪赤眼の少年――ウロボロスがいた。
完全な実体ではないのか半透明だ。しかしその腕は間違いなくミサキの背中に突き込まれている。
『やっ…………と捕まえたぜ』
「あなた、この期に及んで何を……!」
少年は戦慄するフランを鼻で笑う。
『負けたくせに、ってか? 粋がるなよ』
痛みが続く。
そしてそれに伴い奇妙な感覚があった。
まるで自分の中から何かが抜き取られているような。
『こちとら最初からまともに勝負なんざするつもりはねえんだよ――さて、ミサキにはホンット苦労させられたぜ。アストラル・スキャンもすり抜けるわこっちの干渉はろくに受け付けねえわ……白瀬にアバター取っ換えさせようとしたのに拒否するしよ』
「……あ、の時の……!」
――――君のアバターだが、今なら正常なものへ引継ぎすることもできる。装備やレベル、スキルポイントなどは全てそのままでね。
――――遠慮しておきます。
白瀬と初めて出会った時のあの会話もそういうことだったのか。
しかし運営側から干渉ができないとは、いったいどうして……そんな疑問も激痛に塗りつぶされる。
『だがやっと油断したな。おかげでじっくりお前の身体をいじくれる機会がやってきたぜ』
「ぐう……う……うあああ……!!」
「ミサキ……!」
『お前には散々邪魔されたからなあ。出来る限り絶望してもらいたいもんだが……そう言えばお前、この塔の門番にこんなこと言っていたよな? ――――『数値なんて大した意味ないよ』とかなんとか』
門番。
ウロボロスより与えられたイリーガル、『閾値』によりカンストしたステータスを手に入れた男。
挑発に怒ったミサキが叩き潰した敵だ。
『じゃあ見せてやるよ。どうにもならないステータスの差ってやつを』
ずるり、と腕が引き抜かれ、支えを失ったミサキが倒れ込む。
全身ががくがくと痙攣し、壮絶な寒気に襲われる。
何か、取り返しのつかないものを奪われたような。
「わたしから……なにを奪ったの……?」
『へえ、わかるのか。いいだろう、教えてやるよ――俺が奪ったのは』
ぐじゅり、とモザイクがかかるようにウロボロスの姿が歪む。
黒いセミロングに黒い両目、小さな背丈へと――ある種見慣れた姿へと。
「お前の”セーブデータ”だ」
目の前にいるのはミサキだった。
ミサキそのものの姿がそこにいた。
声もミサキとまったく同じ響きで、
ウロボロスがミサキの姿を取っている――信じたくはないが、それが現実らしかった。
そして同時にミサキは自分の身体にも変化が訪れていることに気づいた。
その姿は。
「なに、これ……初期アバター?」
身体自体はそのままだ。
しかし装備はこの世界に初めて訪れたものだ。
藍色のシャツにカーキのショートパンツ、革のブーツ。
不安になるほどに全身が軽い。
「自分のステータスを見てみな」
「…………」
震える指でメニューサークルを呼び出し、ステータス画面を開く。
そこに表記されているレベルは……1。
何度見ても、間違えようも無く。すべての数字が初期化されていることを物語っていた。
「どんな気分だ? お前が培ってきたこれまでの全てが俺のものになっちまった気分は」
「…………っ」
ニタニタと、ミサキが絶対にしないような笑みを浮かべてウロボロスが見下ろす。
ミサキはただ歯を食いしばることしかできなかった。
「大事な大事な相棒からもらった装備も全部奪われちまったぞ! なあ! 何とか言ってみろや!!」
鈍い音と共にウロボロスのつま先がミサキの腹に突き刺さる。
息が詰まるような衝撃で、抵抗もできずに床を転がった。
「ミサキっ!?」
「……っ……あ……」
ぼやける視界でウロボロスの――さっきまでの自分の姿を目にする。
着用されているのは蒼い宇宙のごときグローブ、《シリウスネビュラ》。
白く輝く雪のブーツ、《プリズム・ブリザード》。
紫色のジャケット、《アイドライザー》。
そしてマリスの力を宿した灰色のマフラー、《ミッシング・フレーム》。
ウロボロスの言う通り、それらすべてがフランの作ったもの。
そしてそのひとつひとつにフランとの思い出が詰まっている。
バーチャルの世界だというのに吐き気がする。
それは腹を蹴られたからというのに関係は無い。
大切なものを奪われ、好き勝手に汚される――そんな現実がおぞましくて仕方ないからだ。
今のキックもほとんど力を入れていないのだろう。
本気で攻撃すればレベル1のミサキはすぐに死んでしまうから。
そうなれば長く弄ぶことができないから。
「おら、抵抗してみろよ。数値なんて大した意味ねえんだろ?」
やれるものならやってみろ。
そんな嘲りを含んだ言葉に心が折れそうになる。
――――いつもなら。
「…………全部奪われても、なにもかもを失っても」
