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190.息づかいのノクターン


 好きな人の部屋に泊まる。

 その意味を姫野は嫌と言うほど思い知らされていた。


「ふいー、お待たせ」


「わ……」


 パジャマ姿で自室に帰ってきた部屋主を見て小さく声を漏らす。

 神谷は適当な調子で鼻歌を歌いながらベッドに座り込んだ。

 冬とは言え風呂上がりは暑いのか、ぱたぱたと服の首元をあおぐ。

 

 危険だ。

 何が危険かというと、胸元だ。

 緩くなった首元から覗く上気した肌が大胆にも見えてしまっている。

 姫野はそこから目が離せないでいた。


(無防備すぎますって……!)


 言った方がいいのだろうか。

 しかし気にしすぎるのも……と悩んだ末に伝えることにした。

 何よりも精神衛生上悪すぎる。 


「先輩、そのー……見えそうです。胸元」


「へ? ああ気にしないよわたし」


「私が気にするんですっ!」


 強く主張すると納得してくれたのか、神谷はあおぐのを止めた。

 

「…………」


「…………」


 少し気まずい沈黙が流れる。

 わざわざそんなことを言ったのだから当たり前ではあるが、姫野は余計なことを言ったと若干後悔し始めていた。

 神谷は気にしているのかいないのか、何やらスマホをいじっている。


「まだ寝るには早いよね」


「え……そ、そうですね。10時過ぎくらいなので」


 寝ようと思えば寝られるかもしれないが、せっかくのお泊まりだ。

 寝て次の朝になってしまえばこの時間は終わる。それはもったいない。

 

「この寮から学校まですぐそこですし、ちょっと夜更かししても大丈夫ですよね」


「そうだねー。ギリギリまで出なくても遅刻しないのが寮のいいとこだよ」


 まあ自分のことは自分でしないといけないからそこは大変かもね、と神谷は続ける。

 確かにトータルでは実家から通う方が楽そうだ、と納得する。

 ただ、それでも考えてしまうのは――――


「……私も寮にすればよかったな。そうしたら先輩ともっと一緒にいられたかもしれないのに」


「部屋けっこう空いてるよ。わたしも桃香が来てくれたら嬉しいな」


 神谷は冗談ではなく本気で言っているようだった。

 姫野はまだ一年だ。もうすぐ二年になるが、それでもちょうど二年間は寮生活を送ることができるだろう。

 きっと園田たちと同じように朝から晩まで同じ屋根の下で過ごせる。それはなにより幸せなことに思えた。


「いえ……いいんです」  


 しかし姫野は首を横に振る。

 距離が近ければいいというわけではないと思うからだ。

 それに神谷が卒業した後のことを考えると……。


「今は、これで」


 なにより毎日こんなことが続けば持たない。

 ただでさえさっきから心臓がかわいそうなくらいに脈を打っているのに。




 などと言いつつ。


「うわ、もうこんな時間」


 あれから学校の話や『アストラル・アリーナ』の話、園田たちのことで思いがけず話が弾み、気がつけばとっぷりと夜が更けていた。

 さすがにもう就寝しないと明日に響く時間帯である。

 外からはなにやらホーホーと鳥の鳴き声がしている。この寮は林に囲まれているので野鳥が住み着いているのだ。


「……寝ましょうか」 


「そうしよ。トイレ行っとく?」


「だ、大丈夫です」


 ならよし、と頷いた神谷は自分のベッドに潜り込み、掛け布団を広げる。

 

