301.遥かなる頂上
黒鉄の塔。
最上階。
ようやく辿りついた。
このイベントが始まってから、きっとそこまで時間は経っていない。
しかしミサキはあたかも夜通し走り続けたような気分だった。
肉体的な疲れは無くとも精神的には間違いなく消耗している。
だが。
「やっとついた……!」
それもあと少し。
ミサキとフラン、そしてリコリスの前には巨大な扉がそびえ立っていた。
そして、
「ようこそお越しくださいました」
慇懃な口調で、恭しく礼をするのはタキシードの美青年、哀神。
白瀬のいない今、運営のトップに位置すると思われる男。
彼はゆっくりと顔を上げる。
表情は無い。鉄面皮という言葉が似合いすぎるほどに哀神の相貌は凪いでいた。
「哀神さん……」
「ミサキ様。そしてお連れの方々――私が『最後の扉』の番人を務めさせていただいております」
最後。
彼はそう言った。
イベントの勝利条件はこの塔で待ち受ける運営チームを全て撃破することだった。
ならば哀神を倒せば終わりなのか、それとも。
「私で最後なのか。それともそうでないのか――疑問はもっともです」
思考を読まれた。
前から顔に出やすいタイプだとはたびたび言われていたがこのシチュエーションだと輪をかけて良い気がしない。
「おそらくあなたの想像通りだとは思いますが……結論から申しますと私が最後の相手ではございません。そうでなければここで番人をする意味がありませんからね」
「じゃあその向こうには誰が待ってるの?」
「…………それはあなた方自身の目でお確かめください。しかし、あなたならある程度の見当はついているのでは?」
哀神の言う通り。
おそらくこの戦いの全てを仕組んだ元凶。
ピオネの身体を乗っ取ったとされる”誰か”――それがあの扉の向こうにいる。
「しかし残念なことに、この私を倒してもあなた方はここを通ることは叶わないようです」
「え?」
「あれをご覧ください」
至極滑らかな動作で手を挙げる。
その先には扉の中央――六つの宝玉がはめ込まれていた。
その内三つは点灯しているものの、残りの三つは光を放っていなかった。
「あの宝玉はこちら側の番人が倒された数を表しています。現状倒されたのは三人、残りも三人。この私を省けば二人が倒されていないということ――つまり皆様の仲間が勝利していないということになります。いえ、敗北と言い換えてもいいかもしれませんが」
「敗北って……まだ決着が着いていないだけかもしれないだろう」
リコリスが反論する。
しかしそれは予想していたのか、哀神は首を横に振ると矩形のホログラムを手元に二つ生じさせた。
「私は常にこの塔で行われている戦闘はモニターしております。まだ戦闘が終了していない二つは……もうそろそろ運営側の勝利と言う形で決着するでしょう」
思わず息を呑んだのはミサキかそれとも他の二人か――全員か。
そのホログラムに映し出されていたのは、対戦相手に追い詰められるラブリカとライラックの姿だった。
「な……!」
「ライラ……」
「今のうちに説明しておきましょうか。プレイヤー側のHPがゼロになった時点で部屋の定員は空き、別の方でも入れるようになります。つまり……残ったあなた方の内二人が引き継いで戦うということも可能と言うことです」
負ける。
ラブリカとライラックが。
誰かが負ける可能性も考えてはいた。
しかしそれは考えていただけにすぎず――こうして実際につきつけられるとその重さに押しつぶされそうになる。
だが。
「で……でも、これから逆転するかもしれないでしょ!? まだ負けるなんて決まって……」
「ミサキ……さん」
張りつめた声に振り返ると、リコリスとフランが切迫した瞳で見据えてきた。
「ごめんなさい。あたしは行くわ」
「私も行かせてください」
「二人とも……」
「杞憂ならそれでよし。でももし本当に……」
負けてしまうなら。
そこまでは口にしなかったが、彼女たちの瞳が雄弁に語っていた。
確かにそうだ。
