312.ミラーマッチ
だだっ広い研究室からフランの姿は消え、ウロボロスの姿を映すモニターもまた引っ込められた。
立ちはだかるは数か月マリス漬けにされた元運営チームのリーダー、白瀬。
以前は素顔を隠した”黒幕”として神のような力を振るいミサキと熾烈な戦いを繰り広げた相手だ。
さて。
今この時、そんな人物がミサキとぶつかればどうなるか。
「ああああっ!!」
絞り出すかのような叫び声とともに鈍い音が響く。
倒れたのは白瀬の方だった。
しかし白瀬はふらつきながらも立ち上がり、何条もの黒い鎖を伸ばしてくる。
マリシャスコートを纏ったミサキはその軌道を読み切り、鎖のうちの一本をつかみ取ると全力で引っ張った。
「ぐっ……!」
白瀬の身体が浮く。
強化されたミサキの膂力によって一気に引き寄せられ、迎え撃つ拳が顔面に突き刺さった。
またも白瀬は吹き飛ばされ、床に転がる。
「……僕は絶対に諦めない。この身がどうなろうとも、必ず蛟地と再会するんだ!」
しかし立ち上がる。何度でも。
諦めることなど毛頭考えていないような意志がその瞳の奥に輝いている。
マリスの原液に何か月も浸かっていたとは思えない理性が灯っているのが分かった。
普通はマリスに感染しただけで平常な思考は失われる。
ミサキのマリシャスコートも敵のマリスから手に入れた結晶を薄めに薄め、何重もの安全装置を搭載してようやく使える代物だ。その上で長く使用すれば精神に異常をきたす危険なものであることには変わらない。
それほどまでに白瀬の精神力が強靭だということなのか。
それほどまでに叶えたい願いが――――
「もうやめてよ! こんな戦いに意味なんてない!」
「黙れ! 君に……君なんかに何がわかる!」
知っている。
彼がどうしてそこに立ち、必死に戦っているのかミサキは知っている。
昔亡くなった友人との再会。初めて出会った時に、彼の想いを知った。
これまでこの世界で起きた事件や、この世界そのものが、全てそのためだったと知った。
以前のミサキにも会いたい人がいた。
何を捨てても犠牲にしても利用しても、それでも会いたい人がいた。
結果としてミサキは全てを失いかけた。取り返しのつかない後悔を抱え、そのまま死んでしまうところだった。その時の傷は未だ癒えてはいない。
だから、今戦っている敵が過去の自分の姿そのものに見えて仕方がない。
再び拳が振るわれる。
白瀬は回避しない。おそらくできないのだろう。
その足取りはおぼつかず、動作は明らかに精彩を欠いている。
立っているのが精いっぱいと言った様子だ。
もう自分が何を殴っているのかミサキにはわからなかった。
「はあ……はあ……」
自分の映る鏡をひたすら割り続けているような気分だった。
鏡面が砕け、自分の顔もまた千々に引き裂かれる。
得られるものはひと握りの優越感と、壮絶な虚無感。
この戦いに負けることは無いだろう。白瀬よりも明らかにミサキの方が強い。恐竜にトカゲが勝てないように、あるいは象が蟻を踏みつぶすように、ミサキの勝利は約束されている。
なのに。
白瀬に一撃加えるたびに、ミサキの心は軋み、悲鳴を上げる。
彼の苦痛を、悲しみを、心からの叫びを、自分のものとして受け取ってしまう。
どうしても会いたい誰かのために、死に物狂いで戦う姿――以前の自分はこんなふうに見えていたのだろうか。
「もう止まって。お願いだから……」
「止まれない。止まれるもんか」
息も絶え絶えだった白瀬の身体にわずかにだが活力が戻りつつある。
その身体を動かしているのは、願う気持ちの強さか。
今すぐに壊れてもおかしくない彼の心が加速度的に燃え上がっていくのを感じる。
何を言ったって止まらないのは知っている。
なぜなら他でもない自分がそうだったから。
「笑いたければ笑え! 僕は何としてでも彼を取り戻す!」
「……笑わないよ。だってわたしも同じだったから」
