198.One of many
追いかけているのは自分なのに、追われているような気がする。
それはおそらく勘違いではないだろう。
「逃げられないよ」
マリシャスコートを身にまとうミサキは密林を風のように駆け抜ける。
前方には高速で低空飛行するマリスの姿が見える。フライングフィッシュの先端に穴だらけのボウリングの球を取り付けたような、無機質な形状のマリスだ。
細長い胴体の側面についた五対の羽根を波打たせて飛ぶマリスに、両足に纏わせた影を爆発させて追随する。
確実にミサキの方が速い。しかし彼我の速度差は小さく、このままでは手が届くまでに少なからず時間がかかる。
「…………」
ミサキの眉間に皺が刻まれる。
こんな相手に手こずっている場合ではない。他の場所でもマリスの被害は起きているのだから。
焦れているうちに、マリスはその球体の穴という穴から小型のミサイルのようなものを発射した。
ペットボトルロケットじみたふらふらした飛び方をするそのミサイルたちは、追いすがるミサキへと群がってくる。
数はおよそ10。それらの軌道と速度を把握したミサキは最小限の動きで数発を回避、さらに足元の影をうねらせ、触手のように操ってもう数発をはねのける。
そのまま目前に迫った最後の一発をつかみ取ると、流れるような動作で渾身の力を込めて投げ返した。
さっきとは打って変わり、一直線に空を貫くミサイルは逃げるマリスに着弾し、大爆発を起こした。
だがマリスは止まらない。広がった爆炎を突き破り、なおも飛行を続ける。しかしその速度は先ほどまでとは比べものにならないほど落ち、飛び方も頼りない。
その横へ黒い影が躍り出る。
マリスに追いついたミサキは影を膨張させて右腕に纏わせ、そのまま乱暴に振り下ろした。
ぐちゃ、という湿った音と共にマリスが四散する。
飛び散った黒い粘液はそこかしこの木々にへばりつき、跡形も無く蒸発した。
「次…………」
息つく間もない。
足に纏わせた影によって増幅された脚力で真上に跳躍したミサキは密林を抜け、そのまま高速の無限ジャンプで次のマリス発生地点へとすっとんでいく。
今日も今日とてマリス退治に追われていた。
もうまともにゲームを遊んだと言えるのは一週間以上前になるだろうか。
空を蹴って目的地を目指していると、鋭い頭痛がミサキを襲った。
「…………っ」
思わず頭を抑えるが、止まるわけにはいかない。
さっきのマリスにも数人餌食にされている。こうしている間にも誰かが襲われているかもしれない。
フランも別の場所で戦ってくれているはずだが、手が足りない。
追いつかないのに、マリスの討伐数だけが積み上がっていく。
このままでは取り返しのつかないことになってしまうのではないかという焦燥感が募る。
『――――ぱい。先輩! 聞こえてますか? お願いだから返事してください!』
ボイスチャットの泣きそうな声で我に返る。
ラブリカだ。今日もオペレーターをしてくれている。
「ごめん、さっきまでマリスの相手してた。あと何体いるんだっけ」
『……あと三……二体です。今フランさんが一体撃破しました。そこから一番近いのは海岸エリアの、』
「了解。今日はもう休んでいいよ」
『えっ、せんぱ――――』
ぷつん、とボイチャを切る。
そろそろ活動限界だ。
この『アストラル・アリーナ』……というか、人間の精神を電脳世界に落とし込むブリッジング技術には三時間という時間制限がある。それ以上は心身に異常をきたす可能性があるという――かなり余裕を持たせた時間設定ではあるが。
今日は、少なくともミサキとラブリカに限ってはログインしてから二時間半以上が経過している。三時間に達すると強制的にログアウトされてしまうので、それまでに終わらせなければならないし、疲労もばかにならない。
ここのところ、ゲームの中では常に意識がもうろうとしている。
体調の悪化によるログアウトが発生したら即ログインし直しているせいで身体への負担も激しい。
学校の授業もまともに聞いていられなくなった。気絶するように眠り、教師に起こされるのを繰り返している。
それでも。
「わたしたちしか……いないんだから」
誰もいない空で呟く。
ひときわ強く虚空を踏み出し、一気に加速した。
海岸の空は真っ赤に染まっていた。マリスがいる証だ。
もう最近はこちらの空の色のほうが見慣れてしまった。
空中から降下しつつ海面に視線を投げると、二人のプレイヤーが海中から出てきた触手のようなものに引きずり込まれようとしている。
「助けて……!」
「いやあああっ!」
ミサキはそこ目がけて軌道を変えると、影を纏わせた足を振るい、触手を切り裂いた。
途端、触手はぱっと水しぶきになって弾ける。海水そのものが形を変え、プレイヤーたちを戒めていたのだ。
海面に落ちる二人を一瞥する。名も知らぬ彼女たちはアバターの表情を恐怖に歪めていた。
ひとまず間に合ったことに安堵し、
「砂浜に投げるから着地はなんとか頑張って、あとはもうログアウトしてね!」
