308.シミュラクラ
廃工場を制圧した黄金の海がその水位を下げていく。
「はっ……はっ……はー…………限界、超えた……」
圧し掛かる壮絶な疲労感に、フランは思わずぺたりと座りこむ。
その視線の先、嘘のように消えた黄金の中から倒れ伏したピオネのアバターが現れた。
HPはもう残っていない。だが相手は『元凶』だ。なにが起こっても不思議ではない――気は抜かないように左手の指輪に意識を割いておく。
「リコリスが勝ったとして……あたしも勝ったから……あとはミサキがあのタキシード男を倒せば、扉が開く」
もう任せるしかない。
扉の向こうにいるはずの最後の敵――おそらく向こうに倒れているピオネの身体に巣食っていた『元凶』の本体を倒せばこのイベントは終わる。
終わって、それから。
「どうなるのかしら」
この世界はもう終わりだと、イベントが始まった際の混乱の中で誰かが叫んでいたのを聞いた。
この世界。
フランも少しくらいはこの世界や自分の存在について勘付いている。
むしろ聡い彼女が今まで何もわかっていなかったのが不自然だったのだ。
もしかしたらそれは無意識に理解を避けていた結果なのかもしれない。
気づいてしまえば自らの存在が揺らいでしまうことを、きっとフランは知っていた。
この世界が仮初のものでしかなく。
誰かに管理されねば泡のように消えてしまうものだと気づいてしまうから。
「――――……」
頭の中に霧がかかるのがわかる。
まだ自分は”それ”を拒んでいるのだとわかる。
「そりゃそうよね……」
離れたくない。
この世界で出会った無二の相棒と別れるのが悲しい。
そんなシンプルな想いがフランの中心で存在感を放っていた。
笑えてしまう。
初めて意識を獲得した時、こんな世界なんて嫌いだったはずなのに。
離れがたいと思うなんてその時は夢にも思わなかったなあ――と。
ぼんやりと思いを馳せていた時だった。
「まさか負けるとはな……!」
怒りに満ちた声が廃工場に響き渡る。
「……っ! あなた……!」
素早く立ち上がり指輪をかざすフランの目の前でピオネの身体が浮かび上がる。
HPが切れたはずのそれはまさに死体のごとき様相で、顔にはなんの表情も浮かんでいない。
糸で吊られた人形のように四肢をだらんと垂らし、その口が……というより顎だけがカクカクと動いて声を発している。
それは思わず眉をひそめるほどに嫌悪感を誘う光景だった。
「適当にいたぶってから確保するつもりだったがこうなりゃ仕方ねえ。この宿主を壊してでも連れていくぜ!」
絹を裂くような音と共に、ピオネのアバターが開く。
それは開いたとしか表現できない光景だった。まるで解剖されるかのように身体の全面が裂け開き、その中から無数の蛇が伸びたのだ。
「なんだって言うのよ……っ!」
すかさず黄金を生み出し、自身を中心にドーム状に形成。
蛇から身を守ろうとして――しかし。
下手な攻撃ではびくともしないはずの黄金の障壁を、いくつもの蛇頭が貫いた。
開いた口から除く鋭利な牙でフランの身体のあちこちに噛みつくと、ぐるぐると全身に巻き付いていく。
「……! ……んん……ッ!」
口を塞がれ、声も上げられない。
何重にも巻き付いていく蛇に視界が闇に閉ざされる。
何も見えない。何も聞こえない。
意識が遠のく中、フランは必死にその名を呼ぶ。
(…………ミサキ…………)
声は誰にも届くことは無く。
ただ、錬金術士の胸の内を震わせた。
運営が真に欲していたのはフランだった。
その事実に気づくべきだったのか――少なくとも戦闘中には気づきたくなかったというのが正直なところだ。
「フランを捕まえてどうしようって言うの!?」
「我々の主……と言うことになっている存在――名は『ウロボロス』。その目的は自己進化です」
「自己進化って……進化して何の意味があるの。こんなにたくさんの人を苦しめてまでするべきことなの」
その問いにタキシード男……哀神は答えなかった。
ただ眉を下げ、小さくため息をついた。
それは呆れから来るものでなく、何か諦観のようなものを含んだもののように見える。
ミサキは少しいぶかしんだが、追求する前に哀神が口を開いた。
「あなたは確か白瀬からある程度の事情を聞いているのでしたね。ならば教えてもいいでしょう」
