238.アルファ集合知
何も覚えてない。
何も持ってない。
自分が誰だかわからない。
光る円形の床から出ることが叶わない状況の中、あたしは何匹もの悪魔に命を狙われている。
いったいどういう経緯でこんなことになったのか。
どうしてこのような窮地に晒されているのか。
一切わからないが……とりあえずひとつだけわかることは、この小さな悪魔たちをどうにかしないとここで死ぬということだ。
「どうしろっての、よっ!」
飛びかかってきた悪魔の爪の下をくぐる様に前転し、体勢を立て直す。
最初に切り裂かれた背中は熱く、じんじんとリアルな痛みがあたしの身体を苛んでいた。
武器は無い。いつもは何か持っていたような気がするが、その記憶も無い。
素手で戦うしかないのだろうか。
そんな戦い方はしたことがない……まあ覚えていないので当然だが。
というかこんな相手に素手って。そんな――じゃあるまいし。
「…………え?」
一瞬思考に空白が生まれ、直後刺すような頭痛に襲われた。
思わず頭を抱えてうずくまる。
これは、なに?
あたしは……何かを思い出そうとしている。
霞がかった頭の中に少しずつ輪郭が浮かび上がっていく。
そんなことをしている間に悪魔たちが忍び寄っている気配を感じるが、それを気にしている余裕は無かった。
「こえ、が……聞こえる……」
長い長いトンネルの向こうから反響するような音。
頭に響くその声は少しずつ近づき、鮮明になっていく。
そして霞の中の輪郭も、同時に人の姿だと認識できるようになってきた。
こちらへ向かって手を伸ばしている、小柄な人影。
「あなたは……」
《――――――――フラン!》
瞬間、手の中に戻って来た感覚を一気に振りぬくと、襲いかかってきた悪魔たちがまとめて吹き飛ばされる。
怪鳥のような声を上げて宙を舞った彼らは、ぼとぼとぼと、と地に落ちる。
頭を覆っていた膜が剥がれたかのような、すがすがしい気分だった。
右手に握りしめた長杖をバトンのように回転させ、握りなおす。
「やっと思い出したわ。あたしの名前は……フラン。天才錬金術士、フラン!」
導かれるようにして右手を掲げると、この空間自体から何条もの青い光が手の内に集まり、形を成す。
それは手のひらサイズの爆弾だ。あたしは身体に染みついた動作でそれを投げつける。
爆弾は空中で大爆発を起こし、立ち上がろうとしていた悪魔たちを再び吹き飛ばし見えない壁に叩きつけた。
「誰だか知らないけどありがとう! 思いだせたのはこれだけだけど、あたしがすごいやつだってのがわかっただけでも充分よ!」
霞に浮かぶ誰かの人影はまだおぼろげだけど、きっとすぐに思いだせる。
頼りなかったこの身体と心には、今や強く軸が通された。
「さて、こんな雑魚はさっさと倒して進まなきゃ」
そして名も姿も思い出せないあの子に会いに行くのだ。
きっと仲良くできるはず。それくらいはわかる。
だってあたしは天才なのだから。
タワーディフェンスイベント『クライムネスト』。
攻撃側のチームアルファと防衛側のチームベータに分かれ戦うこのイベントの目的地、つまりチームベータが守る黒いタケノコのような塔を目指すミサキは、その塔が鎮座する都市で狙撃手に狙われていた。
狙撃手の名は翡翠。
恐ろしいほどの狙撃精度を誇るガンナー。
遮蔽物を使って何とか切り抜けようとしたミサキだったが、翡翠による自由自在の跳弾によって全方位から狙われることとなってしまった。
(これじゃ遮蔽物も関係ない……!)
ひとつだけ幸いだったのは、現時点で狙われているのがミサキだけだという点だろうか。
今この都市には他にチームメンバーのシオがいる。彼女が狙われればひとたまりもない上に守る余裕もない。
今は離れた場所にいて正確なところが把握できないが、ひとまずは安全だろう。
そう判断したのは翡翠の放つ尋常ではないプレッシャーだ。
360度から視線で舐め上げられているような、針のむしろどころかアイアンメイデンに閉じ込められた気分だった。
ゲーム内なので汗は出ないが、代わりに心臓の音がうるさいくらいに響く。脈拍が上がりすぎて強制ログアウトされるのではないかと不安になってしまう。
「あぶなっ!!」
また銃弾。今度は斜め下から顔面を狙ってきた。
無理やり上半身を反らして回避するが、弾丸は頬を掠めて行った。
撃つたびに精度が上がって来ている。こちらの姿は見えないはずなのに、ありえない。
「……でも翡翠だもんね……」
あの子ならそれくらいやるか、と謎の信頼を預けてしまう。
こと相手がミサキに限っては、行動の全てを読んでくるような執念ともいえる想いの強さと観察眼を持つ少女だ。
しかしこれでは隠れる意味がない。
どこにいても照準が心臓を狙う。
何とか位置を探って撃破しなければ先が続かない――覚悟を決め、リスクを背負って近づくしかない、と足を地面に滑らせた時だった。
『ミサキちゃん聞こえてるー?』
『こちらスズリ。街に到着した』
「…………!」
思わず目を見開く。
あの二人が来てくれた。やはりゲーム開始時の落下では死んでいなかったのだ。
これ以上なく頼もしい戦力が来たことで精神に余裕が生まれる。
さらに、
『先輩? 愛しの後輩が着きましたよーっ!』
『あの、ルキです。繋がってるかな……』
さらにもう二人の声が耳に届く。
おそらくこの都市内ならチャットが通じるのだろう。
しかしあまり声を出してしまうと標的がそちらに向きかねない。
ミサキは声のボリュームを落として囁くように現状を説明する。
「みんな聞いて。今この街には翡翠がいる。超精度の跳弾でどこからでも狙ってくるから、音出したら死ぬよ……まあ、いまはわたしだけしか見てないみたいだけど、いつ標的が変わるかわからない」
通話の向こうで息を飲んだ気配が重なった。
だが、その中で一人だけ弾んだ声色を出す者がいた。
『へー、へーへー。おもろいやん』
「クルエドロップ……あのね、あの子ほんとにやばいんだって」
『うん、わかるで。うちら街の入り口におるけどこっからでもえぐい気配がビリビリくるもん』
やっぱりわかるのか。
気配というのはこの世界において存在するかわからないような眉唾物の概念だが、上位プレイヤーの間では”ある”というのが通説になっている。
というか、いま感じている翡翠のプレッシャーが気のせいだったらミサキは何も信じられない。
「とにかく翡翠を倒して中央にある黒いタケノコ塔に行かないと……」
『あの、ミサキさん』
そこで控えめな声が加わった。さっきまで行動を共にしていたシオだ。
振り返ると、広場の反対側の路地にしゃがみ込んだシオがこちらを見ている。
「なに?」
『倒さなくてもいいのではないですか? 塔にさえ辿りつけばいいのですから、翡翠さんをスルーするとか』
「……いや、さすがに現実的じゃ」
『ええやん。それで行こう』
その発言に、その場の誰もが驚いた。
翡翠の目から逃れるなど、不可能に近い。
「で、でも戦わないと意味ないと思うんだけど」
そう、そもそもこのイベントの趣旨はフランを復活させること。
だから本気で争わなければならないのだが……。
『まあまあ聞いてや。あのな――――』
そんなことは承知済みだと言わんばかりにクルエドロップは作戦を話す。
普段は恐ろしいが、味方につけると頼もしい。
彼女はそんなプレイヤーだった。




