281.深淵たる水底より
「――――――――――――!」
全身をマリスに飲み込まれようとしているエルダの上げる叫びが空間を揺さぶる。
いまやその喉から吐き散らされる声は人間のそれとは思えないほどに歪み切っていた。
だが。
それでも、深い悲しみだけは痛いほどにミサキの心を突き刺す。
(…………わたしの強さがエルダを追い詰めた)
目を逸らしていたのだと改めて自覚する。
フランの言葉に優しく導かれるようにして立ち直ったつもりだったが、それはただ自分が救われただけに過ぎない。
人の形を捨て去ろうとしているエルダ。
彼女をそうさせたのは他でもない自分自身。
そのことを思うと今すぐ膝をついて額を砂浜に埋め、許しを請いたくなる。
だが、そんなことにどれほどの意味があるのだろうか。
ただ自らの罪悪感が幾ばくか和らぐだけだ。
――――以前、人を深く傷つけた時。
ミサキは全てを投げ出そうとした。
何もかもから逃げ、目を逸らし、自らの命すらも投げ出そうとした。
それは一番許されないことだと今ならわかる。
自分の為した事と向き合うことこそ、本当の償いで――責任なのだと。
保護司の北条が言っていた。
自分の責任を自分で取れるのが大人だと。
ならば今、ミサキは大人への第一歩を歩み始めたのかもしれない。
「死ねエエエエエエッ!」
エルダの左腕が轟音を上げる。
放たれた複数の砲弾はそれぞれが黒い水竜の形を取り、鋭い牙が並ぶ大口を開きミサキへと殺到する。
恐ろしい弾速。そして上下左右から襲い掛かるそれに対処するのは至難の業だ。
「くっ!」
最初の一撃は影で薙ぎ払い爆散させる。
だが、次弾以降は――――
「追いつか……うあああああっ!」
水竜は次々に着弾すると大爆発を起こし、黒い水柱を高々と打ち上げる。
しかし目を血走らせたエルダは攻撃の手を緩めない。
今や腐肉に彩られたことで肥大化し脈動を始めたカトラスを腰だめに構えると、力任せに振り上げる。
その切っ先が砂浜を荒々しく削り取ると、黒い水しぶきが衝撃波となって地を這い直進すると水柱を真っ二つに両断した。
だが、まるでウェディングケーキのように割断された水の中にミサキの姿は無い。
理性を失いかけているエルダは、それでも弾かれたように空を見上げる。
あいつは――ミサキはこんな時、いつも同じことをしていたと。
その判断は正しい。
血の色に染まった空を背にしたミサキは空中を蹴って直下のエルダへと急降下を始めていた。
彼女の身体も無傷ではない。先ほどの水竜や衝撃波でアバターのあちこちが削れ、影による補填も間に合っていない。
全身を苛む痛みも相当なものだろう。精神だって衰弱していないはずがない。
だがその顔に迷いは無く。
その眼はエルダだけを見据えていた。
「――――――――!!」
咆哮と共にエルダの左腕の砲口から破壊の閃光、【パイレーツ・カノン】が発射される。
禍々しい輝きを放つ光の束がミサキの眼前まで迫り――その拳によって引き裂かれていく。
いや、その手に飲み込まれているのか。
「お願い……もう止まってエルダ……!!」
それは祈りだった。
あなたのそんな姿は見たくない。
もう戦いたくない。
前みたいにつつき合いみたいなやり取りをしたり、たまには遊んだりもしたい。
それはエゴだった。
しかしミサキは信じている――いや、知っている。
確かに自分がエルダを苦しめていたのかもしれない。
しかしそれだけではなかったはずだ。
(知ってるよ)
気に入らないと言いながらも話しかければ相手をしてくれたし、戦っている最中だって仏頂面だったり悪態をついたりしながらも、楽しそうだった瞬間が確かにあった。
決して仲良しこよしではなかったが、そんな関係が好きだった。
ミサキは見ていた。
ずっと見ていた。
だからこれは自惚れではないと知っている。
『エルダ遊ぼー!』
『またかよ! お前昨日やったばかりだろうが』
『えー、いいじゃん。わたしたちの仲なんだし』
『どういう仲だよ……仕方ねえな』
「――――エルダ……!」
彼女と対峙していろいろなことを考えた。