――――ああ。あの時自分を止めてくれた友人たちは、こんな気持ちだったのだろうか。
本当に酷いことをさせたのだと再確認する。心が痛くて痛くて――ばらばらになりそうだ。
ミサキは、まるで世界の醜さを目の当たりにした幼い少女のような表情で言う。
「死んだ人はね、帰ってこないの。どれだけ望んでも、叫んでも、絶対。見た目を似せても、性格を――心をそっくり再現しても帰って来てくれないんだよ」
白瀬は思わず息を呑む。
それは泥にまみれようと輝きを失わない天使のごとき面持ちだったから。
だが、それでも譲れない。
譲るわけにはいかない。
「……ふざけるな! やっとここまで来たんだ、僕たちのウロボロスが完全たる心を得て、蛟地へと回帰する。そうすればやっとあの時の後悔が満たされる……!」
白瀬は縋っているのだ。
目の前にある可能性に、必死に手を伸ばしているのだ。
それが本物だろうと偽物だろうと関係ない。
希望と言う名の輝きを見つけたら、手に入れる以外の道が閉ざされてしまった。
そんなことはミサキにもわかっている。
だからこそ引けない。声を絞り出し、張り上げる。
「どれだけその人に似せたところで、その人自体が戻ってくるわけじゃない! 例え”それ”が完成したとして、偽物と仲良くしている君を見て、死んだ彼はどう思う!? あなたのやってることは親友に対しての冒涜だよ!」
「知ったような口を聞くな! お前にあいつの何が分かるというんだ!」
「あなただって何にもわかってないくせに! 死んだ人の気持ちなんて、もう二度と! 誰にもわからないんだよ……!」
「……っ……誰が何と言おうとこの計画は止めない。今まで協力してくれたみんなのためにも、何としてでもお前を倒す! 僕は絶対に諦めないぞ! 諦めるもんか!」
過去を取り戻すことを選んだ男と、あくまでも未来を追い求める神谷。
それは、ただ見る方向が違うというだけで、どちらが正しいかなど誰にも決められない。
だから。
少なくともこの場で勝敗を決するのは――力ではない。
純粋な、想いの強さのみ。
「わたしもあなたと同じだった。お母さんに会いたいって気持ちで、大切な人たちを犠牲にした。白瀬さんがどれだけの悲しみを背負っているのかはわたしにはわからない。でも、この先絶対に後悔するってことだけはわかるよ」
自分がそうだったから。
あんな想いはもう誰にもしてほしくない。
これはミサキのエゴだ。
白瀬本人はこんなことを望んでいない。彼はこの先に進むことを望んでいるのだから。
しかし、
「だからこれ以上は進ませない。わたしの全てをかけて、絶対に止める!」
「邪魔を……するなァァァァッ!!」
叫ぶ白瀬の身体が左右に裂け、凄まじい量の鎖が飛び出した。
それらは縦横無尽に駆け巡り、ミサキに殺到する。
「速い……!」
先ほどまでとはまるで違う。
無数の鎖は捉えるのが困難なスピードでミサキを取り囲み、動きを封じる。
まるで台風の目に閉じ込められたかのような圧迫感。
そしてその隙間から時折鎖が伸びて攻撃してくる。
「……ッ」
鎖の牢獄。
こうしている間にも鎖は幾度もミサキの身体を掠めていく。
どこから、どのタイミングで飛んでくるかわからず満足な回避ができない。
おそらく倒すよりも時間を稼ぎたいのだろう。
ウロボロスがフランを解析するまで持ちこたえれば白瀬の勝ちだ。
「させないよ。あなたの望みは、わたしが全部握りつぶす」
ミサキの足元から影が噴き出す。
漆黒の飛沫はミサキの全身を取り巻くと、全方位を槍のごとく貫いた。
鎖が引き裂かれる。
牢獄が破られる。
その向こうには絶望の表情を浮かべた白瀬が垣間見えた。
「…………ごめんね」
地面を蹴り、空中を蹴り、稲妻のように一瞬で至近距離へ。
拳を握る。間近に見える白瀬の瞳には、悲しみに満ちたミサキの顔が揺れていた。
「はあああっ!」
ためらうことなく拳を突き出す。
まるで過去の自分を打ち倒すように――白瀬の望みを打ち砕いた。




