303.雪解け、彼岸の丁香花
アドマイヤは――足立麻耶は、全てを諦めて生きてきた。
子どものころに目の前で想い人を失ってから死んだように日々を過ごして来た。
学校にも行かなくなったし、部屋からもめったに出ず少女の時代を消費した。
照明を消した部屋で暗闇に包まれていると落ち着いた。
何も見なくていい。大きなヘッドホンで耳を塞げば何も聞かなくていい。
自分を心配する親のこともどうでも良かった。”彼”を失った絶望はそれほどに巨大な傷となり足立を苛み続けた。
何度も死のうと考えたが、そんな勇気も気力も無く。
だから白瀬たちに連れられて外に出たのは自分でも信じられなかった。
思えばあの時、なにか希望の片鱗を感じ取っていたのかもしれない。
果たして足立は●●●●●と出会った。
視界に光が差し、全身に力がみなぎりめまいがするほどだった。
押しつぶされそうなほどの幸福と希望。
”彼”への好意はあの時崇拝に変わった。
その時、足立は――他の誰もの何もかもを諦めさせてでも、目の前に広がった道を進むと決めた。
アドマイヤは歪んだ笑みを浮かべ、右手をリコリスへとかざす。
「死者をも殺す冥王の息吹――【タナトス】!」
グランドスキルが発動する。
顕現した漆黒の死風がリコリスを襲い、そのHPを急激に減少させる。
(これは……! 確かに回避は不可能だ)
辺りに隠れられそうなものは無い。
あちこちの墓石はどれもサイズが小さく、そもそも崩れているものばかりで身体を隠す用途には使えない。
リコリスは《グレイシャ・ロッド》を振るい即席の氷の壁を作り出すが、それもあっという間に削られていく。
「あっはは、無駄無駄! あ、諦めちゃった方が気が楽だと思うけどなあ……!」
氷の風避けの甲斐あってか何とか持ちこたえる。
しかし早くもHPが危険域に達してしまった。
もう何度も食らえない。おそらくあと1秒余りほど浴びればアウトだ。
(地形には作用しないが、こちらの攻撃判定にも死を与える。武器の耐久値すらも削り取る……まったく、反則だ)
こうなるとアドマイヤ自体があまり強くないのが救いだったかもしれない。
あれではほとんど固定砲台だ。もちろん、それで充分という向きもあるが……。
「諦めてたまるか。私は妹の想いを背負ってるんだ!」
「い、いやいや。もういいじゃない。なんならあなたを今すぐログアウトさせてあげてもいいよ? そしたらもう無関係で終われるよね。け、結局人間って自分のことが一番かわいいんだから……ね? 私たちの邪魔しないでよ。そ、そうすれば誰も困らないんだってば」
それは、おそらく本音で言っているのだろう。
もともとこのアドマイヤという人物は戦いを避けたがっていたように見える。
だからここで頷けば本当にログアウトさせてくれるのだと思う。
アドマイヤは運営側の人間だ。オミットされたログアウト機能を戻すなり、外部操作なり可能だとしてもおかしくはない。
だがその言葉はリコリスの神経を逆撫でした。
「……ふざけるな」
「え?」
「誰も困らない? そんなわけがあるか」
この女はいったい何を言っているのか――腹の底から新たな怒りがふつふつと煮えたぎってくる。
「この世界に閉じ込められた1万人以上のプレイヤーに、マリスに狩られた人々。今も全員意識が戻っていないだろう」
それはリコリスも。
そして、先ほどアドマイヤに倒されたライラックもそうだ。
「自分の目的地だけを見つめ、その過程で踏みつぶしているものには目もくれない。お前のような人間を私は……私たちは許さない」
それは。
絶望の淵に沈んでいたリコリスを救ってくれたギルドリーダー、ユスティアの理念でもあった。
弱きを喰らうものを断つ。その想いが『ユグドラシル』を作り上げていた。
「ひ、ひひ、大人しくおうちに帰ってればよかったのに! 死者をも殺す冥王の息吹――」
「虚空は凍てつき冥河と果てて――――」
詠唱。
同時に錯覚ではない凄まじい冷気があたりに広がり墓地全体が氷に包まれる。
マジックスキルは詠唱を必要とするがゆえに発動が遅い。
しかし、それはグランドスキルも同じ。だから相手の起動コードに合わせればその弱点をカバーすることができる。
「――――【タナトス】!」
「【ヘイル・ブリゲート】」
リコリスの目前に、見上げるほどに巨大な氷塊が出現したかと思うと、間髪入れずに放たれた死の風を受け止める。
【タナトス】は相手の攻撃にさえ死をもたらすグランドスキル。まるでかき氷を作るように氷塊は見る間に削られていくが、その大質量は簡単には殺しきれない。
氷塊が跡形もなく消し去られた時には、風もまた止んでいた。
必殺のスキルが初めて防ぎ切られた事実にアドマイヤは眉間に皺を刻むも、すぐに彼女の身体からは黄金の光が迸る。
グランドスキルの連射を可能にするイリーガル、『堂々巡り』は翳り無く、次弾のための起動コードを紡ぐ。
「――――息吹……さ、さあさあ次いくよ! 君は何回持ちこたえられるかなあ……!」
「芽吹く災厄、降臨するは……!」
アドマイヤの挑発に、リコリスは詠唱で応える。
もう言葉を返す余裕が、今の彼女にはない。
びきり、とアバターには存在しないはずの脳が悲鳴を上げたような気がした。
(私に力を貸してくれ、莉羅……!)
