268.世界を変えるのは
手にしたスマホが振動する。
画面には、”シオ”と表示されていた。
前にアトリエで彼女の依頼を受けた時、連絡先を交換していたのだ。……大して使うことは無かったが。
しかし、今は目の前にいる園田みどりの懇願に答えようとしていた時だ。
もうあの世界には関わらないと。
だからこの通話は切るべきで――――
『……どうしたの? なにかあった?』
(――――ああ、そっか)
『そんなことないよ。だって悲しそうにしてるあなたを、わたしは見ちゃったもん。だから関係ある』
(わたしって確か…………)
『その『ちょっと』が全部を変えることもあるんだよ』
(最初は)
「みどり、ごめん」
覆いかぶさる園田の手をほどき、緑色の受話器を押す。
……シオに初めて出会ったとき。
悲しんでいた彼女を見ていられなくて、PKギルドに殴り込みに行った。
それが始まりだった。
園田の目が驚きに見開かれている。
しかし、今はそこから目を逸らす。
「シオちゃん。どうしたの? なにかあった?」
最初は誰かのためだった。やっぱりそれは否定しきれない。
恥ずかしくて『自分がムカつくから』なんて誤魔化したけど、大好きなゲームで誰かが悲しんでほしくなかったから手を差し伸べたのだ。
……いいや、もしかしたらそれもエゴかもしれない。
しかし神谷はそれでもいいと思う。
これが。これこそが、神谷の根幹なのだと、今やっとわかったから。
『――――ぁ、ミサキさん……!』
おそらく涙ぐんでいるであろうか細い声が右耳を震わせる。
懐かしい声だ。
これを聞いて自分は走り出したのだな、と再確認する。
あの時から全然変わっていない。
『あの、えっと……どうしよう、なにから話せば……』
「落ち着いて。大丈夫、聞くから」
まとまっていなくとも。
支離滅裂でも、向き合いたい。
『……! わ、かりました。その、先生が――――』
シオはつっかえながらも話してくれた。
エルダが、リアルではシオの担任教師だったこと。
その彼女……海堂香澄が意識不明となり病院に搬送されたこと。
しかし、
「え……でもその時間、わたしはエルダと会ったよ」
『そうなのです……! その時は私も運ばれたって知らなくて、でも運ばれた後に……』
出会ったのだという。
”あの状態”のエルダと。
『なん……ですか。その姿』
『……なんだ、シオか』
『どうしたのですか、なにがあってそんな……』
『お前はもうこの世界に来るな。金輪際……アタシと関わるな』
『エルダさん……? 待って!』
切り捨てるように向けられた背中を、それでも追おうとしたシオの鼻先にエルダは左腕の砲身を突き付けた。
恐怖と困惑で後ずさりしたシオから視線を外すと、エルダはどこかへと去って行った。
海堂香澄が意識不明になり、病院へ搬送された後もなおエルダが活動している。
明らかな異常事態だ。
『お願いです、ミサキさん』
弱弱しい声だった。
しかし、そこには強い意志が滲んでいた。
『あの人を助けてください』
「シオちゃん……」
『きっと苦しんでいたのです。それを誰にも……私にも打ち明けられなくて、こうなってしまった。私では……無理だったのです』
エルダの苦しみを、今のミサキは知っている。
それは周りから見ればちっぽけかもしれない。しかし彼女にとっては身を焼き焦がすほどの苦しみだった。
そこにミサキの手は届かないだろう。むしろ逆に燃え盛らせてしまうかもしれない。
しかし。
「エルダの苦しみは、わたしにはきっと取り除けない」
『――――……』
エルダはミサキに勝てないことが原因でああなってしまった。
その原因が何を言っても傷を癒せはしない。
「だけど」
あの世界で一番戦った相手はエルダだ。
彼女はずっとミサキのことを追いかけていた。
エルダにとっての宿敵がミサキであるように、ミサキにとってもまた――――
「わたしはエルダのライバルだから」
『…………!』
「だから……」
神谷はゆっくりと目の前の園田を見つめる。
濡れたエメラルドグリーンの瞳が、ひたむきに自分を見つめている。
その頬に流れる涙を指で拭ってやり、口の動きだけで「ごめんね」と伝える。
「わたし、戦うよ」
『ミサキさん……!』
「安心して。きっとエルダをシオちゃんの元に連れ帰ってくるから」
そう伝えて静かに通話を切る。
暗くなった液晶を数秒ほど眺め、顔を上げると園田は痛ましいものを見る瞳をしていた。
「……あの世界のことは、もう忘れてほしいです」
「うん……」
「本気なんですか。どうしてそこまで――――」
どうして。
理由。
シオが悲しんでいた。
そして、エルダもまた苦しんでいる。
それだけじゃない。
あの世界にはフランがいる。
いつか太陽を撃ち落とさんと睨みつけるヒマワリ、もしくはヒマワリを枯らし尽くしてやろうと燃え盛る太陽のごとき少女。
それがフランだ。あの自信に満ちた輝きが、神谷は好きだった。
ここで止まる理由はいくらでもある。
しかし――止まらない理由もまたしかり。
「ありがと、みどり」
「…………っ」
園田は唇をつぐみ、怖じるように手を握りしめる。
これから神谷が口にすることをわかっている。わかってくれている。
だからこそ、そんな表情をするのだと分かった。
園田は、神谷以上に神谷のことを知っているから。
「前にも同じようなことを言ってくれたよね」
――――どうしてあなたがそこまで頑張らないといけないんですか。
前回の『マリス・パレード』の時、際限なく出現し続けるマリスに忙殺されかかっていた神谷にかけたあの言葉。
園田の想いはずっと変わっていない。
なによりも、神谷のため。
「あれからずっと心配してくれてたんだよね」
そんな彼女の心をないがしろにしているという自覚はある。
しかし、そんな自分も受け入れてくれると、受けいれてほしいと――甘えてしまうのだ。
だから。
「わたし、やっぱりあの世界で出会ったみんなのこと大好きみたい。……走り出すにはそれだけで充分」
「…………そう、ですか」
園田はゆっくりと顔を上げる。
その目尻からひとしずくの涙が流れ、
「きっとあなたはそう言うって思ってました」
「みどり……」
心から嬉しそうに彼女は笑う。
「私もアカネちゃんも、いつだってあなたの味方です。だからあなたが折れてしまったら寄り添うつもりだった。だけど――まだ立ち上がるというのなら」
ふわり、と柔らかい感触。
抱きしめられている。それだけで心が安らぐ。
園田はいつでも、いつまでも寄り添ってくれる。ここが神谷にとっての帰る場所だ。
「どこまでも一緒です」
「……うん」
その温かさに目を閉じる。
今ならどこまでも走っていける、そんな気がした。
ここまで言ってもらえるならなおさら止まるわけにはいかない。
「あは、でもみどりがわたしを試すようなこと言うなんてね」
「うーん、諦めてくれたら嬉しかったのは本音ですよ? でもほんとに諦めてたらそれはそれで解釈違い起こして暴れてたかもです」
「怖いよ……」
ともあれ、するべきことはただひとつ。
この手でエルダを止める。




