262.崩冷のピラート
降りしきる雨の中、ミサキは防戦一方を強いられていた。
マリスの力を得たエルダは圧倒的だった。
パワーもスピードも以前とは比べ物にならない。
マップデータを破壊できるマリスの特性と相まって、舞台となった街の三叉路は爆撃を受けた戦地のごとく姿を変えていた。
「ハハハハ、楽しい! おい楽しいぞ! お前いつもこんな気持ちだったのかよ!」
哄笑を上げながら飛びかかってきたエルダの振り下ろすカトラスをステップで回避する。
しかしその攻撃で砕けた石畳の破片が舞い上がる中、笑みを作ったエルダが禍々しく変貌した左腕の砲身で薙ぎ払うと、ミサキの腹部にクリーンヒットした。
「がっ……!」
壁に激突しずるずると崩れ落ちるミサキだったが、止まっている余裕はない。
エルダはすでに左腕の砲口をこちらに向けている。
「【ハンギング・アンカー】!」
放たれたのは鎖に繋がれた巨大な錨。
まともに喰らえばミンチになる――ミサキは素早く飛び上がると鎖の上に着地し、綱渡りの要領で発射主であるエルダのもとへ駆け出して行く。
「させるかよ!」
その声と同時、鎖が意志を持ったかのようにうねりミサキの足を捉えた。
とっさに足元の影を操作して切り離そうとするが間に合わない。
ぐんっ、と真横への重力を感じた途端建物の壁面に頭から叩きつけられていた。
間髪入れず、さらに引っ張られる。
もう何度も食らえない――そう考えたミサキは今度こそ足に影を纏わせ、刃のように形を変えたそれで鎖を断ち切った。
解放された身体はその勢いのまま吹っ飛ぶが、マリシャスコート『シャドウスフィア』の力で空中を蹴ることで無理やり体勢を立て直す。
さらにそこから高速で空中を立体的に飛び回り攪乱を始めた。
「バカの一つ覚え――速さだけじゃ勝てねえよ」
視界から外れたミサキには目もくれず、エルダはカトラスを構えると黒い水しぶきを伴う回転切り――全方位を切り裂くスキル、【スプラッシュ・サークル】によって背後からの攻撃を迎撃する。
「くっ……!」
とっさに影でガードしたものの、貫通して胸元が浅く切り裂かれた。
焦りから後ろに跳んで素早く距離を取る――だが。
「癖になってるよなァ。とりあえず退くのがよ」
その声は間近から聞こえた。
いつの間に、と口にする間もなくカトラスによる激しい斬撃がミサキの全身を切り刻む。
「うああああああ!」
全身を苛む激痛に思わず叫び、濡れた地面に倒れ伏す。
マリスの力を使った戦いは現実以上の鮮烈な感覚を伴う。
通常の疑似的なものとはわけが違う、本物の苦痛だ。
マリスの力は精神に由来する。
HPの心配はないが――このままではいずれ削り切られる。
心を強く持たねば死を意味するのだ。
荒い息を吐き、震える手を地面につきながらエルダを見上げる。
その表情は嗜虐に彩られていた。宿敵を蹂躙するのが楽しくて仕方ないと物語っていた。
「…………エルダ」
「あん?」
「……何人殺した……?」
その問いに、悪意に堕ちた海賊は口の端を持ち上げる。
「覚えてねーなァ。自分から狩りに行ったわけじゃねーけどよ、あいつら興味本位で自分から寄ってきやがって……ちょっと指じゃ数えきれねーわ」
人の少なさに違和感はあった。
おそらくミサキたちが到着した時点ですでにエルダにやられていたのだろう。
「ハハ、悪いな。お前が来るまで暇だったもんでよ――アタシは便乗しただけみたいなもんだから。許してくれるよな。なァ?」
まるで友人に語り掛けるような調子でエルダは笑う。
だが、その声色には明確な悪意が潜んでいた。
弱者を踏みにじり、それを楽しむ悪辣な気性が顕在化していた。
「PK、やめたんじゃなかったの」
「ああ? まだそんなこと言ってんのかよ。今さらどうでもいいことだろ。んなことこだわるほどのことじゃねー。こんな世界、やりたいときにやらなきゃ損だろうが。お前だって公式戦とかイベント以外で他のやつ殺したことくらいあんだろ」
「それは向こうから襲ってきた時だけで――」
「関係ねーだろ。殺しは殺しだ」
思わず閉口するミサキに、エルダはなおも続ける。
「お前、自分が正しいと思ってないか? 自分が光の当たる道をまっすぐ歩いてると思ってやしないか。その道のりで、見えない何かを踏みつけているとは一度も考えなかったか?」
一転して、静かで理性的な口調だった。
普段のエルダとも違う、もしかしたらこれがリアルの彼女に近いのかもしれないと思った。
見るからにマリスに感染しているのに、そこが嫌になるほどアンバランスだった。
「お前はずっと無邪気に強さと勝利を求めていた。健全に、ひたむきに。だがその裏では無数の敗北者を生んでいる。お前が喜べば喜ぶほど、それとは正反対の感情を持つ者を増やしていった」
「それは……だって、勝負なんだから……!」
以前フランが言ってくれた。
『戦うのが楽しくていいし――それについて相手を慮る必要もないの』
勝った喜びも、負けた悔しさも、それは本人が享受するべきものだ。
ミサキはそう学んだ。
だが、見下ろすエルダの瞳は冷え切っていた。
「正論しか言えないならその口を閉じろ」
「……っ」
「確かにお前の言う通りだな。負けてもその悔しさをバネにしてもっと強くなればいい――だが、それをバネにできなければ? それで強くなってもまだ勝てなければ? そもそも敗北を受け入れられず悔しさに身を焼かれるままのやつはどうすりゃいいんだよ」
勢いよく振り下ろされたカトラスが、ミサキの右手を地面に縫い留める。
激痛が走り、思わず歯を食いしばるが――それよりも。
エルダの言葉に、心臓が握りつぶされるような衝撃を受けていた。
あの時、確かにフランのおかげで立ち直ることはできた。
気にしなくていいと前を向くことができた。
しかしそれはただの自己満足だったのかもしれない。独りよがりに過ぎなかったのかもしれない。
「お前だって負けることもあるだろう。アタシが勝つこともたまにはあったからな。だがお前はいつもそこから這い上がった。強くなって、勝利を掴んできた」
少しずつ、その声色が変わる。
最初は喜びだった。そしてさっきは怒気。しかし今は――明らかな、悲しみ。
「じゃあアタシみたいなやつはどうりゃいいんだよ。どれだけ努力しても壁に阻まれるんだ。折れたっていいだろ。仕方ないだろ。だからこうやっておかしな力に手を染めるんだ。それの何がおかしいってんだよ」
「エルダ……!」
「その目でアタシを見るんじゃねえッ!」
エルダの足が何度もミサキの頭を踏みつける。
現実ならばとっくに砕けているような衝撃が続く。
ゴン、ゴン、と鈍い音が何度も何度も三叉路に響いた。
「――――ぁ」
「もういいだろ。たまにはアタシに勝たせろよ」
声も上げられなくなったミサキに、エルダは砲口を向ける。
周囲の雨粒がそこに吸い込まれていき、黒々としたとてつもないエネルギーへと変換されていく。
「…………【パイレーツ・カノン】」
ともすれば雨音に遮られてしまいそうな呟きと同時、本来のそれとはかけ離れた規模を持つ破壊の光線が放たれ、ミサキを飲み込んだ。