「隣空いてますよ」


「存じております……」


「えへ、一度言ってみたかったんだよねこれ」


 照れ笑いする神谷に反して姫野は一歩を踏み出せないでいた。

 この寮に予備の布団はない。厳密にはあるが、倉庫に長年放置されていたぼろぼろで埃まみれのものしかない。

 なぜかというとここの寮生は変わり者が多く、友人も少ないので外部の生徒を呼ぶことがまずないからだ。

 よって予備の布団などを使う機会も無く、補充する理由もないまま現在に至るというわけだ。


 ……実はいくつか空いている部屋があるし、ベッドもある程度綺麗に保たれているので使えなくはないのだが神谷が絶対に一緒に寝る!と言って聞かなかった。

 姫野としては眠れる気がしないので断りたかったのだが、『一緒に寝てくれないと寂しいよ……』としなを作る神谷には勝てず折れることになってしまった。惚れた方の負けである。


「……覚悟決めます!」

 

「なんでそんな死地に赴く戦士みたいな顔を……」


「死地です!」


「死地なの!?」


 驚く先輩を前に深呼吸を繰り返す後輩。

 そう、死地なのだ。もしかしたら今日ここで死ぬかもしれないという覚悟のもと、姫野はここにいる。

 

 いつまでもこうしていても仕方ない。

 深呼吸を繰り返し、何とか鼓動が緩くなったタイミングを見計らい、意を決して布団に潜り込む。


「お邪魔します……!」


「お邪魔するなら帰ってー」


「えっ……」


「ごめんうそうそ。これも言ってみたかっただけ」


 神谷がリモコンを使って消灯するとほとんど何も見えなくなる。

 閉じられた遮光カーテンからかすかに漏れる月明りで、すぐ近くのものがうっすら見える程度だ。

 

「桃香は寝るとき真っ暗にするタイプ?」


「…………」


「桃香?」


「え? なんでしたっけ」


「寝るとき暗いままで大丈夫?」


「あ、は、はい」


 姫野としてはそれどころではない。


 近いのだ。

 未だかつてない密着度で、しかもこれから寝なければならないという最難関クエストを前にしているのだ。


(やばいちかいすごいいい匂いする……!)


 そもそも大してサイズの大きいベッドではないので距離が近い。

 神谷の甘いミルクのような香りがダイレクトに鼻孔をくすぐり、頭がおかしくなりそうだった。


 実は何度も妄想したことがある。一緒に暮らして、とか。一緒のベッドで寝て、とか。

 それが今一部現実のものとなっているわけだが、とんでもない。

 こんなことが毎日続いたら死んでしまう。


 そしてシンプルに顔も近い。

 神谷は横向きになって寝るタイプなのだが、そのせいで顔がよく見えてしまう。

 このままでは呼吸も満足にできない。


 無自覚で良かった。本当に恐ろしい人だ。

 魔性と言ってもいい。

 この人が本気になれば大抵の人類は落とせてしまうのではないかと思ってしまうほどに暴力的だった。

 

 気づけば酩酊状態に近くなってしまった、そんな時。

 姫野の脳裏に、ここに来た本当の理由がよぎった。


(――――ああ)


 茹だった頭がいくらか冷えた。

 忘れてはならないこと。知らなければならないこと。

 それを確かめたかった。だからこうして姫野はここにいる。

 それを再確認すると、ひとりでに口が開いていた。


「先輩……」


「……ん? どうしたの、寝られない?」


「ちょっと聞きたいことがあるんです」


「いいよー、なんでも言ってー……」


 さすがに眠いのか目が若干とろんとしているのが分かる。

 少し申し訳ないと感じつつ、それでも姫野は踏み込んだ。

 

「……ずっと気になってたんです。私が記憶を無くした日……なにがあったんですか。私は何をしてたんですか」


 不自然に欠落した記憶。よそよそしくなった取り巻き。

 明らかに何かを隠している兄やフラン。

 きっと神谷が関係している。そして――それは隠さなければならないほどに姫野にとって重大なことだったはずだ。


 それを聞いた神谷は息を呑んで目を逸らした。


「それは……」 

 

「教えてください。そうでないと私は」


 あなたに向き合えなくなってしまう。

 

 夜闇の中で落とされたその言葉は、もう取り返すことができなかった。


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