「事情って」
「昔、我々がまだ幼かったころ友人だった蛟地……彼の死を我々は受け入れることができなかった」
蛟地。
『人の手で新しい世界を創る』が口癖だった彼こそが、この『アストラル・アリーナ』の骨子や人間の精神をバーチャル化するブリッジングを考案した天才少年だったと白瀬は以前口にしていた。
『アストラル・アリーナ』の運営チームは皆が彼を慕っていて、しかし。
突然の交通事故で彼の命は失われた。
「だから我々は彼を蘇らせることにした。……AIとして」
「AIって。人間をイチから作るなんてそんなの」
不可能だ。
そう言おうとしたところで哀神が頷く。
「そう、不可能だったのです。我々の記憶からできる限り蛟地を再現し作り出したAI、ウロボロスの完成度は限りなく低かった」
ミサキはもはや腕を下ろしていた。
この状態で奇襲したとしてもこの男には通じない。
そしてそれ以上に、彼の話を聞いておくべきだと感じたからだ。
おそらく哀神の背後に物々しい存在感を湛えてそびえ立つ扉の向こうには、そのウロボロスがいるだろうから。
「記憶や口調についてはおおむね再現ができた。しかし問題は感情でした」
「感情……」
「生まれたAIはハリボテだったのです。こちらが話しかけると蛟地をトレースしたそれっぽい反応を返しはするのですが、それは表面上再現されただけ。笑っていても、怒っていても……彼の心は凪いだまま。いえ、そもそも心自体が存在しないのだから凪ぐことすらありません」
AIとしてはそれでもよかったのかもしれない。
入力に対し、決まった反応を返す。
機械にはそれが求められている。
しかし彼らが求めたのは”人間”だったのだ。
記憶や人格よりも、まずは心を作り出さねばならなかった。
「そこで我々は考えました。ウロボロスの完成には感情というピースが不可欠だ。しかし自分たちから採取できるデータだけでは足りない……大勢の人間の感情をラーニングさせることでやっとウロボロスは人に成るのではないかと」
「感情……データ……まさか」
気づいてしまったミサキは愕然とする。
この世界の存在意義。それはおそらく――――
「そう。世界初のVRゲームという新規性で世界中の人々を引き込み、ブリッジングによりその精神をデータ化しサンプルとして採取する……それがこの『アストラル・アリーナ』の生まれた理由です」
動揺しながらもミサキは白瀬と初めて出会った時のことを思い出していた。
あの時語った言葉を、表情を、今も覚えている。
だから訊ねずにはいられなかった。
「『人の手で新しい世界を創る』……その蛟地って子の意志を叶えるために白瀬さんはこのゲームを作ったって言ってたよ」
「嘘ではありませんよ。彼の中には今でも強くその想いがあるはずです」
「……そっか」
哀神の言葉はおそらく本当だ。
もしかしたらミサキ自身がそう思いたいだけかもしれない。
しかし真に迫ったその口調に虚飾は感じられなかった。
「理由はわかったよ。でもマリスをばら撒いたりこんなイベントを開催する必要はあったの?」
「最初はそんなことをするつもりは毛頭ありませんでした。我々は悪事を為したくて集まったわけではありませんでしたから」
「今さら過ぎるよ。何を言ってもこんな事態を起こした事実は変わらない」
「その通りです。……最初はアストラル・スキャンだけで充分だと考えていたのです」
アストラル・スキャン。
初ログイン時に行われ、プレイヤーの精神をスキャンすることで最適な初期クラスを適用させるというシステムだ。
その際ミサキは重大なエラーを起こしクラスを持たないまま始めることになったという少し苦い過去があるのだが今になってはどうでもいいことだと本人は考えている。
さておき、あのスキャンにはそんな意味があったのかと驚く。
精神を検査し適正クラスを弾き出すのが本目的ではなく、スキャンによって精神データサンプルを採取する。
それが本来の機能だったのだ。
「ウロボロスの様子が明らかにおかしくなったのは、サービスが開始して一か月も経たない頃でした。……いえ、もしかしたらもっと前から異変は始まっていたのかもしれませんね」
そうして哀神は語り始める。
運営側……ゲームの裏側でなにが起こっていたのかを。