「【タナトス】!」
「【ダイアモンド・エンパイア】!」
吹き荒れる黒風は、先ほどの氷塊よりもなお巨大な氷壁によって阻まれる。
何物をも通さない凍てつく障壁。それもまたあっけなく削り取られていくが、またも防ぎきることに成功した。
「ひ、ひひひ、近づけないねえ! 知ってるよ、そこからタナトスの起動コードに追いつけるマジックスキルで私を仕留める手だてはないはず! だから、た、耐えることしかできないんでしょう!」
「…………」
彼我の距離は数十メートル。
マジックスキルは詠唱が長いものほど威力と範囲、有効射程が上がっていく。
そしてリコリスには相手が起動コードを口にする間しか――どれだけ早口でも一文詠唱のマジックスキルだけしか使う暇がない。
アドマイヤの言う通り防ぐことはできでも、ここから攻撃して倒しきることは不可能だ。
しかし。
「だ、だから早く諦めちゃえば良かったんだよ、そしたら苦しい時間も短く済むのに! …………死者をも殺す冥王の息吹――」
「――――寒光燦然、永遠の冬」
もはや周囲の雑音は聞こえない。
それほどまでにリコリスの集中力は極限に達していた。
薄い唇から紡がれる詠唱によって、空気すらも凍りそうなほどに墓場が白んでいく。
「【タナ――――」
「【コキュートス】」
声も上げられなかった。
全てが止まった。
アドマイヤが自分の身になにが起こったのか理解するのに数秒の時間を要した。
(……う、うそ。うそうそうそッ! こんな、まさか――――)
アドマイヤの全身は氷山に閉じ込められていた。
全く身動きができず、今さらのように――死んだことに気づいたかのように、彼女のHPゲージが減り始め、ゼロになる。
(そ、そのスキルって確か三文詠唱だったはずなのに……)
開発中に一度だけ目にしたマジックスキル、【コキュートス】。
それは無限の射程で捉えた敵を巨大な氷山に閉じ込め即死級の大ダメージを与える技。
だが強力な分詠唱には三文――つまり相応の時間がかかる。
リコリスがそれを習得していたのは知っていた。事前に塔に侵入したプレイヤーたちのデータはある程度頭に入れていたから。
だからそれさえ撃たせなければ勝てると思っていた。
絶え間なく【タナトス】を撃ち続ければ詠唱の暇はない。
だが、
「偽装した……」
白い息を吐きながら、力尽きたようにリコリスが座り込む。
憔悴しきった表情からは精神的な疲労が見て取れた。
「私は詠唱を三分割した。ただ……それだけ……だ……」
アドマイヤは遠のく意識の中、その言葉で理解した。
つまり、リコリスは【コキュートス】の詠唱の合間に二つの無詠唱マジックスキルを発動していたということ。
だからアドマイヤは一文目と二文目の詠唱をそれぞれ【ヘイル・ブリゲート】【ダイアモンド・エンパイア】のものだと勘違いしたのだ。
複数のマジックスキルを同時に進行させ、さらに片方は無詠唱で発動する。
それは恐ろしく精細な技術を要する行為だ。
しかしリコリスはやってのけた。
妹のために――その一心が彼女の背中を押したのだ。
(……頭おかしいって……あーあ、ちゃんと詠唱の内容まで暗記しておくんだったなあ……そんなの無理か、ひひ)
陰鬱なクラシカルメイド、アドマイヤの身体がその牢獄たる氷山ごと消えていく。
仇敵の結末を見届けながら、リコリスは墓地の暗い空を見上げた。
「莉羅。お姉ちゃん勝ったよ」
長い長い道のりだったような気がする。
リコリスは、ようやく姉として少しだけ胸が張れるような気がした。