ふらふらと立ち上がる。
芯の通っていないその立ち姿には、しかし光を失わない強い意志が宿っていた。
「わたしは、わたし。だから……戦うんだ」
後ろにはフランがいる。
それだけで戦う理由になる。
例え勝てる見込みがかすかにも残されていなくたって変わらない。
大丈夫だよ、と背後のフランに唇の動きだけで伝える。
だが、その姿は。
その瞳は。
「は、ハハハハハハハ!!」
空間が歪むほどの速度。
一気に接近したウロボロスはミサキの細い首を掴み、そのままの勢いで向こうの壁に叩きつける。
背中に痺れるような痛みが走った。激突によるダメージは最大HPに比例するもので、即死は免れる。
そこまで理解して遊んでいるのだ。
「今にも折れそうなツラして……瞬きすりゃ泣き出しそうな目をして……! 何が戦うだよ!?」
「げほっ、ぐ……っ」
「勝てると思ってたんだよな? でも残念、最初っからまともに戦うつもりなんてねえんだよ。”勝負”してたのはお前だけ。俺はAIなんだ、バックアップだって用意してある……たとえ消えても次があるんだよ」
「バックアップ……」
考えてみれば当たり前だ。
ここまで技術の粋を集めたAIに予備がないわけがない。
「アストラル・スキャンは俺の感情データを集めるためのもの。だが、それ以外にも用途がある」
「まさか……」
「そう、プレイヤーに俺の一部を植え付けるんだ。ウロボロス因子とでも呼ぼうか」
ウロボロス因子。
それが彼のバックアップの名。
そして初ログイン時のアストラル・スキャンが避けられない以上、そのバックアップは全てのプレイヤーに残されている。
「マリスがデータを回収する仕組みってのもそれに関係しててな、マリスに感染し肥大化した精神は俺の因子と癒着するんだが、癒着した因子をむりやり回収するから精神の一部が剥がれてしまう。だから感染者はメンタルが衰弱したり最悪意識不明になるわけだ」
「だからラブリカはあんなに弱ってた……の」
「一度でもマリスに感染した奴以外は俺の因子が仕込まれたままだ。お前の仲間にもな。そして……俺がもし完全に倒されるようなことがあれば」
そこでウロボロスは言葉を切り。
吐息がかかるほどの距離にまでミサキと同じ顔を近づけ、邪悪な笑みを見せつける。
「俺の因子が全て起動し、宿主の全てを乗っ取る」
「うそ…………」
「真実なんだなァこれが。わかるか? ……この俺が万が一にでも倒されるようなことがあれば! 人間どもを乗っ取った”俺たち”が一気に現実へと解き放たれるってことだ!!」
下卑た哄笑が響き渡る。
ミサキはいつしか俯き、ウロボロスの語った事実が頭の中を巡っていた。
――――なら、いくら戦っても意味はない?
こんな悪意の塊が大量に現実へと解き放たれれば――それも現実の人間を乗っ取る形で蔓延すれば。
どうなってしまうのか想像もつかない。
このゲームをプレイしている人口は相当のものだ。
日本だけでも数百万人。世界中を含めればその何倍にも上るだろう。
そんな人数が全てウロボロスになり替われば。
世界は終わる。このゲームも、現実も。
全てが悪意に蹂躙される。
「さて、絶望ついでにタイムリミットの宣告だ」
「え?」
にやにやと。
依然ウロボロスは悪意に満ちた笑みを浮かべる。
ミサキの脳裏には耳障りな電子音が響いていたが、それが何かを思い出すことはできなかった。
「知らないとは言わせないぜ。このゲームにはタイムリミットがある――連続ログイン時間っていうな」
連続ログイン時間。
それはプレイヤーの健康を守るため、ハード側から設定されているタイムリミットのことだ。
設定は三時間で固定。
そう言えば今日この世界に来てから時間を忘れていたが……しかし。
煩わしい電子音が鳴り響き続ける。
「……待ってよ、ログアウトはできないはず……」
「……クク、ハハハッ! お前マジで気づいてなかったのかよ。……まあそれも当然か、お前はログアウトなんてせずに正義の味方ヅラして戦おうとするもんなあ! 俺は言ったはずだぜ。お前のアバターには干渉できなかったって」
「…………ッ!?」
「やっと気づいたか。最初からお前のログアウト機能はオミットされてなかったんだよ! だから時間制限内に俺をどうにかできなかった時点でお前の負けってことだ!」
戦慄する。
ならば、自分はこのまま――――
「さあゲームオーバーだ。ゲームなんて卒業して、現実と向き合う時がやってきたんだよ」
「待って、こんな……こんな結末……!!」
「じゃあな――――これにてスタッフロールだ」
目の前で手が振られ。
そして。
《連続ログイン時間上限に達しました》
《強制ログアウトを施行します》
そんな合成音声と共に、ミサキの視界は暗転した。