冷たい言い方にはなるかもしれないが、もし今番人と戦っているラブリカたちが負けてしまった場合、すぐに後を引き継がなければイベントクリアに費やす時間が膨らんでしまう。
今も塔の外ではマリスが暴れている。翡翠たちに任せたとは言え、被害は出来る限り少なくしたい。
そのためにはこのイベントを終わらせるのが最優先だ。
「……わかった。ここは任せて二人は行って」
「わかったわ」
「ええ!」
ミサキと頷きを交わすと、二人は踵を返して走り出す。
フランは空飛ぶ箒を取り出すと飛び乗って勢いよく階段を降下し始めた。
「ずいぶん親切なんですね」
「……ええ。これでもイベントは公平を期しております」
こんなイベントを開いている時点で公平も何もない。
そう思ったが、口にはしなかった。
何故か今の哀神からは嫌な感じがしなかったのだ。
彼の瞳はひとさじの迷いを湛えつつも、確固たる意志によって前へ進もうとしている人間のものだった。
「……仮にラブリカたちが負けたとして。その時は、きっとフランとリコリスが仇を討ってくれる。だから今のうちにあなたを倒しておかないとね」
ミサキは静かに拳を構え、敬語を外す。
元雇い主ではなく、年上の人間でもなく、対等な敵として見定める。
「イリーガルは?」
「ああ……私のアバターには搭載されておりません。固辞させていただきました」
「そうなんだ」
どうしてだろう。
その疑問は口にしなかった。仲良くおしゃべりしに来たわけではない。
だが――一瞬鉄面皮に浮かんで消えた嫌悪の色がその理由なのだろうか。
「しかし、一身上の都合によりあなたには全力を出していただきたい。そのために用意したのがこちらです」
力強く足が床に振り下ろされ、轟音が鳴り響く。
まるで震脚――しかしそれは攻撃や威嚇ではなく、言わばスイッチの役割を果たしていたようで、
「マリス・シード……!」
哀神の背中から見えない手に引き抜かれるようにして飛び出した黒い粘液が、彼の全身に纏わりつき、定着する。
今回のイベントで全員に配られたマリス・シードと似た挙動で彼を浸食する。
「……ふう。なるほど、中々に最悪の気分ですね」
タキシードに包まれている身体は肌の露出度が極めて低いのでわからないが、顔に黒い炎のような模様が走っていることをみると全身に定着しているのだろう。
悪意に染まったアバターの感覚を、彼はゆっくりと両手を開閉することで確かめる。
「それあんまり使わない方がいいよ。おすすめできない」
「百も承知です。あなたの全霊を引き出すにはこれしか無い」
確かに相手がマリスの力を使うなら、こちらも応じなければ戦いにならない。
だが、彼が使っているのは至極危険な力だ。そんなことは運営の人間なら――――
(……………………)
マリスを流していた元である運営なら、それこそ彼の言葉通り百も承知のはずだ。
あれは自然発生したものではない。意図的に作り出され、そして数々の実験を経て改”悪”されこのゲームを汚染した。
なりふり構わずに勝ちに来たのか。それともそれ以外の意図があると言うのか。
彼の言葉を信じるなら、ミサキの全力を求めての行動。
「界到」
そう呟き、首に巻いたマフラーを引き抜く。
マフラーはぐるぐるとミサキの周囲で渦を巻き、一瞬大きく膨らむとアバターに定着する。
見る者にピアノの鍵盤のような印象を与えてくる兎耳フードジャケット。
ミサキの持つマリスの力、マリシャスコート・シャドウスフィアだ。
その姿を見据えた哀神は腰のレイピアには目もくれず、両の拳を構えた。
「それ、使わないの」
「ええ。これは飾りのようなもの――私としては徒手空拳が一番肌に合う」
「そっか。わたしもだよ」
ミサキもまた同じく構える。
ぴり、と空気が張り詰める。
ぶつかる視線が空間を圧迫しているかのような戦意が二人の間に満ちていた。
「「――――――――!」」
数瞬の空白ののち、双方が同時に動き出す。
結末がどうなるにせよ。
このイベント――”アストラル・アリーナ”の終了が間近に迫っていた。




