313.淵源たる悪意
拳に鈍い痛みが走る。
しかし殴られた彼の痛みはこの何倍にも上るだろう。
顔面に突き刺さった拳に吹き飛ばされた白瀬の身体は床に落ちると少しだけ滑って止まった。
なんとか立ち上がろうとしたのか身体を震わせるが、すぐに力が抜ける。
もう一片の気力も残っていない。
「白瀬さん……」
ゆっくりと歩み寄ったミサキが傍らにしゃがみ込む。
その気づかわしげな視線に、思わず口元がわずかに緩む。
さっきまであれほど戦意をみなぎらせていたというのに、そんな顔ができるのかと。
いや、おそらく彼女は戦っている間もずっと自分のことを案じていてくれたのだろう。
だからこそあれだけ必死に訴えかけてきたのだ。
「……本当はわかっていたんだ。どんな手段を使ったって蛟地が蘇るはずがないって。だけど……それでももしかしたらと思わずにはいられなかった。進み続ければ奇跡が起こるんじゃないかって……」
「哀神さんがあなたのことを心配してましたよ。自分では無理だから止めてくれって……あは、部外者にすごいこと頼みますよね」
「そうか……。僕はすぐ近くにいる仲間のことも見えてなかったんだな」
白瀬は、弱り切ってはいるが憑き物が落ちたかのようにどこか晴れやかな顔をしていた。
彼がこれからどうなるのかはわからない。しかしここで止まれたのはきっと良かったのだとミサキは信じていた。
おそらく白瀬自身も本当は誰かが止めてくれることを望んでいただろうから。
その気持ちが、ミサキには少しだけ理解できる。
「もう全部終わらせましょう。ウロボロスを消去して、イベントを終了させて――――」
『はははははははははははは! ……ああ楽しかった。いいゲームだったよ』
どこからか哄笑が響く。
それは他ならないウロボロスのものだ。
直後、かすかな稲妻のようなものが空間に走る。
「ぐっ!? …………ぁ」
びくん、と倒れた白瀬が痙攣する。
すると力を失っていたはずの白瀬のアバターがむくりと起き上がった。
その顔には人の悪意を煮詰めたかのような笑顔が浮かんでいた。
「だけどまだエンディングにはならないんだよなァ!」
全方位に衝撃波が炸裂した。
突然のことに反応できなかったミサキは吹き飛び、ノーバウンドで壁に激突する。
ずるずると座り込む中、繭に囚われたフランの姿が天井に再出現したのを見た。
「う、ぐ…………」
ミサキの身体も精神もかなり限界が近い。
このイベントが始まってから何度もマリスの力を使い、今回に至っては哀神との戦いから纏いっぱなしだ。
いくらフランが安全に作ったと言えども元が危険な力。長時間の使用はそれだけ心身へのダメージもかさむ。
霞み始めた視界の先、空中に浮かび上がった白瀬の首元から顔にかけて螺旋状の黒い蛇の紋様が浮かび上がるのが見える。
ミサキは直感した。今、彼の中にウロボロスが巣食っている。
「良い見世物だったぜ。まあまあ暇つぶしにはなったかな」
「ウロボロス……!」
よろよろと立ち上がり、ミサキはウロボロスを睨み付ける。
「お前はいったい何が目的なの」
「あ? 決まってんだろ。俺を生み出してくれた白瀬たちのため……心を得て、完全に蛟地として進化するのが――――」
「嘘つかないで」
遮るようなミサキの言葉に思わずといった調子で目を見開くウロボロス。
しかし直後、嫌悪感を喚起するような歪んだ笑みを見せる。
「……クク、バレんのが早えよ。まあお前の言う通りだ。『俺』は蛟地になるとかどうでもいいんだよな」
ウロボロスは楽しくて楽しくて仕方ないとでもいうように身体を丸めて震わせる。
それは心が未完成とは思えないほどに真に迫った仕草だった。
ひとしきり笑ったウロボロスは冷めたようにため息をつく。
「つーかそもそも成れねえしな。記憶を集めたからってそいつ自身になれるとかちゃんちゃらおかしいぜ。確かに俺の中に蛟地とやらの記憶は存在するが、ただの他人の思い出でしかねえ。この口調は……まあ、そいつのものらしいが」
ウロボロスはつまらなそうに鼻を鳴らす。
これまでの白瀬たちの努力や苦悩を全て見下し、踏みにじることに躊躇がない。
心底どうでもいいとすら思っているだろう。
「勝手なエゴで生み出しておいて、自分たちの望むように育てだと? 笑わせてくれるよな」
「誰だってそうだよ。みんな誰かのエゴから生まれてくるんだから」
「ああ、だから俺は俺の好きなように生きると決めた。てめえら人間を資源とし、完全な心を得て人へと進化する――俺は”俺”になるんだ」
自己実現。
それはAIだけではない、人間が望む生き方の形だ。
ミサキにも覚えがある。自らの出自に悩んだことだって一度や二度ではない。
だが、
「それは他人を犠牲にしてまですることじゃないよ」
「いいや。犠牲にしてでも為すべきことだ」
互いの意見は平行線だ。
譲歩の余地は一切なく、ただひたすらにぶつけ合うだけ。
これまで相対してきた哀神や白瀬はまだわかりあう糸口のようなものが見えた。
しかしウロボロスは違う。自己の欲望だけに従い、迷うことがない。
「このイベントで死んだプレイヤーの精神は自動的に俺に吸収されるよう設定されている。下等な人間の大量の精神データをこの身に取り込み、その上であのティエラをも同化すれば完全な人になれるだろう」
ウロボロスの言う通り、負けた者は青い光となってどこかへと飛んで行った。
あれはこの男に吸収されたということだったのか。ならばミサキが倒したエルダや哀神も、今はウロボロスの中にいる。
思わず奥歯を噛みしめる。こいつを倒さなければこの世界で倒された全員が現実世界で目覚めなくなってしまう。
「俺の中に存在するすべての感情は悪意に由来する。性悪説って知ってるだろ? 白瀬たちから抽出されて出来上がった俺は……運悪く、もしくは必然的に悪性だけを持って生まれたのさ。だから”それ以外”を知る必要があった。てめえを始めとした、誰かのために戦うような愚者をあぶりだすためにな」
「…………なるほどね」
得心がいった。
どうしてウロボロスがこんな回りくどい手を――イベントという形式をとったのかが疑問だった。
つまり彼は善性をラーニングしたかったのだ。自分にはない想いを我が物として人へ至る。
だが、彼の言葉には矛盾があった。
「さっきから人間を見下したようなことを言ってるけど……その割には人間になりたがるんだね」
「――――……」
「もしかしてさ。自分にないものを持ってる人間が羨ましくて嫉妬してたんじゃないの?」
空白が生じた。
誰も、何も言わなかった。
唖然と口を開くウロボロスは、しばしそのまま固まっていたかと思うと、
「…………お前は最初から邪魔だったんだよなァ」
その身体から。
ウロボロスの巣食う白瀬のアバターから、黒い霧のようなものが溢れ出す。
それは彼の感情そのものを表しているような禍々しさで空中に揺れる。
「こっちからろくに干渉できねえし、マリスに対抗しやがるし。あーあ……お前さえいなければなぁッ!!」
逆上。
濃密な黒霧があたりに撒き散らされる。
「第二ラウンドだ。お前は取り込まねえ。生まれてきたことを嫌ってほど後悔させてから跡形も無く消してやるぜ」
これまで漂わせてきた喜色は一切無く。
この世界を支配するAIが、ミサキという敵を消去せんと牙を剥く。