「「え?」」
揃った返事を無視して影で二人をぐるぐる巻きに、一周振り回すとハンマー投げの要領で放り投げた。
海面とほぼ平行の軌道ですっとんだ二人は砂浜に思い切り突っ込んで止まる。
とりあえず危機は脱した――そう胸をなで下ろした直後のことだった。
「がぼっ」
まるで足を踏み外したかのように、身体が海中へ沈む。
手足をばたつかせても全く浮上できない。足元を見ると、さっき二人を縛り付けていた水の触手が足に巻き付いているのが分かった。
そしてさらに深く、その水底。
おそらくこの現象の主がいた。
それはシュモクザメのような頭部をもつエイのようなマリスだった。
海底に伏せるように佇んでいて、その上面には人のような顔がついていた。
ぎょろりとした目に、ずらりと白い歯の並んだ口。
マリスはミサキの姿を確認したかと思うとにたりと笑い――――
「譚・縺溘◇縲∫佐迚ゥ縺?縲ゅお繧オ縺!!!!」
ノイズまみれの哄笑を上げた。
ミサキはきりきりと頭が締め付けられるような不快感に顔をしかめる。
(うるっさ……それにこの状況、けっこうきついな)
このゲームは水中に長くいるとHPが減少していく。
だから、専用の対策が必要とされる水棲モンスターは避けられがちだ。
しかしこの状況、足を取られて海中に引きずり込まれ、しかも海底に居座ったマリスが相手となると苦しい戦いを強いられるだろう。
とにかく酸素を確保しなければならない。
ミサキは足に巻き付いた海水を影で切断すると浮上を始める。
だが、
「ぐっ……」
間髪入れず、今度は四肢が拘束された。
海水で満たされたこの空間。どこからでも、どのタイミングでも触手を伸ばせるということなのだろう。
獲物は絶対に逃がさない。マリスの浮かべる嫌な笑みに、ミサキは眉をひそめる。
(海水を自在に操る能力。こんな時フランがいれば…………!)
しかし彼女は今別のマリスに当たっている。
だからどうしてもこのエイ型マリスはミサキ一人で仕留めなければ。
一瞬だけ目を閉じてから開く。
海中を脱するのは諦めた。減少を始めたHPが尽きるまでにこのマリスを倒す。
「………………っ!」
影を纏わせた四肢に力を込め、水の触手を力任せに引きちぎる。
驚愕の表情を浮かべるエイに向かってさらに深く潜り距離を縮めていく。
最悪死んでもいい。こいつさえ倒せるなら、必要なのは海底への片道切符だけで充分だ。
だが、そんなミサキの考えを――そして焦りを正確に読み取っていたマリスはその眼球をぎょろりと回転させ、口をがぱりと開いた。
何をするつもりだ、と警戒したのもつかの間。
その口腔から螺旋を描く海流が飛び出した。
あまりにも早すぎた。
反応はできず、反射的に身体を捩るだけにとどまった。
それが功を奏したのか、それとも九死に一生を得たのか。
螺旋海流は槍のようにミサキの脇腹を抉り取った。
「ぐあ……!」
マリスとの戦闘特有の激痛。
現実なら出血多量で死にかねないダメージ。
それを反映したかのようにミサキのHPが急激に減少する。
意識が遠のく。
自分がどこにいるのかわからなくなる。
視界が暗くなり、感覚が消え失せていく。
(…………ダメだ!)
根性論、精神論。
揶揄されがちな概念ではあるが、ミサキにとってはそれこそがもっとも重要なファクターだ。
気力も体力も尽きた時、あともう少しで届かない時。
そんな土壇場で無理やりの原動力を生み出すのは、心の力――ありていに言ってしまうと根性だ。
かっと目を見開くと、HPがミリだけ残して止まる。
今にも気絶しそうな中、ミサキは全身に力がみなぎるのを感じていた。
いつの間にか彼女の身体から溢れ出していた黄金の光が薄暗い海中を照らし出す。
グランドスキル。
戦闘によって溜まるゲージがマックスになると放てる最大のスキルだ。
事ここに至っては、圧倒的な被ダメージによって一気にゲージが溜まりきった。
しかし黄金の光は一転、漆黒へと塗り替わる。
以前にもあった現象だ。マリスに感染したミサキが放とうとしたグランドスキルが全く別の何かへと変貌したことがある。
わずかな驚きを脇にどかして口を開く。
「来たれ、寂寞満たす漆黒よ――――」
いつもとは別の起動コードを、勝手に口が紡ぎ出す。
広げたミサキの両手に漆黒のエネルギーが充填されていく。
びりびりと海中を伝わる波動におののくマリスは口を大きく開くと、そこから再び海流の槍を放った。
「【ダークマター】」
遮るように呟かれたその言葉と共に両手を突き出すと、手のひらから膨大な漆黒の閃光が放たれる。
それは海流の先端とぶつかると容易く飲み込み、そのまま周囲の海そのものを食らいながら突き進む。
音が消える。
全てが破壊されていく。
「谿コ縺輔↑縺?〒縺上l縺医∴縺医∴縺――――――――」
その断末魔ごと、【ダークマター】はマリスを消し飛ばした。
あとには何も残らない。
削られた海と、水底と、そして。
「…………」
虚ろな表情を浮かべるミサキだけがその場に残された。