早く倒さなければとか、シオのことだとか……しかし、それら全てを追いやるほどに。
エルダを取り戻したいという想いが今、ミサキの心を燃やしていた。
「エルダ!!」
纏った影が膨張する。
天井破りに出力が上昇した拳が振るわれ、ついに。
ミサキの心がエルダを捉えた。
恐ろしいまでの轟音。
巻き起こる爆風に、砂浜全体が丸ごとめくれ上がったのではないかと思えるほどに舞い上がる。
「……………………」
ぱらぱらと雨のように降り注ぐ砂を受けながら、ミサキは仰向けに転がるエルダを見下ろす。
切れ長の眼は閉じられているが身体中に浸食した腐肉は今も脈動を続けていた。
その傍らにゆっくりと膝をつき、肩に触れる。精神に深く食い込むマリスの力を使っているからわかる。
今の彼女は完全に意識を失っている。
「エルダ。わたしは――――」
薄く唇を開いたミサキが何かを呟こうとした、その瞬間。
突然の衝撃でミサキの身体が吹き飛ばされる。
「な……!?」
前兆は無かった。
エルダの攻撃でもない。
ただ、拒絶という現象が形となって起きたかのようだった。
混乱に目を見開くミサキの視線の先。
エルダの全身の脈動が加速度的にその強さを増していく。
その音は空間を伝い、ミサキのアバターまで振動させるほどだった。
「近づけない……っ」
ドクン、ドクンと脈打つたびに衝撃波が広がり、接近を許さない。
そしてエルダの身体はみるみる腐肉に包まれその輪郭を変えていく。
まるで黒い繭に包まれたかのように。
あれは、なんだ。
ここまでの変貌は見たことがない。
いや――違う。むしろこれまで人の姿を保っていたのが異常だったのだ。本来なら最初から別の姿へ変貌していてもおかしくは無い
ミサキが初めてマリスに触れた時は何とか振り払うことができ、不完全ながらもその力を行使することができたがあくまでそれは例外。
エルダが感染したマリスが特別だったのではなく、違っていたのは本人の精神力だったのか。
目の前で起こる現象に呆然としながらも変貌は止まらない。
完全に形成されきった繭は突如として飛び上がる。
軌道は弧を描き、その着地点は――海。
深紅の空の下、不気味なほど静かに繭は沈み、その脈動が海面を揺らす。
波打つ海は何重もの波紋を生んだ。
「わたしの、せいだ」
ミサキはエルダの想いを受け止めるために正々堂々と戦うことを選んだ。
本来なら『シャドウスフィア』の力を容赦なく使うこともできた。しかしそうしなかったのはエルダの心の落としどころと、そして心身への影響を何よりも考えたからだ。
加減したわけではない。掛け値なしにミサキは全力だった。
だが、マリスの力が激しい苦痛をもたらすことは厳然たる事実として頭の片隅に鎮座していた。
それが最後の最後、拳を鈍らせてしまったのかもしれない。
実際にどうだったのかは、もはや本人にすらわからない。
しかし事実としてミサキはエルダを倒し意識を奪った。
だが。
意識を奪う。それはマリスへの抵抗力を奪うことと同義だ。
自分の生んだ結果を目の当たりにするミサキの前で海面が爆発する。
とてつもなく巨大な何かが誕生した。
「――――――――――――――――」
その産声は歌に似ていた。
美しい歌声で船乗りを惑わせ海に沈めるセイレーンという怪物をミサキは想起した。
……だがその姿は美しさとはかけ離れている。
そのシルエットは海上の要塞に似ていた。
しかしそれは形だけ。その体躯を構成しているのは数えきれないほどの触手。そして全身から突き出す無数の砲身だ。
まるでイソギンチャクとフジツボが合わさったかのようなその姿は名状しがたい禍々しさを湛えていた。
そしてその中心部分からはエルダの上半身だけが露出していて、その眼窩は虚ろで何も映してはいない。
もはやそこに本人の意志は無く。
圧倒的な悪意が抜け殻を媒体に全てを破壊しようとしていた。
「……エルダ。許してとは言わないよ。だから代わりに、あなたを助けさせて」
海の魔物を前にして、ミサキは一度緩めた手の力を込め直し、強く強く握りしめる。
手の震えを抑え込むように。絶対に救い出すという決意を秘める。
今度こそ、暗い海の底から。




